彼岸の王と首斬り姫

KaoLi

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第九章

第六十九話 誰かを想う涙

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 ゆっくりと伏せた目を開けると乃花が橋具を抱き締めている光景が映った。どうやら橋具は怪我をしているようで、乃花の着物が血で濡れていた。頼守からの強い拒絶により彼が怪我をした一部始終を見ていたわけじゃない。朧気おぼろげな記憶を辿るようにして水埜辺は乃花を見つめる。

「父上……うぅ……」

 ――乃花が、泣いている。

 今日は泣く顔を見ることが多いな、とまだ冴えない頭でぼんやりと思う。指先に少しだけ力を入れてみる。小さくではあるが動かすことが出来た。まだ、この体は生きている。先ほどまで冷たいと感じていた体も徐々に体温が戻りつつある。全身に血が巡っていることを確認すると、水埜辺はゆっくりと持たれていた木から背を離した。

「……乃花」
「水、埜辺……殿……」
「…………」

 橋具の口が空気を発し動いている。もう助からないと見越した上で彼女に何かを伝えようとしているのか。水埜辺は乃花の肩に手を添え優しく声を掛けた。

「乃花、橋具が何かをお前に伝えたがっている。耳を傾けてあげて」
「嫌、嫌だ! ……もう、助からないの? 半妖になれば……、半妖に! そうすればまだ間に合うんでしょ!」

 縋るような目で水埜辺を見る。だが、彼の血は流れ過ぎている。半妖にするにも血が足りなければ助かるものも助からない。酷とは思うが、これではもう……打つ手はない。

「乃花!」
「!」
「橋具の最期を無駄にするな! 今しかないんだぞ、今しか……。言葉は大事だ。聞いて、ちゃんと橋具が生きていたという証を記憶するんだ。それはお前にしか出来ない。まだ間に合う、間に合うから……!」

 自分が出来なかったことを、この子はまだ出来る。後悔してほしくない。そんな水埜辺の想いが伝わったのか、乃花は泣くことを堪えて橋具の口元に自分の右耳を近付けた。水埜辺には届かなかったが、微かに口元が揺れたところを読唇術で読み取ると「すまなかった。許しておくれ」と言っているように窺えた。そう言い残した彼は息を吐くようにして亡くなった。力が抜けた彼の体を、乃花はゆっくりと地面に寝かせる。そして泣き腫らした目元をぐしぐしと擦り拭き、頬を両手で喝を入れるように叩いた。

「大丈夫か?」
「……父の最期は受け取った。私はもう迷わない」
「そうか。では俺はもう行くから。お前はどこかに……」
「私も行く」
「……ん? 乃花さん今なんと?」
「私も行くと言ったんだ。それが?」

 ――これは……来るなと言っても聞いてはくれないんだろうなー。と内心、彼女の強情さに諦める水埜辺であった。

 ❀

「で、どうするつもりなんだ?」

 先ほどまで戦っていた場所まで戻ることにした二人は森の中を走っていた。途中、乃花が水埜辺に声を掛けた。彼女の表情は完全に吹っ切れている。清々しいなあ、とつい見つめていると水埜辺の視線に気付いたのか彼女はぶすっとした。

「……なんだ」
「あ、いや、ごめんごめん。ちょっと見惚みとれ……いや。なんでもない」

 水埜辺はわざとらしく咳払いをして話を逸らした。

「……有宗を倒すにはまずあいつに憑いている八岐大蛇をどうにかしないとな、と」
「どうにかって……」
「安心しろ、策が無いわけじゃない。あいつの持っている百絵巻さえ手に入れば、こっちのもんなんだがな」
「百絵巻……」

 一度破ったことがあるその名に乃花は少しだけ反応した。管狐の描かれていたという呪いの巻物。それと同じものを奪取し、破棄することで有宗の中に在る八岐大蛇をどうにか出来るという算段らしい。

「……奪った後はどうするんだ? ……! 水埜辺殿!?」

 奪った後のことを聞こうと、水埜辺に話しかけようとした時、彼は青い顔で近くの木に体を預けていた。
 そうだ、今まで普通に会話をしていたが彼は生死を彷徨うほどの大怪我を負っているのだ。いくら人間ではないからといって、この出血量は危険だ。

「大丈夫かっ? 少し休んでからでも、」
「……いいや、奴良野の皆が戦っているのに、俺がへばってちゃあ駄目だろう? ……心配してくれているのか。すまないな、ありがとう乃花」
「いや……それは別に、私は構わないんだが……」
「大丈夫だ! 俺は人間じゃないからな、そんなすぐにはくたばらないさ!」
「……」

 彼の笑顔を見てしまうと、それ以上何も言えなくなる。「さっきの質問だけどな、」と水埜辺が続けた。

「奪取した後は燃やすんだ。灰が残らないほどの熱さで焼かなければ、あの絵巻はまた新しい宿主に憑依する」
「……承知した……。!」

 目の端に有宗のような姿形をした人影を見つけた。乃花は口元に人差し指をゆっくりと持っていき水埜辺の目を見た。水埜辺も何かを悟ったらしく、静かに彼女の誘導に従う。木陰に身を寄せ、有宗の姿を確認する。そこにいたのは有宗――の体を依り代とした地に足を付けた八岐大蛇だった。乃花は思わず息を呑んだ。恐怖が全身に絡まる。震える彼女の体を、水埜辺は優しく抱き締めた。

「……ここまでの道案内、ありがとうな。すぐに終わらせてくるから。ここで待ってなさい。……大丈夫。俺はな、負けないさ!」

 その言葉を、信じてはいけないと全身が告げる。けれど乃花は体が動かせなかった。ただただ戦地へ赴く水埜辺を、見送るしかできなかった。
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