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益州

個別の事案と斡旋

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 許靖と花琳が街を歩いていると、交差点の向こうからよく見知った顔が近づいて来た。

 趙才だ。

 相変わらずの整った顔立ちで、相変わらずの爽やかな笑みを浮かべている。

 太守の夫婦が相手ではあったが、趙才はあまり大げさな礼を取らなかった。

「街中なので軽い礼で失礼いたします」

 趙才の一言に許靖も軽くうなずいた。

「こちらもその方がありがたいです。それに、そもそもそれほど大した人間ではありませんから」

「いえいえ。花琳先生は武術の師匠なだけでなく、命の恩人ですから。出来れば地に額を擦り付けて挨拶したいお相手ですよ」

(そっちか)

 許靖は心中で恥じながら苦笑した。確かに趙才にとって、花琳はとても重い人間であると言えるだろう。

 ただ、言われた花琳は困り顔だった。

「そんな大げさな……」

「大げさではありません。私が今ここで息をしていられるのは、花琳先生がトリカブトを嗅ぎ分けてくれたおかげです」

 それはその通りで、花琳が気付かなければ今ごろ趙才は毒殺されて土の下にいるはずだ。

 あの事件の後、趙才は礼物を大量に持って許靖宅を訪れた。しかし世間からは賄賂だと受け取られないということで、一切受け取ってもらえなかった。

 それはそれで正しいことかもしれないが、何もできない趙才としては心苦しいばかりだ。

「今日はご夫婦お二人だけでお出かけですか?」

 許靖と花琳は供も連れず、二人だけだった。郡の太守ともなれば護衛くらいつくものだが、他には誰もいない。

 不用心といえば不用心だろうが、花琳がいれば護衛にもなる。公務のない休日は二人で出かけることも多かった。

「今日は半分私用の外出ですので。夫婦共通の古い知人を城門まで迎えに行きます」

「でしたら、私の目的地と同じ方向です。途中までご一緒してよろしいですか?」

「ええ、そうしましょう」

 許靖と花琳、趙才は並んで歩き出した。

 よく晴れた明るい日で、天が高い。こんな日は道を歩くだけでも気分が良くなる。

「趙才殿は相変わらず商いがお忙しそうですね」

「はい。許靖様のおかげで交渉相手が随分と増えましたので」

 許靖は趙才の言い様に苦笑した。確かに許靖のせいで趙才の仕事が増えたのは間違いない。

 先日、巴郡ではむしろなどのわらやい草を使った製品の生産者組合が組織されたが、許靖がそれをいくつかに分割させたのだ。

 理由は単純で、独占による価格の釣り上げを回避するためだ。ある程度の競争が働かなければ、価格は不当に吊り上げられる。

 ただし、その代わりに商品を買う卸や小売が組合の結成・維持を阻むことを禁じた。

 具体的には『組合を抜ければ高く買う』『組合に入っている者とは取引しない』等といった措置を禁止にしたのだ。

 組合を認める一方で、組合による無茶も禁止する。こうすることで小さな生産者も交渉力を持てる一方、独占による価格の釣り上げも抑制できる。

 趙才は許靖の苦笑を横目で見ながら可笑しそうに笑った。

 人の好い太守だから、ついついこんなきつい冗談も口にしてしまう。

「失礼いたしました、冗談です。組合を認めるのは経営上苦しくはありますが、許靖様の処置で適切な競争は促進されると思っておりますよ」

「趙才殿にそう言ってもらえると安心します」

 趙才は毒殺未遂事件の時に許靖から色々言われたことで、競争に対する考えをかなり変えたようだった。

 今でも利益を上げることには強くこだわっているが、取引相手に無茶を言うことは無くなったという報告を許靖は受けている。

 それに加えて、つい昨日少し変わった報告を受けた。

「そういえば趙才殿、そちらのお店では珍しい取り組みを始められたと聞きましたが……」

 趙才はニヤリと口の端を上げた。

「もう許靖様のお耳にも入りましたか。私の店では、幹部以外の労働者たちに組合を作らせることにしました。団結して、待遇を上げるための組合です」

 許靖はあらためて趙才の口からそれを聞き、首を傾げた。

(経営者が労働者の団結を促進するというのは……どういうことだろうか?)

 普通の経営者は労働者が団結することをひどく嫌う。その次には権利の主張が待っているからだ。

 しかも、そもそもの目的が待遇を上げるためとなると経営者にとってこれ以上悪いものはないと思える。

 許靖の疑問は口にせずとも趙才に伝わったのだろう。すぐに答えてくれた。

「私は労働者たちとも競争したいと思っているのです」

「労働者と競争?」

 許靖はオウム返しに聞き返した。経営者が労働者と競争するという話は聞いたことがない。

 趙才からすると、許靖の反応が思った通りで嬉しかったのだろう。満足げに説明を続けた。

「そうです。競争です。私たち経営者は待遇を下げたい、労働者は待遇を上げたい。そこでお互いがその希望を叶えるために競争するのです」

「それはまた……目新しい取り組みですが、労働者は経営者に対抗できますか?」

 許靖の言う通り、普通なら経営者の方が圧倒的に強いだろう。伝家の宝刀『嫌なら辞めろ』が言えるのだ。

「いくつか決まりを作りまして、その中で運用していく予定です。例えば、待遇の交渉結果に不満があれば、組合員には年十日に限り仕事をしない権利を認めています。それを行使しても一切の不利益を受けない、ということにしました」

 あまりに珍しい取り組みだったので、許靖はしばらく考え込んだ。

 そして納得した。

「……なるほど、確かにそうなれば組合が適度な力を持てますね。お互いに有意義な交渉が可能になりますね」

「そうなのです。もちろんまだ始めたばかりなので、これから課題が出てくるでしょう。ですが、すでに労働者側から良い提案がいくつも上がっています。例えば仕事の開始・終了時刻に関して、成果には差し支えない範囲で自由に前後させられれば生活上助かるという提案を受けました。経営者にとって損がなく、労働者の満足度は上がる。こういった有意義な提案が出てきたのは、やはり労働者の組合を組織したことによるものだと思っています」

 許靖は話を聞きながら素晴らしい取り組みだと思ったが、それと同時に運用の難しい取り組みであるとも思った。

 ある程度の争いが前提になっているのだから、趙才の言う通り課題がたくさん出てくるだろう。

(しかし、趙才殿ならそれも含めて競争として楽しめるのかもしれない)

 許靖にはそう感じられる。

「趙才殿らしいやり方だと思います。しかし趙才殿は従業員にとって、本当に良い経営者ですね」

 許靖は素直に趙才を褒めたが、趙才はまたニヤリと口の端を上げた。

「正直に申し上げると、経営者にとっての利点も色々と考えているのですよ……例えば景気が悪くなって経営が厳しくなれば、労働者に暇を与えたり給金を下げなくてはなりません。当然これは労働者との揉め事になります。ですが、もし労働者の組合があればその組合と話し合い、そこで合意が得られれば全体の待遇を下げる処置を取りやすくなります」

「……なるほど、そこまで考えている所も趙才殿らしい」

 確かに労働者の組合があれば、待遇の変更手続きはかなり簡便になるだろう。労務管理上、便利になる点も多くあるということだ。

 許靖は趙才の頭脳にほとほと感心した。

 ただ、全体でいえばやはり労働者のためになる取組だろう。

「それにしても思い切った取り組みです。趙才殿の中で『競争』というものが何段階にも練られていると感じましたよ」

 趙才は許靖へ向けていた視線を空へと放った。

 そして心のおりを空高く掃き散らすように、ゆっくりと息を吐いた。

「以前に許靖様から言われたこと……私なりによく考えてみました。そして、競争と言うものの本質を思うようになれたと思います。相手を打ちのめすだけの競争は、不幸です。あまりに寂しい」

 許靖には空を見上げる趙才の横顔に、わずかな影がさしたように見えた。雲ひとつない青空の下で、それはきっと幻だったろう。

 趙才は空から地に視線を落として続けた。

「大切なのは『適切な競争』というものなのだと思い至りました。競う中にも秩序があり、思いやりがある。競争がそういった適切なものであれば、人にも社会にも良い結果をもたらすはずです。許靖様もそう思って組合の分割と妨害の禁止をお命じになったのでしょう?あれは巴郡の民にとっても、社会秩序にとっても、良いことなのだと思います」

 許靖は趙才がそのような考えに至ってくれたことを嬉しく思った。

 その瞳の奥の「天地」でも、騎馬たちがよりいきいきと競い合っているように見える。ただ相手より速く駆けようとするよりも、ずっと楽しそうだった。

 ただし、誰かが『適切な競争』をしようと思っても相手がいることだ。そう簡単に実現できるものではない。

 許靖の行なった政策とてそうだった。

「趙才殿にそう言ってもらえると安心します。ですが……現実はそう甘くないことも分かっているつもりです」

 許靖の言う通り、今の規制を逃れる方法はいくらでもある。

 例えば複数組合があっても、組合間で秘密裏に口裏を合わせて価格を釣り上げることはできる。

 また、買う側の圧力のかけ方も一通りではないから、どれが組合を阻害するためのものかと言われれば判然としない灰色の場面が出てくるだろう。

 もちろん郡が原則を定めた上で『いけないこと』をいくつか具体的に示せばある程度の抑止が効くし、派手なことはしづらくなる。一定の効果はあるだろう。

 しかし、あくまで一定の効果だ。

 許靖の言うことに、趙才も同意した。

「確かにこれは良い、これは悪いという判断をしづらいのは確かだと思います。確実な基準は設けられませんから、最終的には『個別の事案による』という結論にしかなりません」

「その通りです。そして今後はその『個別の事案』に関して揉める場面が増えるはずです。そこで紛争の解決斡旋組織を立ち上げたいのです」

 紛争解決の斡旋。

 その話は趙才も今後の政策案として聞いていた。

 経済的な紛争があった場合に裁判で白黒つけるのも一つの方法だが、その前段階で公的機関が仲立ちして解決を斡旋するのだ。

 両者の言い分を聞き、客観的な助言を行い、自発的な和解を求める。

 もしそれが出来れば裁判ほど手間はかからないし、あくまで斡旋なのでお互い納得して解決することができる。

 もちろん折り合いがつかなければ裁判になるが、斡旋機関が機能すれば多くの利点があるはずだった。

「商人として私もそれは良いことだと思いますが……どなたが斡旋してくださるのでしょうか?」

 斡旋を依頼するかもしれない側の趙才からすれば、それが問題だった。

 どちらかに肩入れするような人間や、経済の知識がない人間に仲立ちされるようでは困る。

「許靖様にやっていただければ、私どもとしては安心ですが……そうもいかないでしょうね」

「ええ。他の公務で現実的に手が回らないということもありますが、私は商人としての実績がありません。商いの現場のことを知っているわけではありませんから、適切な人選とは言い難いでしょう」

 許靖もその点はよくよく考えていた。

 経済に詳しく商いの実績があり、中立でしかも信頼できる人間を選ばなければならない。

 そこで許靖と花琳がふと足を止めた。

 急だったので、趙才は三歩ほど進んでから二人を振り返った。

 許靖と花琳は道の先の方を黙ってじっと見つめている。

「許靖様?どうかなさいましたか?」

「実は今日、その紛争解決の斡旋をお願いしようと考えている人を迎えに行くところだったのですが……いました。あの方です」

「え?」

 趙才が二人の視線の先を追うと、もう七十は過ぎていようかという白髪の老人が城門近くの店先で商品を眺めていた。

 結構な齢の老人だと思えたが、背筋は真っ直ぐに伸びている。趙才はその老人に、年月を経てきた人間の凛々しさを感じた。

 その側に、許靖たちと同じ年頃と思われる夫婦もいた。老人を気遣いつつ、寄り添うようにして立っていた。

 突然、花琳が駆け出した。

「お父様!!」
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