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第九幕 三 「立ち入り禁止ですよね」

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     三

 長い長い夏の日差しが、やっとの思いで傾き始めた。
 強く照り続けていた光が、ようやく弱さを見せ始めて、少しずつ紅い色味を帯びていく。
 明るすぎる光を嫌った黒い人影の二人連れも、庭に姿を見せる時間帯になる。
 朝から忙しく立ち働いていた警察関係者も、昼下がりには引き揚げ始め、夕暮れともなると寂しいくらいに撤収を完了していた。あれだけ激しく瞬いていた赤色回転灯も、駐車スペースでごった返していた警察車両も、今は散り散りに帰ってしまった。
 閑散とした邸内は、警察の喧騒の賑やかさの分だけ、さらに孤独を上乗せして感じさせているようだった。
 道の途中ですれ違った庭師に軽く挨拶すると、ヒョウとリンは庭を進んでいく。当てのない散歩と言うよりは、目的地でもあるように迷いなく足を進めていくヒョウ。
 二人が立ち止まったのは、黄色いテープに囲まれた温室の前だった。地上の楽園のように存在していたガラス張りの箱庭。今は、警察関係者に踏み荒らされ、結界のように立ち入り禁止の黄色いテープが張られていた。
 立ち入り禁止テープの前に立ち、ヒョウは腕を組む。
「先生?」
 リンはヒョウの横顔を見上げた。
 だが、ヒョウから返事は返らない。温室の中を見つめたまま、ヒョウは彫刻のように立ち尽くし微動だにしなかった。
 ヒョウの視線に鋭さはなく、虚空に向けられているようで焦点を結んでいるのかどうかすら分からない。憮然とした表情で立つ様子は、美術館に展示された彫刻のようにも見える。確認作業のように、儀式のように、ヒョウは巧の自殺現場である温室を見つめ続けていた。
 ガラス張りの温室は、聖水のような雨に清められたようで、紅い穢れは洗われ、元の色彩を取り戻していた。宝石箱のように淡く輝き、胎内のように穏やかだ。
 その時、ふと温室内の影が動いた。
 ヒョウの瞳にも光が灯る。
「おや?誰かいらっしゃるようですね。立ち入り禁止と書かれているはずだというのに。」
 リンは背伸びをするようにして、温室の中を覗き込もうとする。
 ヒョウは長い足で張り巡らされた結界のテープを跨ぐと、温室の扉に手をかけた。
 リンは慌ててヒョウの後を追うと、テープをくぐった。
「失礼します。」
 中の人間に、堂々と声を掛けるヒョウ。
 突然の訪問者に、人影は驚愕で肩を震わせた。
「すみません。驚かれてしまいましたか?」
 微笑を浮かべ、仰々しく頭を下げるヒョウ。
 人影は、ヒョウの後ろから覗き込むリンの姿に安堵を見せた。
「あっ、探偵さん。それに、リンちゃん。」
 温室に一人佇んでいたのは、お仕着せ姿の杏子だった。朝、広間で会った時よりは足取りもしっかりしていたが、顔色は蒼白のままだった。可憐で清楚な雰囲気が、ショックから立ち直れずにいる彼女の儚さを際立たせている。
「こちらに、いつからいらしたんですか?」
「えっと、」
 返答を返せずに口ごもる。しばらく迷った挙句、諦めたように杏子は頭を下げた。
「すいません。立ち入り禁止ですよね。分かってたんですけど、どうしてもココにいたくて。」
 立ち去ろうと、杏子は歩き始めた。
 だが、そんな杏子にヒョウは微笑を向けた。
「いえいえ。そういう意味ならば、私も同罪でしょう。テープを跨ぎましたから。リンもテープをくぐっていましたし。」
 リンの同意の音も響く。
 杏子は立ち止まると、少しだけ微笑んだ。
「そうですね。」
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