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短編・中編や他の人物を中心にした物語

短編 段煨7

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 華陰はその後も段煨によって比較的穏やかに治められた。

 大きな戦には巻き込まれず、平穏無事に過ごせている。

 しかし乱世は混迷を極めていた。各地に散らばった群雄たちが互いを食い合うのはもう当たり前の光景になっている。

 帝に関しては結局、その逃避行の戦に関わっていなかった曹操が保護することになった。

 洛陽にたどり着いた帝を自らの本拠地であるきょという地に迎え、今はここが新たな首都に遷ばれている。

 李傕と郭汜は最終的に官軍と和睦を結び、帝を諦めて西へ去った。この二人ほど帝の周りで派手に暴れた人間もいないが、本人たちも最早うんざりしていることだろう。

 賈詡カクはしばらく華陰に滞在してから、張繡チョウシュウという群雄の元へと去った。

 ただし家族はそのまま華陰に置いている。段煨は賈詡の期待通り、きちんとその面倒を見てやった。

 張繡の参謀となった賈詡はその才覚を遺憾なく発揮し、あの曹操を死の寸前まで追い詰めている。

 そして曹操が賈詡に殺されかけたまさにその年に、段煨は以下のような文を受け取った。

『李傕と郭汜を討つべく、帝が軍を起こされる。段煨殿にはそれに加勢していただきたい』

 そういう内容の、曹操からの文だ。

 帝が軍を起こすと言っても、実際には曹操の命令だった。

 もちろん帝にとっても相当憎い二人ではあろうが、この命令に従うかどうかは実質的に『曹操に従うかどうか』を問われたも同じになる。

(今の賈詡の立場とは正反対になるな。私は賈詡の家族を保護しているわけだが……)

 そう思いつつ、段煨は急ぎ賈詡へと相談の文を送った。

 賈詡からの返事はその理由も含めて明快だった。

『曹操殿に帰順すべし。人材を愛す曹操殿は私を欲しがっているはずだし、天下を狙う人なのだから私怨よりも世間に器を示すことを考える。だから私の家族は心配いらない。そして今は敵対しているとはいえ、私も先々には曹操殿へ帰順する流れを予測している』

 それで段煨は曹操への帰順を決めた。

 もちろん賈詡の家族は保護し続けているし、それについて曹操から何の文句もついていない。

 ちなみに賈詡はその翌々年に曹操の傘下に入ることになる。

(神算鬼謀)

 段煨はこの同郷人を畏れすらした。

 ただ、曹操への帰順は手ぶらでは叶わない。先方は手土産に李傕と郭汜の首を所望しているのだ。

 段煨は曹操の派遣した軍に合流し、長安を目指した。

(李傕も郭汜も一応は元同僚だ。多少の気は引けるが……)

 そう思いながらも、真面目な段煨らしく軍務はきっちり果たす。郭汜を攻めて長安から追い出した。

 その後の郭汜は部下の裏切りに遭い、逃げた先の街で殺されてしまった。

 そうして無事に第一の目的を果たした段煨だったが、本人には自分の仕事に不満が残った。

(帝という後ろ盾をなくして弱体化していた郭汜に、あそこまで手こずるとは……しかも逃してしまった)

 最終的には殺せたので結果として問題はないのだが、本人は納得いかない。

(やはり私は攻めに向いた将ではないな……せめて苛烈な将器を持った部下がいればいいのだが)

 段煨の部下は上司に似て、堅実で大人しい者が多かった。攻めに向いた指揮官がいない。

(まぁ無いものをねだっても仕方ない。現実には手元のものを上手く使って対処していくしかないのだ)

 そう思い直し、真面目に今後の方策を考えた。

 残るは李傕だが、こちらは黄白城こうはくじょうという地に立て籠もり、徹底抗戦の構えを見せている。

 この城は涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐんにあるのだが、ここは李傕の産まれ育った土地でもある。

 帝を失って求心力を失ったこの男には、もはや故郷しか頼れるものがなかったのかもしれない。

 ちなみに段煨や賈詡の出身地である武威郡ぶいぐんはこの北地郡に隣接しているので、段煨は懐かしく思いながら馬を進めた。

(正月にめでたく帰郷、というわけにはいかなかったな)

 郭汜を攻め、進軍している間に年が明けてしまった。

 もちろん李傕を討つまではめでたさなど感じられないのだが、故郷へ繋がる道を北上しているとそんなことを思ってみたりもする。

(故郷の山を懐かしく思うのは、植生が違うからだろうか?)

 もちろん山の形なども違うが、色合いや雰囲気が違う気がする。

 それは植生の違いなのではないかと思った。

(華陰には生えていない樹……)

 馬に揺られながらそれを目で追っていると、樹間に人影が見えた。

 その瞬間、手の甲がチクリと痛んだ気がした。

(まさか……楊定か?)

 いったんはそう思ったのだが、その人影は遠目にも楊定とは顔が違う。体つきもよく知る楊定のものではないように感じられた。

 が、それでも段煨は馬を降りた。

 副官に手綱を渡し、山へと走る。

「すぐ戻る」

 それだけ伝えて樹間に入った。

 段煨の見た人影は山を登っていた。まともな道のない所を素早く駆けていく。

 段煨はその背中に声をかけた。

「おい、ちょっと待ってくれ」

 男は言われて足を緩めたが、完全には足を止めない。どうやら止まるかどうか悩んでいるようだった。

 しかし段煨が諦めずについていくと次第にその足は遅くなり、やがて止まった。

 そしてゆっくりと振り返る。

「楊定……か?」

 その男は確かに楊定だったのだが、段煨が語尾に疑問符を付けるほどに顔が変わっていた。

 いや、変わっていたというか、傷だらけなのだ。

 顔中なますに斬られたようで、切り傷が瘢痕化して元の顔の判別がつかなくなっている。

 しかし、段煨にはかろうじて楊定だと分かった。

「お前……どうしたんだ?それに、涼州に来てたのか。てっきり荊州にいるものかと……」

 その変わりように、上手く言葉が出てこない。

 楊定は自嘲するように笑った。

「……いったんは荊州に逃げたんだが、一からやり直すなら故郷に帰った方がいいと思ってな。少ししてから涼州を目指した。だが結局は故郷に着く前にここで色々あって、そのままくすぶってるよ」

「色々って……」

「ちょうどここを通った時に、村が賊に襲われていたんだ。それに巻き込まれてな。まぁ斬り死にするのならそれもいいと思って、斬って、斬って、斬りまくった。だが結局はギリギリで死ねず、それで付いた傷だよ」

「そうじゃない!!」

 段煨は大きな否定の声を出した。

 それに驚く楊定のそばに行き、その体をさわさわと触る。

「な、なにしやがる」

「お前、農業をやってるな?」

 段煨は楊定の抗議を無視し、そう確認した。

「この筋肉の付き方は日々農作業を行う人間のものだ。それに、何よりも手の豆の潰れ方。これはくわを繰り返し振った結果として生じる形と厚さだ」

「まぁ……確かにその村で農業をしてるが……」

「やはりそうか!ようやくお前も農業の素晴らしさが分かったか!私は嬉しいぞ!」

 満面の笑みで楊定の肩をバンバンと叩く。

 楊定は苦笑に頬を歪めることしかできなかった。

「相変わらずだな、お前は……っつーか、農業は家族のためだよ。助けた村で看病中に娘をあてがわれてな。それで子供もできちまって、村の用心棒のようなことをやりながら、農業もやりつつで家族を養ってるんだ」

 子供と聞いて、段煨は闘鶏と鶏の繁殖期についてふと思いを巡らせた。

(そういえば鶏も繁殖期を過ぎれば気性が大人しくなって喧嘩も減る。こいつも子供ができて、少しは落ち着いているかも知れんな)

 そんなことを考えながらうなずいた。

「なるほど。この乱世だ。頼りにされているだろう?」

「ああ、実際に賊を死ぬほど斬ったからな。頼りにはされてるし、村の連中は良くしてくれるよ」

「悪くない人生だと思うが……」

 段煨は本気でそう思うのだが、その一方で楊定であればそれで満足できないであろうことも分かっていた。

 そして段煨の考えた通り、楊定はまた自嘲めいた笑みを浮かべた。

「よせよ、俺のがらじゃねぇんだ。まぁお前の言う通り、農業も悪くないもんだってのは分かったよ。何かを生み出すってのは良いもんだ。でもな、俺の心の底にはずっとくすぶってるもんがある」

 それを聞いた段煨は楊定の腕を掴んだ。

 あの日、穴から引き上げた後に離さざるを得なかった腕だが、今日は離すまいと思った。

「なら、私の軍で働け」

「段煨……」

「同情で言っているわけじゃないぞ。私は今から李傕を討たなければならない」

「ああ、俺も李傕を攻めることは聞いている。だからつい未練がましく行軍を眺めてたんだ」

「ならばその攻城戦で攻める力のある指揮官が必要なことは分かるだろう。俺は本気でお前を必要としている。そしてそれは、お前にとっても満足のいく生き方になるはずだ」

「…………」

 楊定は段煨の提案を魅力的に感じた。是が非でも、そうしたいと思った。

 が、一点だけ楊定を止めるものがあるのだ。

 それを解消したくて口を開いた。

「お前の軍で働く前に、一つだけやってもらいたいことがある」

「なんだ?」

「『力を貸してください楊定様、お願いします』と言え」

「…………」

 段煨はさすがに呆れた顔をした。

 この後に及んでも『様』付けで呼ばれたいのか。

「お前な……」

「頼む、それで俺は楊定の名を捨てられるんだ」

 そう言われて段煨はハッとした。

 段煨はこれから曹操の下につく。その曹操は帝を擁しているのだ。

 そして楊定は李傕や郭汜と同じように、帝からかなりの悪印象を持たれていることだろう。それを身内にしているのは確かにまずい。

「俺は今、村では丁陽テイヨウと名乗っている。賈詡に言われた通り、楊定の名を隠した方が危険が少ないと思ったからだ。でもな、将軍になって、列侯にまでなった楊定の名は、俺の中でまだ捨てきれねぇんだ」

 段煨は楊定が誇り高い男だと分かっているから、その気持ちもよく理解できた。

 だから一言だけ断りを入れた上で、きちんと頭を下げながらその願いを叶えてやった。

「仕方ない、一度だけだぞ?……『力を貸してください楊定様、お願いします』」

「……はははっ、列侯に昇った時よりもいい気分かもしれねぇな」

 願いの叶った楊定、もとい丁陽は、何か憑物の落ちたような、重い荷物をようやく手放せたような、そんな明るい顔をして笑うことができたのだった。


***************


「おう楊定ヨウテイ、じゃない丁陽テイヨウ。こんな所で奇遇だな」

 丁陽は中央官庁前の広場でそう声をかけられ、振り向いた。

 見ると、賈詡カクがこれみよがしな笑みを浮かべている。

「てめぇ……どうしても俺を失職させたいらしいな」

 楊定は半眼で賈詡を睨んだが、睨まれても賈詡の方は堪える様子がない。

 それどころか、いっそう可笑しげに顔を歪めて喉の奥を鳴らした。

「いや、だってなぁ。楊定が丁陽って……もう少し考えても良かったんじゃないか?」

「うるせぇな。あの時は命からがら逃げてたからそれどころじゃなかったんだよ」

 今の丁陽は帝の近くで働く高級官吏の手伝いを仕事にしている。

 過去に帝をないがしろにするような行いがあった身だと公になれば、職を失ってもおかしくはない。

 その丁陽と一緒に歩いていた高級官吏、段煨が賈詡と同じような顔で笑った。

「私も初めて聞いた時は正直どうだろうと思ったが、なんだか笑える雰囲気じゃなくてな。つい流してしまったよ」

「ふんっ……お前らは相変わらず俺をおちょくるのが好きらしいな。人を小馬鹿にしやがって」

「小馬鹿になんかしてないぞ。私が今こうして九卿きゅうけいにまでなっているのは、丁陽が李傕討伐で活躍してくれたおかげだ」

 九卿というのは三公に次ぐ国家の上級官職で、今の段煨はその一つである大鴻臚だいこうろに就いている。

 数年前、李傕の討伐を見事果たした段煨はその功績により安南将軍あんなんしょうぐんに任命され、さらに列侯の地位を与えられた。

 無事に曹操への手土産を用意でき、高待遇で迎え入れられたわけだ。

 その後は北地郡の太守を経て、中央に召し出されて大鴻臚を拝命している。

「おい大鴻臚、よく見りゃ裾が土で汚れてんぞ」

 丁陽は九卿に対し、そんな言葉使いで不格好を指摘した。

 李傕討伐の時からずっと段煨の食客としてその仕事を手伝っている丁陽だったが、私的には相変わらずの関係でいる。

 言ってみれば、腐れ縁の友達だ。

 段煨はパタパタと土を払った。

「おお、本当だ」

「どうせまた出仕前に畑をいじってきたんだろう。仕事前はやめろって」

「いや、これも仕事だぞ。接待で使う食材の世話をしてたんだからな」

 大鴻臚の職掌は諸侯王(皇族などが土地を与えられてなる王)や、漢帝国に帰服した異民族の管理になる。

 と言っても力を振るってそれらを従わせることは少なく、応対や儀礼、慶弔などが仕事の中心だ。

 言ってみれば外交官に近いような立場であり、接待のような仕事も多い。

 段煨はその接待では必ず自身の作った作物を出した。その評判は非常に良かったし、話題にもなるので便利でもある。

 食はいつの時代、どの階級の人間にとっても喜びであり、盛り上がれるネタだ。

「あれ?賈詡さんじゃないっすか。こんちわっす」

 軽すぎる挨拶とともにそこへ現れたのは、陳範だ。

 陳範は段煨どころではないほど服を土だらけにしていた。

 しかし賈詡はそれについて何も指摘せず、別のことを取り上げた。

「おう、陳範。今、丁陽という名前の感性について話し合ってたところだ。お前はどう思う?」

「おい、やめろ」

 また丁陽が賈詡を睨んだが、気にする様子もない。

 陳範はそんな二人に笑い声を上げた。

「あっはっは。いいじゃないっすか、丁陽。明るくてコロコロしてる感じがして。新しく作った豆の品種名にしたいっす」

「やめろ。俺と豆を同じ名前にするな」

 丁陽は陳範のことも睨んだが、こちらも笑うばかりだ。

 陳範は今も段煨の部下として働いている。

 と言っても、実際にはその趣味と実益を兼ねた農業を手伝っていることが多かった。

 段煨は屋敷の庭以外にも郊外に広い田畑を持っているので、そちらを管理しているのだ。

 陳範の農業の腕はすでに相当なもので、めぼしい個体をかけ合わせて品種改良までしている。

 それに加え、貧しい子供たちを集めての農業教育も続けている。充実した日々だ。

「そうだ、今朝は豆のことで来たんすよ。段煨様に収穫時を確認したくて」

 出仕時間に官庁前にいれば会えると思って来たのだった。思った通り、上手く捕まえられた。

 陳範はちぎった豆の鞘を段煨に手渡した。

「ふむ……もういいだろう。品種改良用の畑以外は順次収穫してくれ」

「了解っす」

 賈詡は二人の会話を聞いて、満面の笑みを浮かべた。

「やった、ようやく収穫か。待ちわびたぞ」

「なんだ、もうすでにうちの豆を食べることが決まってるのか」

「当たり前だ。お前のとこのは美味い」

「そう言ってもらえるのは嬉しいが、太中大夫たいちゅうたいふともなれば最高級の豆くらい手に入るだろう」

 太中大夫というのは帝の顧問のような役職だが、要は曹操の参謀だ。

 曹操はこの神算鬼謀の士をそばに置き、あらゆることを諮問した。

 賈詡は対袁紹戦でも決め手となる作戦を支持するなどして貢献し、その後はこの太中大夫という役職に就いている。

「最高級の豆を買ったところでお前の豆の方が美味いのだからどうしようもない。ちょうど明日は休みだし、今晩は豆を肴に酒盛りだ。楊定、じゃない丁陽の家に集合でいいか?」

 まだ言うか、と思いながらも、丁陽はそこはもう無視した。

「当たり前のように俺の家が溜まり場にされてるんだが」

「いいじゃないか。何だか気が抜けて落ち着くんだよ。奥方が完全に村娘だったからかも知れんな」

「育ちの悪いカミさんで悪かったな」

 苦笑しながらも、悪い気はしない。

 丁陽もそういう妻が好きだったし、子供も賈詡たちが来ると喜ぶ。

「じゃあ仕事が終わったら集合だ。うちの家族も段煨の野菜を楽しみにしてたから連れて行くぞ。酒は私が用意しておくからな」

 賈詡はもう丁陽の意見を聞かず、官庁へと歩き出した。

 陳範も片手を上げて去っていく。

「んじゃ俺はいい豆を厳選しときますよ。他の野菜も見繕って持って行きますから」

 丁陽はそんな二人にため息を漏らし、段煨は可笑しそうに肩を揺らした。

 そんな四人の上には気持ちのいい青空が広がっている。

 段煨は目を細めてそれを見上げ、天地に対して感謝の念を抱いた。

 人は太古に農を知り、農によって繁栄してこられた。段煨のような男はそのことを思わぬ日はない。

(今年はよく晴れたから陽射しは十分だし、適度に雨も降っている)

 その意味するところは一つだ。

「今年は美味いものがたくさん穫れるぞ」

 それは人という生き物の、この上ない歓びがこぼれ出たつぶやきなのだった。
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