彼岸の王と首斬り姫

KaoLi

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第八章

第六十三話 決戦

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 そんなことが桔梗宮邸で起きているとは露知らず、乃花はただ一目散に走っていた。追手が容易に来ないであろう屋敷の裏道を、できる限り自分の出る最速の速さで走った。手入れのされていない木々の小枝が彼女の足を次々に傷付けていく。
 痛い、痛い! 痛いよ……と思うほど、目に涙が溜まっていくのが分かる。けれど、痛みよりも今はあの山を守らなければならないと本能が告げていた。きっと、有宗の所為で大勢の民が死んでしまう。芦屋親子も、麓の産婆も、水埜辺も……。
 それだけは絶対に阻止しなければならない! 無駄な犠牲は必要ない。この戦を阻止できるのは自分だけだと乃花は思っていた。
 必死だった。速く。もっと速く。止まるな、走れ、走れ、走れ! 心臓が痛い。足も痛い。

 ――もう意識が……。

 乃花はふらりと体勢を崩し、そのまま地面へと倒れ――ることはなかった。

「……え?」

 朦朧とした視界が徐々に鮮明になっていく。乃花は空を飛んでいた。読んで字の如く、彼女は空を飛んでいたのだ。何が何だか分からず、ただ数秒間呆然とする他なかったが、耳元近くで「ふはっ」と笑った声が聞こえたことで、今何が起きているのかを瞬時に理解した。

「く、くくっ。何をそんなに慌てているんだい、裏業?」
「……今全てを理解したぞ、奴良野水埜辺!」
「うお、ちょ、暴れないで! まだ完全に力を戻したわけじゃな、い……って、うわぁあ!」
「なっ、きゃぁあ!」

 乃花に抵抗され、変な平衡感覚に襲われ体勢を崩した水埜辺は危うく乃花を落としそうになり、彼女を庇いながら山の木々の中へと落ちていった。運良くというべきか、二人は木の上に落ち、地面への直撃を免れたことにほっと胸を撫で下ろした。

「……いや~、危なかったな~」
「何を呑気に! ……だが、庇ってくれて助かった。ありがとう」

 不器用ながらも乃花は助けられたことに対して水埜辺に礼を告げる。

「……いいえ~」

 水埜辺が表情を緩ませて笑う。この笑顔を、私は知っている。

「……どこか痛めたか?」
「へ?」
「いつもそうして笑っているだろう。痛みを誤魔化す時の癖だと勝手に思っていたんだが……。違ったか?」
「えと……」

 水埜辺は驚いた顔をした。自分の表情に気付いていなかったのか、はたまた、図星だったのか。水埜辺は言葉を探すほどに複雑な顔をしてみせた。

「大丈夫だよ。痛い所なんてないよ?」

 そう言って、水埜辺は乃花の頬を撫でた。ああそうか、心が痛いのか。乃花は彼の表情の答えに辿り着くと、それ以上は聞くことはないだろうと口をそっと結んだ。

「……それで? どうしてあんなところで全力疾走なんかしていたんだい? この着物、とても高いものだろう。せっかく可愛らしいのに勿体ない」
「どうして……って……そうだった! 水埜辺殿!」

 乃花は今木の上にいることを忘れ、勢いに任せて水埜辺の胸に飛び込んだ。水埜辺は咄嗟のことで驚いたが、しっかりと彼女を支えた。

「んっ?」
「明朝より父上の部下たちが……いや、あの男の命令で、奴良野山に火を放つと! すまない、もう少し早くあの男の陰謀に気が付いていれば芦屋殿も他の者たちも死なずに――」
「俺が、何の策もなく此岸に戻ったと思うかい、裏業?」

 水埜辺の表情は、焦った様子でも、怒った様子でもなかった。ただ、余裕があった。

「え……。で、でも、兵の数は二百は超える。いくら妖怪の貴方でも」
「そうだな~。俺一人なら、無理だろうな」
「……?」
「大丈夫だ。奴良野山の麓には今、水伊佐がいる。あいつがいれば敵が人間なら二百でも千でも敵うものか」

 その言葉には妙な説得力があり、乃花は開いた口を閉じた。水埜辺からの絶対的信頼を持っている水伊佐に、乃花は少しだけ嫉妬し、悔しいと思った。

「それよりも橋具くんだよ。裏業……いや、今は乃花か? どこから走ってきた?」
「それは、桔梗宮邸からに決まって……」

 水埜辺の目線が桔梗宮邸に向かっている。乃花も真似をして目線を追った。その先の光景に、驚愕した。声も出ないほど。
 走ってきた方向には確かに桔梗宮邸が存在していたはずだ。だがどうだ? 今まで住んでいた家族の象徴である屋敷が、今まさに全焼しかけようとしていた。赤く燃え上がっている屋敷を、乃花はただ受け止めることができないまま、見つめることしかできなかった。

「……どうして、こんな……。ひどい……」
「恐らく、有宗の仕業だろうな」
「……私の所為か……?」
「乃花?」
「だ、だって、あの男は私に異常な執着を見せていた。屋敷を抜けたことがバレて、あんなことをしたのだとしたら……。お定さんがっ!」

 乃花は今自分がどこにいるのかを気にも留めないで、桔梗宮邸に向かって体を動かした。ガササという音で我に返った時、彼女は水埜辺によって腰を抱えられていた。そうだ。今いるのは木の上。それも、少し太いだけの枝の上だ。あと一歩遅ければ彼女は一巻の終わりだったことだろう。

「なーにやってんの! 危ないでしょーが!」
「あ……水埜辺……殿……」

 水埜辺は乃花の頬を優しく両手で叩いた。少しの衝撃に乃花は思わず瞬きする。

「まだその人が死んだと決まったわけじゃない。逃げたかもしれない。……有宗は狂人だからな、ただ火の海が見たくてやっただけかもしれない。屋敷の者を逃がしたかもしれない。だから、君の所為じゃない。自分を責めてはいけないよ」
「……」
「……よし」

 乃花が落ち着いたところで水埜辺は地面への距離を確認し、ゆっくりと木の枝から離れた。着地した瞬間、後方から乱闘の声が微かに聞こえてきた。

「始まってる」
「えっ、そんな……」
「あっちには水伊佐がいるから、きっと大丈夫だ……。……乃花」
「なんだ」
「君はここで待っていなさい。戦いに巻き込まれてしまっては危険だからね」
「ふざけるな。私も戦うためにここまで来たんだ」
「止めても無駄か……。分かった分かった。だからそんなに俺を見つめるなよ」
「見つめてなどいない。睨んでいるんだ!」

 水埜辺は笑っていたが、次の瞬間、何かに気が付いたような素振りをした。乃花はそれを見逃さなかった。水埜辺は頬を人差し指でぽりぽりと掻く。乃花が何を言いたいのかを察したからである。仕方がないといった表情をして、その重たい口を開いた。

「侵攻軍の中に、有宗と橋具くんが見えた。あの様子だと橋具くんは妖怪に体を乗っ取られているな」
「父上が……!?」

 乃花は勢いよく走り出した。水埜辺はあまりの初速の速さに驚いて、彼女を追い掛けることに必死だった。だが、彼女の足は想像よりも速くすぐに追いつくことができない。これは、足の速さだけの問題ではなく、水埜辺自身の体力の問題でもあった。
 きっと全盛期の彼ならば、すぐに追いつくことができ彼女を捕まえられただろう。だが、もう彼の体は限界に近かった。さらに朔日という運の悪さが合致したことにより、彼女を捉えることができないでいた。
 桔梗院有宗さえいなければ。こんなことさえ起こさなければ。此岸に来る必要などなかった。

「……けど、これは逃げられない運命なんだろうな……」

 頬を一筋の汗が伝う。息が上がって、心臓が痛い。けれど足は止まらない。止められない。何故か、とは思わなかった。目の前に答えがあったからだ。水埜辺は、乃花を見失いこそしたが、それよりもまずは目の前の答えをどうにかしなければならないなと思っていた。むしろ、こちらの方が目的であったためである。

「……やぁ。中々彼岸に来てくれないものだから、こちらから出向いてしまったよ。桔梗院有宗」
「何を言っているんだい? 僕の忠告のお陰で君の国の防衛ができているんだろう、奴良野水埜辺?」

 二人は互いに殺気立ち、周りの空気を一変させた。

「随分と、息が上がっているようだけど。何か体の具合でも悪いのかい?」
「いやいや。歳の所為さ。……参っちゃうな~。乃花は若いから足が速くて敵わない」

 半分は冗談で、半分は本音だった。何の意図もなく喋っていた。しかし、どの言葉に反応したのか分からないが、一瞬有宗が反応したのを水埜辺は見逃さなかった。

「それで……奴良野山を進軍中の陰陽師様がこんな森の中で呑気に、たった一人に構っていてもいいのかい?」と水埜辺が挑発気味に言う。有宗は鼻で笑うと「大丈夫だ」と水埜辺を見つめた。

「もとより僕は妖怪おまえにしか興味が無い」
「俺に? てっきり、乃花を取り戻しに来たのだとばかり……、っ!」

 言葉を続けようとした次の瞬間、目で追えないほどの速さで有宗が水埜辺の喉元を的確に狙い、腰に差していた短刀を抜いた。だがその攻撃は寸でのところで躱される。間一髪と言うべきか、右額が喉の代わりに切られてしまい傷口から血が流れ出す。

「……へぇ。喉、搔っ切ってしまおうと思ったのに。存外、鈍いってわけでもなさそうだ」
「は、はは……。何を言うのやら。ちゃんと当たってますがな」

 ――不味いな……。視界を奪われたか。

『ぬちゃ……』と生温い血液が右目を覆っていくので、つい右目を伏せてしまう。これでは次の攻撃を見切り躱しきれるかどうか、と水埜辺は考える。
 けれど今は弱音を言っている場合ではない。命が、掛かっているのだ。
 水埜辺は母から拝借した『水竜丸』を抜刀しようと柄に手を掛ける。しかし右目が不自由になり、そちらにばかり気が向いてしまい上手く抜けそうになかった。はっと上を向いた時、有宗が刀を振り翳している光景が見えた――気がした。
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