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短編・中編や他の人物を中心にした物語
その鼠は龍と語らう10
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(こ、これ本当に黄祖をやれるんじゃねぇか?)
そう思ってから、主君たる孫権の横顔が浮かんだ。
(黄祖のことを呪縛って言ってたな……あの人を呪縛から解き放ってあげたいが……)
馮則の頭にそんな思いが湧いてくる。
しかしその矢先、黄祖の後姿が目に見えて加速するのに気づいた馮則は、そんなに簡単ではないことをすぐに理解した。
(あの馬……速い!)
一騎だけになった黄祖の黒馬は先ほどまでとは別の馬ではないかと見まがうほどに速度を上げた。どうやら護衛たちの馬に足を合わせていたようだ。
むしろ初めからこの一騎で逃げていたならば、すぐ森の中に入られて見失っていただろう。
ヒュンッ
と、白龍が興奮した声を上げた。闘争心に火が点いたのだろう。
これまでの簡単に勝てる相手とは違い、こいつは手応えがありそうだ。そんな気持ちが伝わってくるようだった。
先ほどの体当たりで速度を落としていた白龍だったが、すぐに再加速して黄祖の黒馬を追いかける。
馮則の手綱が力強く引っ張られ、これなら追いつくのは時間の問題なのではないかと感じられた。
相手も速いが、本気を出した白龍ほどではない。
「白龍はな、龍なんだよ。お前がいくら名馬だからって、龍には勝てないだろ?」
まるで自分のことを自慢しているようにつぶやいて、鞍の激しい揺れに身を任せた。
しかし不思議なことに、いくら走っても黄祖との距離が詰められない。
(いや……むしろ少しずつ離されるぞ?でもどうしてだ?足は白龍の方が速いと思うんだが……)
馮則は馬上で首をひねった。
見たところ、やはり白龍の方が足は速い。しかし少しずつ、少しずつ離されている。
よくよく観察して見ると、黄祖が細かく手綱を操作したり、馬上で体重を移動させているのが分かった。
それにより、森の中という障害物の多い場所での走行を最適なものにしているようだ。木の枝や茂み、足元の岩などが巧みに避けられていく様は名人芸と言っても良いだろう。
だから足自体は白龍の方が速いにも関わらず、少しずつ離されているのだった。
(……あの鈴ヤクザがジジイ、ジジイって言ってたからヨボヨボの爺さんだと思ってたのに、大した乗り手じゃねぇか!)
黄祖嫌いの甘寧がしょっちゅうそんな事を言っていたのを思い出す。
耄碌ジジイとも言っていたが、耄碌どころか乗馬の手本にしたいほどの走らせ方だ。
とはいえ、ここで甘寧の偏った情報に恨み言を並べても仕方がない。そもそも根本は、騎手の力の差ということなのだ。
(つまりは俺が白龍の力を引き出せないから、白龍が負けそうになってるってことだよな……)
それを理解した馮則の頭には、一人の男の顔が浮かんだ。
(趙雲さん……趙雲さんなら、お前の力を完璧に引き出せるのに……)
心中でつぶやくと、身を焦がすような口惜しさが胸の奥から湧き上がってきた。
奥歯を噛み締め、どうしたところで指示を聞いてもらえない手綱を強く握りしめる。
いや、指示を聞いてもらえないことだけが原因ではない。もし聞いてもらえても、調教師である自分は乗り手として一流とは言えない。
見るも見事な手綱さばきで逃げ続ける黄祖に勝てるほど、白龍を導ける自信は無かった。
(悔しい……)
白龍は馮則の誇りだ。その誇りが自分の力不足で敗れそうになっている。
自分で自分をぶん殴ってやりたくなるほど悔しかった。
「……白龍、俺はお前のことを龍だと思ってる。いくら群雄の乗るような名馬でも、馬に負けちゃいけねぇ」
馮則はそう告げて、持っていた槍を投げ捨てた。どうせあっても使えない槍だ。
それからただ一つになった武器である短刀を抜き、鞘を捨て、自分の皮鎧の紐を切った。
鎧はズルリと落ちて地面にぶつかり、音を立てて後方へと流れていった。
馮則はさらに自分の帯を切った。すると服も脱げ、兵士になって多少は鍛えられた肉体があらわになった。
(少しでも軽く……)
そういう目的でどんどん身につけているものを捨てていく。
何なら自分が下りようかとも思ったが、向こうは騎馬なのだ。人が乗っていないのでは、追い抜いたところで勝負と言えないだろう。
そうして身につけているものをどんどんと落とし、ついには下帯一丁になった。
そしてその下帯も切ろうとしたが、さすがにそれは思いとどまった。
「誇り高い龍に乗ってるんだ。股間をブランブランさせて乗るのも情けねぇってもんだよな。あんなのは前の訓練場の時だけで十分だ。代わりにこっちを切るから勘弁してくれよ」
馮則は自分の頭に手を伸ばし、髷を握った。
この時代は儒教的な教えで父母にもらった髪を切ってはならないと言われている。また髪には生命力が宿っているとも言われているので、男なら誰でも伸ばした髪で髷を結っている。
そしてその髷は神聖なものであり、切ったり剃ったりすることが刑罰として行われることもあったほどだった。それほど大切なものなのである。
しかし馮則はその大切な髷を一切の迷いなく、一息にスッパリと切った。ばらりと髪が顔に落ちてくる。
そして斬った髪を適当に放り捨てた上で、
「これが最後だ」
と言って、手にした短刀を前方の黄祖へ向かって投げつけた。
別に投擲の訓練などしていない馮則だが、上手い具合に兜の先に当たった。
黄祖は別にそれで怪我はしなかったものの、攻撃されたのは確かなので反射的に振り向き、そしてギョッとした。
背後にいた騎士は貧相とはいえ鎧武者であったはずなのに、下帯一丁のザンバラ髪になっているのだ。
何事かと思っただろう。
一方の馮則はなぜかスッキリした気分になっており、明るい声で愛馬へと呼びかけた。
「おら、白龍!もうこれ以上は軽くなれねぇぞ!気張って走れ!それともやっぱ、趙雲さんじゃねぇと力が出ねぇか!?」
その言葉を発した途端、馮則の体が後ろに倒れそうになった。
白龍がグンと加速したのだ。馮則には白龍がいっそう興奮したのが分かった。
「な、なんだよ……趙雲さんの名前を聞いただけで元気が出るのかよ!本当に仕方のないやつだな!」
馮則は高い笑い声を上げ、激しくなった揺れに体を合わせた。
白龍はどんどん加速し、動きもより直線的になったから、細かい枝が馮則の皮膚を傷つけて全身に赤い筋ができた。
しかし馮則にはそれが心地良い。次第に近くなってくる黄祖の背中を見ていると、痛みすら喜ばしい祝福のようだった。
「やっぱりだ!やっぱりお前の方が速い!お前の方が速い!」
視界の中の黄祖が次第に大きくなっていき、ついには真後ろまで来た。
そこから白龍はまるで飛ぶような跳躍を見せて黄祖の馬を抜き、斜め前へと躍り出た。
(勝った!)
駆け比べは白龍の勝ちだ。
そう叫びそうになった馮則の斜め後ろで、剣が鞘から抜かれる音がした。黄祖が腰に帯びていた剣を抜いたのだ。
当たり前の話だが、黄祖にとっては馬の優劣などどうでも良いことで、追手から逃れられればそれで良い。
そして追手から逃れるための一番確実な方法は、追手を殺すことだ。
「ぬんっ!」
気合の声と共に、防具どころか服すら身に着けていない馮則の背中へ向けて剣を振り下ろす。
老いたりとはいえ、やはりいくつもの戦場を乗り越えてきた将だ。その経歴に相応しい熟練の技で繰り出された刃が滑らかな軌道を描く。
しかし馮則はその斬撃を恐れてはいなかった。不思議と当たらないことが分かるのだ。
もちろんそのまま動かなければ当たる斬撃なのだが、動かないわけがないと分かっている。
そして馮則の感じた通り、白龍は動いてくれた。馬特有の広い視野でその攻撃を視認し、わずかに横に移動して剣をかわした。
(まるで白龍と一つになったみたいだ)
この瞬間、きっとこの瞬間だけではあろうが、馮則は人馬一体の境地を体験することができた。
その歓びたるや、我が身を龍に溶かして天に昇るようだった。
(でも、全部が全部おんぶに抱っこってわけにゃいかねぇよな!)
馮則はただ感動に身を任せるような愚は犯さず、そこから飛び出した。
まるで白龍の勇気が乗り移ったかのような声が肺の奥から迸る。
「うおおおおお!」
鞍を蹴り、黄祖に向かって飛びかかり、抱きついた。
馮則は小兵とはいえ、それでも人一人分の重さだ。それに黄祖は剣を空振った直後で体勢を崩している。
馬上で自身と敵の体重両方を支えることはできず、馮則もろとも真っ逆さまに落馬した。
ゴチンッ
という音が馮則の頭の中に響いた。どうやら地面に額をぶつけたらしい。
ただし意識を失うほどではない。倒れていてはすぐにでも殺されかねないので、ふらつく頭を叱咤して立ち上がった。
(石!石でぶん殴って……)
素手の自分にできるのはそれくらいだろうと思って足元に石を探すと、まだ倒れたままの黄祖と目が合った。
いや、目が合ったと思ったのは馮則の思い違いと言えるかもしれない。
黄祖の目はどこにも焦点が合っておらず、その首は不自然な方向に曲がっていた。
明らかに首の骨が折れている。
馮則の額からタラリと血が垂れてきたが、その程度で済んだのは全くもって幸運だったらしい。打ちどころの悪かった黄祖は即死していた。
「た、助かった……」
これ以上戦わなくて良くなったことに安堵し、馮則はその場にヘナヘナと崩れ落ちた。
そして動く気にもなれないまま座り込んでいると、馬蹄の音が近づいてきた。
人を乗せない状態での駆け比べを一通り楽しんだらしい白龍が帰ってきたのだ。
「……ああ、白龍、お疲れ様だったな」
馮則は力なく笑いかけながら立ち上がり、白龍の方へと歩を進めようとした。
が、その足がふと止まる。
何となく、白龍との間に妙な距離を感じたような気がしたのだ。
それはこれまでほとんど無視されていた時にも感じたことのない、初めての距離感だった。
白龍の澄んだ目から、物理的な距離以上の何かが感じられる。
そして馮則には、その距離感の意味が分かった気がした。
「……そうか、行くんだな」
それは問いかけというよりも、確認するような口調だった。今は確信と言っても過言ではないほどに、白龍の気持ちが分かる気がする。
「お前はこんな所で燻ってていい器じゃねぇんだよ。いい走りをして、ようやく気づいたか?俺はずっと知ってたぜ?」
黄祖の黒馬は名馬だった。白龍はそれに本気で勝とうとして、初めて己のことが分かったのだろう。
そしてさらに言えば、良い乗り手がいれば馬がより活きるということも見えたはずだ。
それは共に走った馮則も改めて強く認識できた。白龍は速かったが、もっと速くなれるのだ。
そして白龍は馮則に返答するように、ブルルンと喉を震わせた。
自分を最も速く駆けさせてくれる人の元へ行く。
その人は最も白龍の力を発揮させてくれる人であり、恐らくだが、最も白龍のことを理解してくれる人だ。
「できれば俺ももっと、お前のことを理解したかったんだけどな……」
そんな悔しい思いはあれども、龍と鼠だ。
見逃されるように乗せてもらえることはあっても、それ以上を望んではならない。
「でも、最後に礼くらいさせてくれ」
馮則はそう言って、己の額から頬へ流れる血を指につけた。
そしてその指先で白龍の美しい毛並みをなぞっていく。
しばらくすると、まっさらな白い首筋にいくつかの血文字が記された。
『劉左将軍主騎 趙雲』
左将軍というのは劉備が過去に任じられていた官職であり、今もそれを名乗っている。
こう書いておけば、気づいた人が趙雲のところへ連絡を入れてくれるかもしれないと考えたのだ。
それから少し茶目っ気を出し、
『昼千里 夜五百里』
と書き足した。
趙雲は、自分と白龍が一緒なら昼に千里、夜に五百里を踏破できると言っていた。一緒になるのだから、是非やって見せてくれという揶揄だ。
その冗談に自画自賛で満足し、白龍の手綱を引いて北西を向かせた。
「趙雲さんのいる樊城はあっちの方角だ。ここは森の中だけど、出来るだけ真っ直ぐ進むんだぞ」
白龍は馮則の指さす方をじっと見つめ、ブルルンと鳴いた。
そしてそれから馮則へと顔を寄せ、頬に流れる血をすくい取るようにペロリと舐めた。
昔、馮則が白龍をかばった時に付いた傷痕のある方の頬だ。
「お前……俺の血も連れてってくれるのか」
舐められた血はわずかでも白龍の血肉となり、共に駆けてくれるだろう。
馮則は自分の胸が膨らんで、内側から張り裂けるのではないかと思った。それくらい、そのことが誇らしかった。
「じゃあな、白龍」
その一言が別れの言葉だと、賢い白龍には分かったらしい。
いきなり棹立ちになって高くいななき、北西へ向かって駆け出した。相変わらず他のどの馬にもできないような、力強い走りを見せてくれる。
それを見送る馮則の目からそっと涙が流れ、頬を伝って落ちていった。
しかし白龍に舐められた頬を拭う気にはなれない。ただ涙の流れるに任せ、白龍の消えていった木立を見つめ続けた。
そう思ってから、主君たる孫権の横顔が浮かんだ。
(黄祖のことを呪縛って言ってたな……あの人を呪縛から解き放ってあげたいが……)
馮則の頭にそんな思いが湧いてくる。
しかしその矢先、黄祖の後姿が目に見えて加速するのに気づいた馮則は、そんなに簡単ではないことをすぐに理解した。
(あの馬……速い!)
一騎だけになった黄祖の黒馬は先ほどまでとは別の馬ではないかと見まがうほどに速度を上げた。どうやら護衛たちの馬に足を合わせていたようだ。
むしろ初めからこの一騎で逃げていたならば、すぐ森の中に入られて見失っていただろう。
ヒュンッ
と、白龍が興奮した声を上げた。闘争心に火が点いたのだろう。
これまでの簡単に勝てる相手とは違い、こいつは手応えがありそうだ。そんな気持ちが伝わってくるようだった。
先ほどの体当たりで速度を落としていた白龍だったが、すぐに再加速して黄祖の黒馬を追いかける。
馮則の手綱が力強く引っ張られ、これなら追いつくのは時間の問題なのではないかと感じられた。
相手も速いが、本気を出した白龍ほどではない。
「白龍はな、龍なんだよ。お前がいくら名馬だからって、龍には勝てないだろ?」
まるで自分のことを自慢しているようにつぶやいて、鞍の激しい揺れに身を任せた。
しかし不思議なことに、いくら走っても黄祖との距離が詰められない。
(いや……むしろ少しずつ離されるぞ?でもどうしてだ?足は白龍の方が速いと思うんだが……)
馮則は馬上で首をひねった。
見たところ、やはり白龍の方が足は速い。しかし少しずつ、少しずつ離されている。
よくよく観察して見ると、黄祖が細かく手綱を操作したり、馬上で体重を移動させているのが分かった。
それにより、森の中という障害物の多い場所での走行を最適なものにしているようだ。木の枝や茂み、足元の岩などが巧みに避けられていく様は名人芸と言っても良いだろう。
だから足自体は白龍の方が速いにも関わらず、少しずつ離されているのだった。
(……あの鈴ヤクザがジジイ、ジジイって言ってたからヨボヨボの爺さんだと思ってたのに、大した乗り手じゃねぇか!)
黄祖嫌いの甘寧がしょっちゅうそんな事を言っていたのを思い出す。
耄碌ジジイとも言っていたが、耄碌どころか乗馬の手本にしたいほどの走らせ方だ。
とはいえ、ここで甘寧の偏った情報に恨み言を並べても仕方がない。そもそも根本は、騎手の力の差ということなのだ。
(つまりは俺が白龍の力を引き出せないから、白龍が負けそうになってるってことだよな……)
それを理解した馮則の頭には、一人の男の顔が浮かんだ。
(趙雲さん……趙雲さんなら、お前の力を完璧に引き出せるのに……)
心中でつぶやくと、身を焦がすような口惜しさが胸の奥から湧き上がってきた。
奥歯を噛み締め、どうしたところで指示を聞いてもらえない手綱を強く握りしめる。
いや、指示を聞いてもらえないことだけが原因ではない。もし聞いてもらえても、調教師である自分は乗り手として一流とは言えない。
見るも見事な手綱さばきで逃げ続ける黄祖に勝てるほど、白龍を導ける自信は無かった。
(悔しい……)
白龍は馮則の誇りだ。その誇りが自分の力不足で敗れそうになっている。
自分で自分をぶん殴ってやりたくなるほど悔しかった。
「……白龍、俺はお前のことを龍だと思ってる。いくら群雄の乗るような名馬でも、馬に負けちゃいけねぇ」
馮則はそう告げて、持っていた槍を投げ捨てた。どうせあっても使えない槍だ。
それからただ一つになった武器である短刀を抜き、鞘を捨て、自分の皮鎧の紐を切った。
鎧はズルリと落ちて地面にぶつかり、音を立てて後方へと流れていった。
馮則はさらに自分の帯を切った。すると服も脱げ、兵士になって多少は鍛えられた肉体があらわになった。
(少しでも軽く……)
そういう目的でどんどん身につけているものを捨てていく。
何なら自分が下りようかとも思ったが、向こうは騎馬なのだ。人が乗っていないのでは、追い抜いたところで勝負と言えないだろう。
そうして身につけているものをどんどんと落とし、ついには下帯一丁になった。
そしてその下帯も切ろうとしたが、さすがにそれは思いとどまった。
「誇り高い龍に乗ってるんだ。股間をブランブランさせて乗るのも情けねぇってもんだよな。あんなのは前の訓練場の時だけで十分だ。代わりにこっちを切るから勘弁してくれよ」
馮則は自分の頭に手を伸ばし、髷を握った。
この時代は儒教的な教えで父母にもらった髪を切ってはならないと言われている。また髪には生命力が宿っているとも言われているので、男なら誰でも伸ばした髪で髷を結っている。
そしてその髷は神聖なものであり、切ったり剃ったりすることが刑罰として行われることもあったほどだった。それほど大切なものなのである。
しかし馮則はその大切な髷を一切の迷いなく、一息にスッパリと切った。ばらりと髪が顔に落ちてくる。
そして斬った髪を適当に放り捨てた上で、
「これが最後だ」
と言って、手にした短刀を前方の黄祖へ向かって投げつけた。
別に投擲の訓練などしていない馮則だが、上手い具合に兜の先に当たった。
黄祖は別にそれで怪我はしなかったものの、攻撃されたのは確かなので反射的に振り向き、そしてギョッとした。
背後にいた騎士は貧相とはいえ鎧武者であったはずなのに、下帯一丁のザンバラ髪になっているのだ。
何事かと思っただろう。
一方の馮則はなぜかスッキリした気分になっており、明るい声で愛馬へと呼びかけた。
「おら、白龍!もうこれ以上は軽くなれねぇぞ!気張って走れ!それともやっぱ、趙雲さんじゃねぇと力が出ねぇか!?」
その言葉を発した途端、馮則の体が後ろに倒れそうになった。
白龍がグンと加速したのだ。馮則には白龍がいっそう興奮したのが分かった。
「な、なんだよ……趙雲さんの名前を聞いただけで元気が出るのかよ!本当に仕方のないやつだな!」
馮則は高い笑い声を上げ、激しくなった揺れに体を合わせた。
白龍はどんどん加速し、動きもより直線的になったから、細かい枝が馮則の皮膚を傷つけて全身に赤い筋ができた。
しかし馮則にはそれが心地良い。次第に近くなってくる黄祖の背中を見ていると、痛みすら喜ばしい祝福のようだった。
「やっぱりだ!やっぱりお前の方が速い!お前の方が速い!」
視界の中の黄祖が次第に大きくなっていき、ついには真後ろまで来た。
そこから白龍はまるで飛ぶような跳躍を見せて黄祖の馬を抜き、斜め前へと躍り出た。
(勝った!)
駆け比べは白龍の勝ちだ。
そう叫びそうになった馮則の斜め後ろで、剣が鞘から抜かれる音がした。黄祖が腰に帯びていた剣を抜いたのだ。
当たり前の話だが、黄祖にとっては馬の優劣などどうでも良いことで、追手から逃れられればそれで良い。
そして追手から逃れるための一番確実な方法は、追手を殺すことだ。
「ぬんっ!」
気合の声と共に、防具どころか服すら身に着けていない馮則の背中へ向けて剣を振り下ろす。
老いたりとはいえ、やはりいくつもの戦場を乗り越えてきた将だ。その経歴に相応しい熟練の技で繰り出された刃が滑らかな軌道を描く。
しかし馮則はその斬撃を恐れてはいなかった。不思議と当たらないことが分かるのだ。
もちろんそのまま動かなければ当たる斬撃なのだが、動かないわけがないと分かっている。
そして馮則の感じた通り、白龍は動いてくれた。馬特有の広い視野でその攻撃を視認し、わずかに横に移動して剣をかわした。
(まるで白龍と一つになったみたいだ)
この瞬間、きっとこの瞬間だけではあろうが、馮則は人馬一体の境地を体験することができた。
その歓びたるや、我が身を龍に溶かして天に昇るようだった。
(でも、全部が全部おんぶに抱っこってわけにゃいかねぇよな!)
馮則はただ感動に身を任せるような愚は犯さず、そこから飛び出した。
まるで白龍の勇気が乗り移ったかのような声が肺の奥から迸る。
「うおおおおお!」
鞍を蹴り、黄祖に向かって飛びかかり、抱きついた。
馮則は小兵とはいえ、それでも人一人分の重さだ。それに黄祖は剣を空振った直後で体勢を崩している。
馬上で自身と敵の体重両方を支えることはできず、馮則もろとも真っ逆さまに落馬した。
ゴチンッ
という音が馮則の頭の中に響いた。どうやら地面に額をぶつけたらしい。
ただし意識を失うほどではない。倒れていてはすぐにでも殺されかねないので、ふらつく頭を叱咤して立ち上がった。
(石!石でぶん殴って……)
素手の自分にできるのはそれくらいだろうと思って足元に石を探すと、まだ倒れたままの黄祖と目が合った。
いや、目が合ったと思ったのは馮則の思い違いと言えるかもしれない。
黄祖の目はどこにも焦点が合っておらず、その首は不自然な方向に曲がっていた。
明らかに首の骨が折れている。
馮則の額からタラリと血が垂れてきたが、その程度で済んだのは全くもって幸運だったらしい。打ちどころの悪かった黄祖は即死していた。
「た、助かった……」
これ以上戦わなくて良くなったことに安堵し、馮則はその場にヘナヘナと崩れ落ちた。
そして動く気にもなれないまま座り込んでいると、馬蹄の音が近づいてきた。
人を乗せない状態での駆け比べを一通り楽しんだらしい白龍が帰ってきたのだ。
「……ああ、白龍、お疲れ様だったな」
馮則は力なく笑いかけながら立ち上がり、白龍の方へと歩を進めようとした。
が、その足がふと止まる。
何となく、白龍との間に妙な距離を感じたような気がしたのだ。
それはこれまでほとんど無視されていた時にも感じたことのない、初めての距離感だった。
白龍の澄んだ目から、物理的な距離以上の何かが感じられる。
そして馮則には、その距離感の意味が分かった気がした。
「……そうか、行くんだな」
それは問いかけというよりも、確認するような口調だった。今は確信と言っても過言ではないほどに、白龍の気持ちが分かる気がする。
「お前はこんな所で燻ってていい器じゃねぇんだよ。いい走りをして、ようやく気づいたか?俺はずっと知ってたぜ?」
黄祖の黒馬は名馬だった。白龍はそれに本気で勝とうとして、初めて己のことが分かったのだろう。
そしてさらに言えば、良い乗り手がいれば馬がより活きるということも見えたはずだ。
それは共に走った馮則も改めて強く認識できた。白龍は速かったが、もっと速くなれるのだ。
そして白龍は馮則に返答するように、ブルルンと喉を震わせた。
自分を最も速く駆けさせてくれる人の元へ行く。
その人は最も白龍の力を発揮させてくれる人であり、恐らくだが、最も白龍のことを理解してくれる人だ。
「できれば俺ももっと、お前のことを理解したかったんだけどな……」
そんな悔しい思いはあれども、龍と鼠だ。
見逃されるように乗せてもらえることはあっても、それ以上を望んではならない。
「でも、最後に礼くらいさせてくれ」
馮則はそう言って、己の額から頬へ流れる血を指につけた。
そしてその指先で白龍の美しい毛並みをなぞっていく。
しばらくすると、まっさらな白い首筋にいくつかの血文字が記された。
『劉左将軍主騎 趙雲』
左将軍というのは劉備が過去に任じられていた官職であり、今もそれを名乗っている。
こう書いておけば、気づいた人が趙雲のところへ連絡を入れてくれるかもしれないと考えたのだ。
それから少し茶目っ気を出し、
『昼千里 夜五百里』
と書き足した。
趙雲は、自分と白龍が一緒なら昼に千里、夜に五百里を踏破できると言っていた。一緒になるのだから、是非やって見せてくれという揶揄だ。
その冗談に自画自賛で満足し、白龍の手綱を引いて北西を向かせた。
「趙雲さんのいる樊城はあっちの方角だ。ここは森の中だけど、出来るだけ真っ直ぐ進むんだぞ」
白龍は馮則の指さす方をじっと見つめ、ブルルンと鳴いた。
そしてそれから馮則へと顔を寄せ、頬に流れる血をすくい取るようにペロリと舐めた。
昔、馮則が白龍をかばった時に付いた傷痕のある方の頬だ。
「お前……俺の血も連れてってくれるのか」
舐められた血はわずかでも白龍の血肉となり、共に駆けてくれるだろう。
馮則は自分の胸が膨らんで、内側から張り裂けるのではないかと思った。それくらい、そのことが誇らしかった。
「じゃあな、白龍」
その一言が別れの言葉だと、賢い白龍には分かったらしい。
いきなり棹立ちになって高くいななき、北西へ向かって駆け出した。相変わらず他のどの馬にもできないような、力強い走りを見せてくれる。
それを見送る馮則の目からそっと涙が流れ、頬を伝って落ちていった。
しかし白龍に舐められた頬を拭う気にはなれない。ただ涙の流れるに任せ、白龍の消えていった木立を見つめ続けた。
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