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第三章ジュネーブ

第三章第六節(反撃1)

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                 六

 すでに日本代表の旗色は悪い。しかも本省からの訓電を期待できないと悟った芳澤は、自分の知る限りの知識と言葉で難局を乗り切ろうと、腹を決める。

「満州には過去に締結された諸条約に基づき、幾十万の日本人が居住している。これは非常に大事なことである」
 温和な声で話し始めた芳澤は、手始めに満洲における日本人のを訴えた。議場はシンと静まり、決して流暢りゅうちょうとは言えない芳澤の英語に聞き入った。

「満州には二十二万の中国兵が駐屯しているが、日本は条約の規定によってわずか一万の守備兵がいるのみ。しかも事件の発生した奉天近郊には、わが軍五百に対して実に二万四千の中国兵が駐屯していた」
 “二の矢”は声高に「弱者」を装う民国側が、実は関東軍の二十倍を超す兵力を擁する大軍であり、丸腰の日本人居留民に対して常に不安や脅威を与えてきたという事実に目を向けさせた。判官はんがんびいきの感情論に傾いた流れを引き戻すには、とにかく事実を淡々と語るに尽きる。
 そして十九日の会合における施肇基代表の発言を引き合いに、こう重ねた。
「中国代表は本事件が中国側の挑発無くして発生したと指摘した。しかし、かかる主張は明白な証拠なく、容認し得るものでない」

 奉天にある張学良軍は、今年の初夏から度々たびたび満鉄の運行妨害を繰り返し、巡察兵へ危害を加えてきた。満鉄の警護を任務とする関東軍にとって許し難い行為である。まして事変前の九月十日には、北大営ほくだいえいに駐屯する一個大隊が満鉄線を横切り皇姑屯こうことんへ移駐する際、「日本軍一蹴」、「付属地武力奪還」と叫びながら日本の巡察兵を挑発してきた。九月中旬にも、満鉄守備隊に対して夜間演習を行わないよう要求しながら、自分たちこそ商埠地しょうふちから付属地方面へ向けて歩砲兵の実弾射撃をともなう演習を実施するなど、奉天在住の日本人居留民を威嚇していたのだ。
 彼らは日頃から「日本軍人は近年実戦の経験にとぼしいが、我々は十年来の内戦によって十分実戦に習熟しているから、ひとたび戦闘となれば、日本軍をほふるなどたやすいことだ」と息巻いきまいていた。

 すでに述べたように、事変前の満洲は一触即発いっしょくそくはつの状態にあった。しかも“挑発”を繰り返してきたのは張学良軍の方ではないか。
 
発端ほったんは東北軍が奉天近郊の満鉄線路を爆破したことにある」

「日本軍の行動はあくまで自衛権の行使である」

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