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終幕
雷蔵は可哀想なほどに運が無い
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狐屋の店表。
大番頭の雷蔵が帳場の中で筆を持ったまま目を瞑り、様々な問題を頭の中で巡らせながら眉間に皺を刻んでいた。
あからさまに機嫌の悪そうな雷蔵を恐れて近づかないようにしているのに、空気を読まない事に定評がある青太郎がかまわず話しかけた。
「どうした雷蔵、やはり脇腹の怪我がまだ痛むんじゃないかい?」
顔を寄せて心配そうに訊いてくる青太郎を雷蔵は鬱陶しそうに押し除けて再び目を瞑る。
雷蔵が頭の中で思い返しているのは、愛姫を依頼主の元へ送り届けることが出来なかった事についてだ。
雷蔵としては風花たちを叩きのめした後で愛姫たちに追いつき、愛姫を言葉巧みに誘導して路を引き返させて、地上に戻ったところで今回の依頼主である米沢藩の上屋敷に愛姫を連れ込む腹づもりだったのだが……。
くそっ!
雷蔵は心中で毒づいた。
突然降ってきた吊り橋の残骸。
岩肌を削って作られた狭い道にいて、あれを避けられる術なんてなかった。
不運としかいいようの無い事故だったが、雷蔵の不運はそれに止まらなかった。
吊り橋の残骸と共に鍾乳洞の最深部まで落とされた雷蔵はそのまま気を失い、気が付いた時には浜町の診療所で柘榴と名乗る女に介抱されていた。
「あんた、誰だい?」
その問いを待っていたかのように柘榴は作り物のような笑顔でこう答えた。
「私はどこにでもいる普通の町娘で、たまたま散歩をしていたらあなたが倒れているのを見つけて、これは大変だと思って一生懸命ここまで運んできただけの、なんの怪しい所も無いあなたの命の恩人です。あ、名前は柘榴です。好きな食べ物は酢昆布で、生涯の伴侶を探して彷徨っている人生の旅人です」
……もう、どこから突っ込んでいいのかわからないほど胡散臭い女だった。
雷蔵が起き上がれるまで回復するのに四日かかったが、その間柘榴はずっと雷蔵の側にいて瞬きの回数が少ない爬虫類のような目で雷蔵を見守っていた。
それが本当に気持ち悪くて雷蔵は『もう大丈夫だから帰ってくれ、礼は後日必ずするから』という内容の言葉を柔らかい言い方に変えて何度も言ってみたのだが「気にしないで下さい。私は尽くすことに幸せを感じる女なんですよ。人からはよく『いいお嫁さんになるね』とかいわれるんですけどね!」と言い張って絶対に雷蔵から離れようとしなかった。
入院五日目になって柘榴の後輩だという女が来て「藤花様が早く戻って来いって怒っています。一緒に帰りましょう」と、半ば脅すように彼女をどこかに連れて行ったので、その隙に痛む脇腹を押さえながら籠に乗って逃げるように狐屋に戻って来た。
店に帰って来た雷蔵を見て大いに喜んだ青太郎が涙とか鼻水とか涎とか、とにかく顔からいろんな汁を迸らせながら抱きついてきた。これまでだったら「ええぃ鬱陶しい!」と蹴りとばすところだが、四日間ずっと柘榴につきまとわれていたのと比較すると、これくらいは可愛いものだと思えるようになっていた。
雷蔵は店に帰って来てすぐに愛姫の件の情報を集めた。
すぐに確認できた情報は愛姫の事よりも謀反未遂についてであった。
これは江戸の民たちの興味を大いに引いて、どのかわら版もそれを大々的に取り上げた。
かわら版でこの話を知った江戸っ子たちはその舞台となった鍾乳洞を見物しようとして、その入り口がある瓶底寺に大挙して押し掛けたらしいが、すでに幕府が崩落の危険があるという理由で井戸を封鎖したらしい。
この件に民たちの興味が集中しているからか、愛姫の件はかわら版はあまり出ておらず、その後の幕府の動きについては情報屋から買った。
愛姫は『秘密の抜け路』を逆方向から踏破して無事に江戸城内へと帰ったらしい。
分かりきっていた事だが、それが確定情報となった事で雷蔵はがっくりと肩を落とした。
雷蔵が方々の大名家から依頼されていた愛姫保護の仕事は完全に失敗した。
特に上杉家の期待に応えられなかったのは痛い。このような結果では増山屋の株取得に協力してくれとはとても言い出せない。
あのとき風花の邪魔さえなければ……と腹に据えかねるほどの怒りで大声を上げてしまいたくなるが、元凶だった風花はおそらくもうこの世にはいない。自分の手であの世に送ってやったのだから、と。それで少しだけ自分の心は慰められた。
ここで一つ、雷蔵が考えもしなかった事が起きていた。
愛姫が城に帰るまでの道中で何があったのかを幕府側は愛姫本人と御前沙汰で呼びつけた猫柳余三郎の証言で確認しており、その折に雷蔵の名が挙がって将軍の耳にも入ったらしい。
自分の名が将軍の耳に届いていることは狐屋に使者が訪れていたので疑いようの無い確かな情報だった。
使者から渡された文には雷蔵の傷が快癒したら一度城に顔を見せに来いという内容が書かれてあった。
その機会を利用して増山屋の株を狐屋に下るよう嘆願しようかと少しだけ考えた雷蔵だが、色々な利権が絡まっている株を取り扱う部署に就いている役人たちの頭上を飛び越えて、雷蔵が将軍に直談判しようもなら、仮に株を取得できたとて今後の商売で大いに障りがあることは明白だった。
権力者とのコネは商売上かなり強い効力を発揮するけれど、強すぎる薬は毒になるように、強すぎる権力に縋るのもまた毒となるのだ。
雷蔵が店に戻って来た日のうちに愛姫の件を依頼したあの武士が訪ねてきた。
幕府からいくらかの報奨金が下賜され、将軍からは感状を頂いたそうだ。
当然その程度の礼を求めて狐屋に仕事を依頼したわけではない武士は面白くなさそうに鼻息を吹いて、紫色の袱紗に包んだ金を畳の上に置くと「此度の駄賃だ。受け取れ」と突き放すように言って、その後は一言も発せずに無言で帰って行った。
あぁ、こんなに情け無ぇ結果しか出せなかった仕事は初めてだ。
裏口から帰る武士を見送った雷蔵は忸怩たる思いを噛みしめてその背中が見えなくなるまで頭を下げ続けた。
頭を上げると、向かいの家の庭から零れるように突き出た桜の枝が蕾を大きく膨らませていた。
どこかから鶯の鳴く声もする。
春は近い。
それでも今の雷蔵の心は寒く、鶯の声すら鬱陶しいほどだ。
ましてやそんな雷蔵の後ろで、
「あれ? あのお武家さん帰ってしまったのかい? 猫を探してたんじゃないのかい? 困ったな、どうしよう。せっかく初めて仕事をやり遂げたってのに、これじゃ報酬がもらえないよ。どうしよう雷蔵」
――と、ピーチクパーチク囀っているアホウ鳥の声などは耳障り以外の何物でもなかった。
済んでしまったことをいくら悔やんだところで元には戻れない。
雷蔵は自分の頬を軽く叩いて気持ちを切り替えた。
人は過去に戻れないのだから、これから出来ることで取り戻せばいい。
まずは株の管理をしている役人たちへの根回しから始めよう。
時間をかけて役人たち一人一人と懇意になろう。
大きな後ろ盾を得ることが出来なかったからには足元から固めていくしかない。
再びやる気を取り戻した雷蔵は、まだしつこく「なぁなぁ、雷蔵。猫どうしよう? ウチで飼っていいかねぇ」と囀っている声を完全に無視して店表に戻った。
いつも通りの涼やかな微笑で店表に出た雷蔵に早速一人の番頭が寄ってきた。
「大番頭。たった今増山屋の使いが来まして、増山屋の主人が先ほど息を引き取ったそうです」
「……」
雷蔵はキツイ立ち眩みを覚えて思わず畳に膝を着いた。
なぜこんな間の悪いことが次から次へと……。
増山屋の主人が亡くなったということは、もう根回しをしている暇が無いということだ。
己のあまりの運の悪さに心が折れそうになる。
「雷蔵? どうしたんだい? どこか具合が悪いのかい? 大変だ! 蘭助、おまえちょっと手塚先生を呼んで来ておくれ。急患だって!」
胸に不細工なデブ猫を抱いた青太郎が血相を変えて医者を呼びに行かせているのを、遠い世界で起きている出来事のように放心した表情で眺めていた雷蔵は内心で、
『阿呆め、てめぇがこの店の主人だろう。だったらあっしの事などでオタオタせずに、デケぇ商機を逃したことに頭を抱えやがれってんだ……くそっ!』
自分の苦悩を分かってくれる者が一人としていないこの店の状況に焦りと苛立ちと……たまらないほどの孤独を感じていた。
大番頭の雷蔵が帳場の中で筆を持ったまま目を瞑り、様々な問題を頭の中で巡らせながら眉間に皺を刻んでいた。
あからさまに機嫌の悪そうな雷蔵を恐れて近づかないようにしているのに、空気を読まない事に定評がある青太郎がかまわず話しかけた。
「どうした雷蔵、やはり脇腹の怪我がまだ痛むんじゃないかい?」
顔を寄せて心配そうに訊いてくる青太郎を雷蔵は鬱陶しそうに押し除けて再び目を瞑る。
雷蔵が頭の中で思い返しているのは、愛姫を依頼主の元へ送り届けることが出来なかった事についてだ。
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くそっ!
雷蔵は心中で毒づいた。
突然降ってきた吊り橋の残骸。
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不運としかいいようの無い事故だったが、雷蔵の不運はそれに止まらなかった。
吊り橋の残骸と共に鍾乳洞の最深部まで落とされた雷蔵はそのまま気を失い、気が付いた時には浜町の診療所で柘榴と名乗る女に介抱されていた。
「あんた、誰だい?」
その問いを待っていたかのように柘榴は作り物のような笑顔でこう答えた。
「私はどこにでもいる普通の町娘で、たまたま散歩をしていたらあなたが倒れているのを見つけて、これは大変だと思って一生懸命ここまで運んできただけの、なんの怪しい所も無いあなたの命の恩人です。あ、名前は柘榴です。好きな食べ物は酢昆布で、生涯の伴侶を探して彷徨っている人生の旅人です」
……もう、どこから突っ込んでいいのかわからないほど胡散臭い女だった。
雷蔵が起き上がれるまで回復するのに四日かかったが、その間柘榴はずっと雷蔵の側にいて瞬きの回数が少ない爬虫類のような目で雷蔵を見守っていた。
それが本当に気持ち悪くて雷蔵は『もう大丈夫だから帰ってくれ、礼は後日必ずするから』という内容の言葉を柔らかい言い方に変えて何度も言ってみたのだが「気にしないで下さい。私は尽くすことに幸せを感じる女なんですよ。人からはよく『いいお嫁さんになるね』とかいわれるんですけどね!」と言い張って絶対に雷蔵から離れようとしなかった。
入院五日目になって柘榴の後輩だという女が来て「藤花様が早く戻って来いって怒っています。一緒に帰りましょう」と、半ば脅すように彼女をどこかに連れて行ったので、その隙に痛む脇腹を押さえながら籠に乗って逃げるように狐屋に戻って来た。
店に帰って来た雷蔵を見て大いに喜んだ青太郎が涙とか鼻水とか涎とか、とにかく顔からいろんな汁を迸らせながら抱きついてきた。これまでだったら「ええぃ鬱陶しい!」と蹴りとばすところだが、四日間ずっと柘榴につきまとわれていたのと比較すると、これくらいは可愛いものだと思えるようになっていた。
雷蔵は店に帰って来てすぐに愛姫の件の情報を集めた。
すぐに確認できた情報は愛姫の事よりも謀反未遂についてであった。
これは江戸の民たちの興味を大いに引いて、どのかわら版もそれを大々的に取り上げた。
かわら版でこの話を知った江戸っ子たちはその舞台となった鍾乳洞を見物しようとして、その入り口がある瓶底寺に大挙して押し掛けたらしいが、すでに幕府が崩落の危険があるという理由で井戸を封鎖したらしい。
この件に民たちの興味が集中しているからか、愛姫の件はかわら版はあまり出ておらず、その後の幕府の動きについては情報屋から買った。
愛姫は『秘密の抜け路』を逆方向から踏破して無事に江戸城内へと帰ったらしい。
分かりきっていた事だが、それが確定情報となった事で雷蔵はがっくりと肩を落とした。
雷蔵が方々の大名家から依頼されていた愛姫保護の仕事は完全に失敗した。
特に上杉家の期待に応えられなかったのは痛い。このような結果では増山屋の株取得に協力してくれとはとても言い出せない。
あのとき風花の邪魔さえなければ……と腹に据えかねるほどの怒りで大声を上げてしまいたくなるが、元凶だった風花はおそらくもうこの世にはいない。自分の手であの世に送ってやったのだから、と。それで少しだけ自分の心は慰められた。
ここで一つ、雷蔵が考えもしなかった事が起きていた。
愛姫が城に帰るまでの道中で何があったのかを幕府側は愛姫本人と御前沙汰で呼びつけた猫柳余三郎の証言で確認しており、その折に雷蔵の名が挙がって将軍の耳にも入ったらしい。
自分の名が将軍の耳に届いていることは狐屋に使者が訪れていたので疑いようの無い確かな情報だった。
使者から渡された文には雷蔵の傷が快癒したら一度城に顔を見せに来いという内容が書かれてあった。
その機会を利用して増山屋の株を狐屋に下るよう嘆願しようかと少しだけ考えた雷蔵だが、色々な利権が絡まっている株を取り扱う部署に就いている役人たちの頭上を飛び越えて、雷蔵が将軍に直談判しようもなら、仮に株を取得できたとて今後の商売で大いに障りがあることは明白だった。
権力者とのコネは商売上かなり強い効力を発揮するけれど、強すぎる薬は毒になるように、強すぎる権力に縋るのもまた毒となるのだ。
雷蔵が店に戻って来た日のうちに愛姫の件を依頼したあの武士が訪ねてきた。
幕府からいくらかの報奨金が下賜され、将軍からは感状を頂いたそうだ。
当然その程度の礼を求めて狐屋に仕事を依頼したわけではない武士は面白くなさそうに鼻息を吹いて、紫色の袱紗に包んだ金を畳の上に置くと「此度の駄賃だ。受け取れ」と突き放すように言って、その後は一言も発せずに無言で帰って行った。
あぁ、こんなに情け無ぇ結果しか出せなかった仕事は初めてだ。
裏口から帰る武士を見送った雷蔵は忸怩たる思いを噛みしめてその背中が見えなくなるまで頭を下げ続けた。
頭を上げると、向かいの家の庭から零れるように突き出た桜の枝が蕾を大きく膨らませていた。
どこかから鶯の鳴く声もする。
春は近い。
それでも今の雷蔵の心は寒く、鶯の声すら鬱陶しいほどだ。
ましてやそんな雷蔵の後ろで、
「あれ? あのお武家さん帰ってしまったのかい? 猫を探してたんじゃないのかい? 困ったな、どうしよう。せっかく初めて仕事をやり遂げたってのに、これじゃ報酬がもらえないよ。どうしよう雷蔵」
――と、ピーチクパーチク囀っているアホウ鳥の声などは耳障り以外の何物でもなかった。
済んでしまったことをいくら悔やんだところで元には戻れない。
雷蔵は自分の頬を軽く叩いて気持ちを切り替えた。
人は過去に戻れないのだから、これから出来ることで取り戻せばいい。
まずは株の管理をしている役人たちへの根回しから始めよう。
時間をかけて役人たち一人一人と懇意になろう。
大きな後ろ盾を得ることが出来なかったからには足元から固めていくしかない。
再びやる気を取り戻した雷蔵は、まだしつこく「なぁなぁ、雷蔵。猫どうしよう? ウチで飼っていいかねぇ」と囀っている声を完全に無視して店表に戻った。
いつも通りの涼やかな微笑で店表に出た雷蔵に早速一人の番頭が寄ってきた。
「大番頭。たった今増山屋の使いが来まして、増山屋の主人が先ほど息を引き取ったそうです」
「……」
雷蔵はキツイ立ち眩みを覚えて思わず畳に膝を着いた。
なぜこんな間の悪いことが次から次へと……。
増山屋の主人が亡くなったということは、もう根回しをしている暇が無いということだ。
己のあまりの運の悪さに心が折れそうになる。
「雷蔵? どうしたんだい? どこか具合が悪いのかい? 大変だ! 蘭助、おまえちょっと手塚先生を呼んで来ておくれ。急患だって!」
胸に不細工なデブ猫を抱いた青太郎が血相を変えて医者を呼びに行かせているのを、遠い世界で起きている出来事のように放心した表情で眺めていた雷蔵は内心で、
『阿呆め、てめぇがこの店の主人だろう。だったらあっしの事などでオタオタせずに、デケぇ商機を逃したことに頭を抱えやがれってんだ……くそっ!』
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