390 / 391
短編・中編や他の人物を中心にした物語
その鼠は龍と語らう11
しおりを挟む
「ヒィ……ヒィ……ヒィ……」
馮則は悲鳴のような息を吐きつつ、森の中を一生懸命に歩いていた。
こんな声を出してしまうのは、その手に下げているものが原因だ。
「生首って意外と重い……」
見事黄祖を討ち取った馮則だったが、小柄な馮則には成人男性の遺体を担いで歩くほどの体力はない。
だから黄祖の持っていた剣で首を切り落とし、剥いだ衣服で包んで手から下げているのだ。
途中で失敗だったかな、と思ったのは、首を兜ごと包んでしまったことだ。ただでさえ重い生首に金属製の兜がかぶさっているのだから、結構な重量になっている。
(でも、包みを開いてもう一度生首と対面するのは絶対にご免だ)
そもそも首を切り落とす段階で何度も吐くような有り様だったのだ。兜を脱がさずに包んでしまったのも、少しでも早く生首を視界から隠したかったからだった。
さらに言えば、見えずとも手に下げているだけでも気味が悪くてしょうがない。ヒィヒィ言っているのは重さのせいばかりではないだろう。
「さすがに大将首をほっぽらかすようなもったいない真似はできねぇしなぁ」
ぼやくようにして自分に言い聞かせた。
どれだけ気味が悪くても、これほどの大手柄を捨て置くわけにはいかないだろう。それくらいの常識はある。
それに、今の馮則には強く望むものがあるのだ。
「この恩賞で……この恩賞で……俺は……」
喉から手が出るほど欲しいもの。それが自然と口からこぼれた。
「兵士を辞める!」
「…………」
「……」
言ってから、自分でも変な褒美を望んでいるような気がして口をつぐんだ。
これが今、本当に心の底から望んでいることなので何の疑問も抱いていなかったのだが、よくよく考えてみると変な気がする。
馮則は強制的に徴兵されたわけではない、いわば志願兵だ。今回の戦は折悪かったものの、普通なら辞めようと思って辞められないものでもないように思う。
それに褒美とは普通、何かを貰うものではないだろうか。辞職を認めてもらうのが褒美というのはやはり変だろう。
「じゃあ……うーん……無職も困るし、調教師の仕事を斡旋してもらうか?」
しかし乱世のお陰と言ってよいのか、軍馬の需要はいくらでもあるから斡旋が必要とも思えない。
「ならいっそ、自分の牧場でもお願いしてみるか?」
牧場主として、そこで育てる馬たちの調教も行う。
前の職場の牧場主はそれなりに羽振りが良かったし、なかなか悪くない人生に思えた。
「よし、決めた!褒美に牧場の土地と繁殖馬をいくらかお願いしよう!」
我ながら名案だ。
この流れなら兵を辞めるのも自然だし、育てた馬を孫権軍に卸すと言えば角が立たないどころか歓迎すらしてもらえるだろう。ついでに顧客も獲得だ。
気分が明るくなったせいか、少し軽くなったように感じられる生首を振りながら森を歩く。
そうしていると、かなり向こうの樹間に一頭の馬が見えた。
それと同時に、明るくなっていた気分がズンと沈んだ。見覚えのある馬だったからだ。
「……馮則?貴様、何だその格好は」
馬上から予想通りの声がかけられた。
李観だ。馮則の上官である李観が愛馬にまたがって向こうからやって来る。
相変わらず馮則を見下した目つきで、その上の眉が怪訝そうに寄せられていた。馮則が下帯一丁のザンバラ髪になっているのを訝しんでいるようだ。
一騎だけということは、おそらく騎馬隊全部がこの森に散開して黄祖を探しているのだろうと思われた。
(そりゃ俺は味方の方に戻って行くんだから、そのうち誰かと会うとは思ってたけど……まさかこいつに当たるとはな)
正直なところ、最悪な気分だ。せっかくの夢見心地が台無しになった。
とはいえ正直にそんな感想を言えば、ひどい体罰が待っていることは間違いない。無理やりにでも愛想笑いを浮かべた。
「これはその……黄祖をやる時に色々ありまして」
それを聞いた李観の目が、ようやく手に下げている布の包みへと向いた。
赤い血の滴るそれを見やり、驚愕に見開かれる。
「そ、それは黄祖の首か!?貴様が獲ったのか!」
「俺がっていうか、大体は白龍の手柄なんですけど……白龍は……その……行っちまいましたから……」
馮則にとって非常に重い事実を口にしたのだが、李観はまるで上の空で白龍のことは聞き流した。
急に目をギラつかせて再度確認した。
「本当に、本当に黄祖の首なのだな?」
「ええ、そうですけど……」
うなずくと、まだかなり遠いにも関わらず李観がゴクリと生唾を飲む音が馮則の耳に聞こえた。
嫌な予感がして無意識に後ずさる。
そんな馮則に対し、李観はこれまで発したことがないような猫なで声で話しかけた。
「素晴らしい、素晴らしい働きだぞ馮則。どれ、私にもその首を見せてくれ」
愛馬を進ませて近づこうとしたが、その分だけ馮則は後ろに下がった。
それを見た李観は媚びるような笑みを浮かべた。
「何だ、ちょっと見るくらい良いではないか。それに首は意外と重いだろう?私の馬で運んでやるから、こちらに渡せ」
その『こちらに渡せ』という言葉だけが不思議なほど力んでいた。
まさかと思いながら馮則は尋ねる。
「た、隊長殿は……ちゃんと後で返してくれるんですよね?」
そう問われ、己の意図がすでに悟られていると気づいたのだろう。李観の顔に貼り付いていた笑みが急に剥がれた。
それから首を回して周囲に誰もいないことを確認し、冷ややかな目で馮則を見下ろした。
「……ふん、貴様のような素人は知らんかもしれんが、戦場では貰い首など珍しくもないものだ」
思った通り、李観は手柄を横取りする気だったらしい。
馮則はそれまで形ばかりは上司だったこの男への態度を改めることにした。
「ふ、ふざけんじゃねぇ!それじゃ貰い首じゃなくて奪い首だろうが!」
「どっちでもいい。総大将の首など貴様には過分な手柄だ。痛い目を見たくなかったら大人しくよこせ」
李観の槍がヒュッと音を鳴らして空を切った。
さすがは騎馬隊の隊長なだけあり、槍捌きは見事なものだ。
一方の馮則は丸腰などころか半裸である。黄祖の首を落とした剣があったわけだが、重いし持って来ることを思いつきもしなかった。
(殺される……)
彼我の戦闘力を思えば当然の帰結だ。他の予測など立ちようがない。
そして李観にとってもそれは間違えようのない事実だった。
「抵抗するだけ無駄だぞ。ただ、もしお前が素直に首を渡してこのことを口外しないと誓うなら、命だけは助けてやる。軍を辞めても食っていける程度の銭もくれてやろう。俺は誠実な男で、約束は破らんぞ」
(嘘つけ!)
以前の勝負で李観がイカサマをしていたことを思い出し、馮則は心の中で罵った。
ただし、状況としては李観の慈悲にすがる外なさそうだ。たとえ裏切られて殺されるにしても、真っ向から立ち向かうよりは気紛れで助かる可能性もあるだろう。
(よほどみっともなく命乞いをして見せれば、こいつも殺す気が失せるかもしれねぇ)
そんなことを考えたが、どうしてもそれを実行する気にはならなかった。
別に情けない姿を晒すことは構わない。自分のような鼠男が今さら格好を気にしたところで仕方ないだろう。
しかし、この首を渡すのだけは絶対に嫌だった。
これは白龍が自分に獲らせてくれたものだ。いわば、最後の置き土産と言うべきものだろう。
その大事な宝を、こんな下衆野郎に渡してたまるかと思った。
だから馮則は背筋を伸ばした。
鼠は鼠でも、自分は龍に乗って空を駆けた鼠なのだ。そんな風に胸を張って口を開く。
「おととい来やがれ、このすっとこどっこい」
その返答に、李観の目はスッと細められた。
それから無言で馬の腹を蹴る。
李観の愛馬が全力で駆け始めた。手にした槍の穂先は真っ直ぐに馮則の胸へと向いている。
(ああ、死ぬ)
それを受け入れた馮則は、このまま胸を張ったまま貫かれようと思った。
せめて死ぬその瞬間まで、栄えある白龍の騎手であったことを誇りたいと思った。
そしてやけに静かになった空気を吸い込みつつ、自分を殺すために来る騎馬を眺める。
(……何だ、このへっぽこな馬は)
不意に、そんな感想が頭に浮かんできた。
酷いものだと思った。
力、速さ、重心、足運び、そのどれもがてんでなっていない。
と言っても、騎馬隊の隊長である李観の愛馬なのだ。実際にはなってないどころか、標準的な質の馬と比べても相当な良馬である。
しかしここのところずっと白龍にしか乗っていなかった馮則からすると駄馬も駄馬、まさにてんでなってないとしか評せない走りに見えた。
(おいおい、そんなんじゃちょっとしたことで転倒しちまうぞ?例えばほら、こんな障害物が転がってきたら)
そんなことを考えつつ、ほとんど無意識に手から下げていた生首を放った。
すると馬は足元に転がってきた生首に蹄を乗せ、そして滑らせ、盛大に転倒した。ここしかないという絶妙な位置だった。
それがあまりに派手なこけ方だった上、乗っていた李観は鼠相手と完全に油断していたらしい。手綱をしっかり握っていなかったこともあり、
「え?」
などと馬鹿みたいな声を上げながら、面白いように宙を飛んでいく。
まるで城攻めに使われる投石器から放たれた岩のようだった。
そして投石よろしく木の幹に頭から激突し、気の毒なほど重い音を響かせ、受け身も取れずに地面へ落ちた。
その後はピクリとも動かない。
「…………死んだ?」
馮則はポツリとつぶやいたが、返事はない。
大道芸ではないかと思えるほど滑稽な飛び方だったので、いまいち死んだ感じがしなかった。
だが、ぶつかった勢いを考えれば死んでいてもおかしくはない。
「まぁ……どっちでもいいか」
憎い相手ではあるが、何となく生きていた方がざまぁみろという気分になる気がする。
「しばらく起きないんならそれでいい」
不思議なほど心が軽くなったのは、李観の冗談のようなやられ方のせいか、それとも飛びながら漏れていた間抜けな声のせいか。
なんにせよ、こんな馬鹿にこれまで苦しめられていたことが心底馬鹿馬鹿しく思えてきた。
(忘れよう。もう俺には関係ないやつだ)
気持ちを綺麗さっぱり入れ替えて、転倒させてしまった馬へと歩み寄る。
自分はこれから牧場主になるのだ。馬は大切にせねばならない。
「悪かったな。どうだ?立てるか?」
馬は派手な転び方をした割に、擦りむいているだけで大きな怪我はしていなかった。
踏ん張りようのないほど見事に倒れたのがむしろ良かったのかもしれない。骨や関節には異常がなさそうだ。
馮則は馬の周りをぐるっと回って無事を確認すると、鞍に手をかけて飛び乗った。
これでもうヒィヒィ言いながら歩かなくても済みそうだ。
「ふう……やっぱり馬があると楽チンでいい……いい……いい?」
しかし騎乗していると、すぐにその快適さに水をさされた気分になった。どうにも馬の粗に目が行ってしまうのだ。
先ほども思ったように足運びがいまいちだし、何より歩みに力がない。馬体を見下ろせば、筋肉の付き方の均衡も良くないように思えた。
(……いや、落ち着いて良く見るんだ俺。どう考えてもこの馬は並の馬よりも上等だぞ)
調教師としての経験から客観的にそう認識することは可能なのだが、自然と湧いてくる感情としては不満しかなかった。
あれが足りない、これが足りないと、足らずの部分ばかりが目についてしまうのだ。
もちろん何に対する足らずかと言えば、白龍に対する足らずである。
(いやいやいや、そりゃ俺だって白龍と比べちゃいけねぇのは分かってるけど……まいったなぁ……どうしても気になっちまう)
あんな名馬にはもう二度と出会えないだろう。
そんなことは分かっているのだが、それでも白龍はこうだったと思い出してしまうのだ。
牧場主として、どんな馬にも不満を感じてしまうのは良くないことのように思える。
いっそ白龍のことを忘れてしまえれば解決するのだが、そんなことは絶対に嫌だし、まず間違いなく不可能だ。
龍に乗った経験を忘れられる人間などいるだろうか。いるわけがない。
そしてそれは鼠だって同じことなのだ。
「まいったなぁ……まいったなぁ……」
馮則は首を振り振りぼやきながら、尻に伝わる振動の物足りなさに頭を悩ませるのだった。
馮則は悲鳴のような息を吐きつつ、森の中を一生懸命に歩いていた。
こんな声を出してしまうのは、その手に下げているものが原因だ。
「生首って意外と重い……」
見事黄祖を討ち取った馮則だったが、小柄な馮則には成人男性の遺体を担いで歩くほどの体力はない。
だから黄祖の持っていた剣で首を切り落とし、剥いだ衣服で包んで手から下げているのだ。
途中で失敗だったかな、と思ったのは、首を兜ごと包んでしまったことだ。ただでさえ重い生首に金属製の兜がかぶさっているのだから、結構な重量になっている。
(でも、包みを開いてもう一度生首と対面するのは絶対にご免だ)
そもそも首を切り落とす段階で何度も吐くような有り様だったのだ。兜を脱がさずに包んでしまったのも、少しでも早く生首を視界から隠したかったからだった。
さらに言えば、見えずとも手に下げているだけでも気味が悪くてしょうがない。ヒィヒィ言っているのは重さのせいばかりではないだろう。
「さすがに大将首をほっぽらかすようなもったいない真似はできねぇしなぁ」
ぼやくようにして自分に言い聞かせた。
どれだけ気味が悪くても、これほどの大手柄を捨て置くわけにはいかないだろう。それくらいの常識はある。
それに、今の馮則には強く望むものがあるのだ。
「この恩賞で……この恩賞で……俺は……」
喉から手が出るほど欲しいもの。それが自然と口からこぼれた。
「兵士を辞める!」
「…………」
「……」
言ってから、自分でも変な褒美を望んでいるような気がして口をつぐんだ。
これが今、本当に心の底から望んでいることなので何の疑問も抱いていなかったのだが、よくよく考えてみると変な気がする。
馮則は強制的に徴兵されたわけではない、いわば志願兵だ。今回の戦は折悪かったものの、普通なら辞めようと思って辞められないものでもないように思う。
それに褒美とは普通、何かを貰うものではないだろうか。辞職を認めてもらうのが褒美というのはやはり変だろう。
「じゃあ……うーん……無職も困るし、調教師の仕事を斡旋してもらうか?」
しかし乱世のお陰と言ってよいのか、軍馬の需要はいくらでもあるから斡旋が必要とも思えない。
「ならいっそ、自分の牧場でもお願いしてみるか?」
牧場主として、そこで育てる馬たちの調教も行う。
前の職場の牧場主はそれなりに羽振りが良かったし、なかなか悪くない人生に思えた。
「よし、決めた!褒美に牧場の土地と繁殖馬をいくらかお願いしよう!」
我ながら名案だ。
この流れなら兵を辞めるのも自然だし、育てた馬を孫権軍に卸すと言えば角が立たないどころか歓迎すらしてもらえるだろう。ついでに顧客も獲得だ。
気分が明るくなったせいか、少し軽くなったように感じられる生首を振りながら森を歩く。
そうしていると、かなり向こうの樹間に一頭の馬が見えた。
それと同時に、明るくなっていた気分がズンと沈んだ。見覚えのある馬だったからだ。
「……馮則?貴様、何だその格好は」
馬上から予想通りの声がかけられた。
李観だ。馮則の上官である李観が愛馬にまたがって向こうからやって来る。
相変わらず馮則を見下した目つきで、その上の眉が怪訝そうに寄せられていた。馮則が下帯一丁のザンバラ髪になっているのを訝しんでいるようだ。
一騎だけということは、おそらく騎馬隊全部がこの森に散開して黄祖を探しているのだろうと思われた。
(そりゃ俺は味方の方に戻って行くんだから、そのうち誰かと会うとは思ってたけど……まさかこいつに当たるとはな)
正直なところ、最悪な気分だ。せっかくの夢見心地が台無しになった。
とはいえ正直にそんな感想を言えば、ひどい体罰が待っていることは間違いない。無理やりにでも愛想笑いを浮かべた。
「これはその……黄祖をやる時に色々ありまして」
それを聞いた李観の目が、ようやく手に下げている布の包みへと向いた。
赤い血の滴るそれを見やり、驚愕に見開かれる。
「そ、それは黄祖の首か!?貴様が獲ったのか!」
「俺がっていうか、大体は白龍の手柄なんですけど……白龍は……その……行っちまいましたから……」
馮則にとって非常に重い事実を口にしたのだが、李観はまるで上の空で白龍のことは聞き流した。
急に目をギラつかせて再度確認した。
「本当に、本当に黄祖の首なのだな?」
「ええ、そうですけど……」
うなずくと、まだかなり遠いにも関わらず李観がゴクリと生唾を飲む音が馮則の耳に聞こえた。
嫌な予感がして無意識に後ずさる。
そんな馮則に対し、李観はこれまで発したことがないような猫なで声で話しかけた。
「素晴らしい、素晴らしい働きだぞ馮則。どれ、私にもその首を見せてくれ」
愛馬を進ませて近づこうとしたが、その分だけ馮則は後ろに下がった。
それを見た李観は媚びるような笑みを浮かべた。
「何だ、ちょっと見るくらい良いではないか。それに首は意外と重いだろう?私の馬で運んでやるから、こちらに渡せ」
その『こちらに渡せ』という言葉だけが不思議なほど力んでいた。
まさかと思いながら馮則は尋ねる。
「た、隊長殿は……ちゃんと後で返してくれるんですよね?」
そう問われ、己の意図がすでに悟られていると気づいたのだろう。李観の顔に貼り付いていた笑みが急に剥がれた。
それから首を回して周囲に誰もいないことを確認し、冷ややかな目で馮則を見下ろした。
「……ふん、貴様のような素人は知らんかもしれんが、戦場では貰い首など珍しくもないものだ」
思った通り、李観は手柄を横取りする気だったらしい。
馮則はそれまで形ばかりは上司だったこの男への態度を改めることにした。
「ふ、ふざけんじゃねぇ!それじゃ貰い首じゃなくて奪い首だろうが!」
「どっちでもいい。総大将の首など貴様には過分な手柄だ。痛い目を見たくなかったら大人しくよこせ」
李観の槍がヒュッと音を鳴らして空を切った。
さすがは騎馬隊の隊長なだけあり、槍捌きは見事なものだ。
一方の馮則は丸腰などころか半裸である。黄祖の首を落とした剣があったわけだが、重いし持って来ることを思いつきもしなかった。
(殺される……)
彼我の戦闘力を思えば当然の帰結だ。他の予測など立ちようがない。
そして李観にとってもそれは間違えようのない事実だった。
「抵抗するだけ無駄だぞ。ただ、もしお前が素直に首を渡してこのことを口外しないと誓うなら、命だけは助けてやる。軍を辞めても食っていける程度の銭もくれてやろう。俺は誠実な男で、約束は破らんぞ」
(嘘つけ!)
以前の勝負で李観がイカサマをしていたことを思い出し、馮則は心の中で罵った。
ただし、状況としては李観の慈悲にすがる外なさそうだ。たとえ裏切られて殺されるにしても、真っ向から立ち向かうよりは気紛れで助かる可能性もあるだろう。
(よほどみっともなく命乞いをして見せれば、こいつも殺す気が失せるかもしれねぇ)
そんなことを考えたが、どうしてもそれを実行する気にはならなかった。
別に情けない姿を晒すことは構わない。自分のような鼠男が今さら格好を気にしたところで仕方ないだろう。
しかし、この首を渡すのだけは絶対に嫌だった。
これは白龍が自分に獲らせてくれたものだ。いわば、最後の置き土産と言うべきものだろう。
その大事な宝を、こんな下衆野郎に渡してたまるかと思った。
だから馮則は背筋を伸ばした。
鼠は鼠でも、自分は龍に乗って空を駆けた鼠なのだ。そんな風に胸を張って口を開く。
「おととい来やがれ、このすっとこどっこい」
その返答に、李観の目はスッと細められた。
それから無言で馬の腹を蹴る。
李観の愛馬が全力で駆け始めた。手にした槍の穂先は真っ直ぐに馮則の胸へと向いている。
(ああ、死ぬ)
それを受け入れた馮則は、このまま胸を張ったまま貫かれようと思った。
せめて死ぬその瞬間まで、栄えある白龍の騎手であったことを誇りたいと思った。
そしてやけに静かになった空気を吸い込みつつ、自分を殺すために来る騎馬を眺める。
(……何だ、このへっぽこな馬は)
不意に、そんな感想が頭に浮かんできた。
酷いものだと思った。
力、速さ、重心、足運び、そのどれもがてんでなっていない。
と言っても、騎馬隊の隊長である李観の愛馬なのだ。実際にはなってないどころか、標準的な質の馬と比べても相当な良馬である。
しかしここのところずっと白龍にしか乗っていなかった馮則からすると駄馬も駄馬、まさにてんでなってないとしか評せない走りに見えた。
(おいおい、そんなんじゃちょっとしたことで転倒しちまうぞ?例えばほら、こんな障害物が転がってきたら)
そんなことを考えつつ、ほとんど無意識に手から下げていた生首を放った。
すると馬は足元に転がってきた生首に蹄を乗せ、そして滑らせ、盛大に転倒した。ここしかないという絶妙な位置だった。
それがあまりに派手なこけ方だった上、乗っていた李観は鼠相手と完全に油断していたらしい。手綱をしっかり握っていなかったこともあり、
「え?」
などと馬鹿みたいな声を上げながら、面白いように宙を飛んでいく。
まるで城攻めに使われる投石器から放たれた岩のようだった。
そして投石よろしく木の幹に頭から激突し、気の毒なほど重い音を響かせ、受け身も取れずに地面へ落ちた。
その後はピクリとも動かない。
「…………死んだ?」
馮則はポツリとつぶやいたが、返事はない。
大道芸ではないかと思えるほど滑稽な飛び方だったので、いまいち死んだ感じがしなかった。
だが、ぶつかった勢いを考えれば死んでいてもおかしくはない。
「まぁ……どっちでもいいか」
憎い相手ではあるが、何となく生きていた方がざまぁみろという気分になる気がする。
「しばらく起きないんならそれでいい」
不思議なほど心が軽くなったのは、李観の冗談のようなやられ方のせいか、それとも飛びながら漏れていた間抜けな声のせいか。
なんにせよ、こんな馬鹿にこれまで苦しめられていたことが心底馬鹿馬鹿しく思えてきた。
(忘れよう。もう俺には関係ないやつだ)
気持ちを綺麗さっぱり入れ替えて、転倒させてしまった馬へと歩み寄る。
自分はこれから牧場主になるのだ。馬は大切にせねばならない。
「悪かったな。どうだ?立てるか?」
馬は派手な転び方をした割に、擦りむいているだけで大きな怪我はしていなかった。
踏ん張りようのないほど見事に倒れたのがむしろ良かったのかもしれない。骨や関節には異常がなさそうだ。
馮則は馬の周りをぐるっと回って無事を確認すると、鞍に手をかけて飛び乗った。
これでもうヒィヒィ言いながら歩かなくても済みそうだ。
「ふう……やっぱり馬があると楽チンでいい……いい……いい?」
しかし騎乗していると、すぐにその快適さに水をさされた気分になった。どうにも馬の粗に目が行ってしまうのだ。
先ほども思ったように足運びがいまいちだし、何より歩みに力がない。馬体を見下ろせば、筋肉の付き方の均衡も良くないように思えた。
(……いや、落ち着いて良く見るんだ俺。どう考えてもこの馬は並の馬よりも上等だぞ)
調教師としての経験から客観的にそう認識することは可能なのだが、自然と湧いてくる感情としては不満しかなかった。
あれが足りない、これが足りないと、足らずの部分ばかりが目についてしまうのだ。
もちろん何に対する足らずかと言えば、白龍に対する足らずである。
(いやいやいや、そりゃ俺だって白龍と比べちゃいけねぇのは分かってるけど……まいったなぁ……どうしても気になっちまう)
あんな名馬にはもう二度と出会えないだろう。
そんなことは分かっているのだが、それでも白龍はこうだったと思い出してしまうのだ。
牧場主として、どんな馬にも不満を感じてしまうのは良くないことのように思える。
いっそ白龍のことを忘れてしまえれば解決するのだが、そんなことは絶対に嫌だし、まず間違いなく不可能だ。
龍に乗った経験を忘れられる人間などいるだろうか。いるわけがない。
そしてそれは鼠だって同じことなのだ。
「まいったなぁ……まいったなぁ……」
馮則は首を振り振りぼやきながら、尻に伝わる振動の物足りなさに頭を悩ませるのだった。
10
お気に入りに追加
48
あなたにおすすめの小説

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。

【架空戦記】蒲生の忠
糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。
明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。
その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。
両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。
一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。
だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。
かくなる上は、戦うより他に道はなし。
信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。
悲恋脱却ストーリー 源義高の恋路
和紗かをる
歴史・時代
時は平安時代末期。父木曽義仲の命にて鎌倉に下った清水冠者義高十一歳は、そこで運命の人に出会う。その人は齢六歳の幼女であり、鎌倉殿と呼ばれ始めた源頼朝の長女、大姫だった。義高は人質と言う立場でありながらこの大姫を愛し、大姫もまた義高を愛する。幼いながらも睦まじく暮らしていた二人だったが、都で父木曽義仲が敗死、息子である義高も命を狙われてしまう。大姫とその母である北条政子の協力の元鎌倉を脱出する義高。史実ではここで追手に討ち取られる義高であったが・・・。義高と大姫が源平争乱時代に何をもたらすのか?歴史改変戦記です
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる