三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

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益州

凉糕と蜂蜜

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 全員が一斉に陳祗の方を振り向いた。

 これまで陳祗は許靖に全て任せるつもりで、要らぬことを言うまいと黙っていた。

 今もそう思って許靖の方へ視線をやると、許靖は目だけでうなずいた。自分の意見を言え、ということだろう。

「……趙才様がそうおっしゃるということは、何かお二人の処分に関してこうすれば利になる、という提案があるということですよね?それをお聞かせください。それが皆にとって利のあることならば、私は構いません」

 趙才は突然商人の顔に戻り、ニヤリと笑った。

 まだ十代半ばの陳祗の顔を、まるで高級品の品定めでもするかのように眺めた。

「良い読みです。陳祗殿は優秀な商人になれますよ。どうですか?私の下で商いを学んでみる気はありませんか?」

「茶化さないで下さい」

 趙才は別に冗談を言ったつもりもなかったが、それ以上は追求せずに答えた。

「厳寿様、文成様には一族の長を引退していただき、今後一切口を出さないご隠居様になっていただきます。そして、新しい一族の長を許靖様に選んでいただく、というのはいかがでしょうか?」

 それは趙才を除く部屋の人間全員にとって、意外な提案だった。

 二人を隠居させるのはまだ分かるが、許靖が次に一族を率いる者を選定するということにはどのような意味があるのだろうか?

 陳祗はその疑問をそのまま口にした。

「大叔父様が選ぶことで、趙才様にどのような利があるのでしょうか?」

「良い質問です。提案の裏で私に利があるはずだという事をきちんと認識できています」

 趙才は満足げにうなずいてから許靖に顔を向けた。

「もし許靖様が自分で豪族の長を選べるとしたら、どのような方を選ばれますか?」

 許靖はあれこれ考えたが、許靖本人が回答する前に張裔が手を叩いた。

「なるほど!……分かりました。許靖様なら恐らく、郡内の融和に積極的な人間を選ばれますね」

 許靖自身も張裔の回答に納得した。

 確かに自分なら、最終的にはそういう選択にたどり着くだろう。

 ここ益州は移住民である東州兵が少数派であるにも関わらず、軍事的な主力を担っているという特殊な環境にある。それで多くの問題が起こるのだ。

 地元民に影響力の強い豪族の長が、移住民やその混血に対して融和的な考え方を持っている人間ならこれ以上にありがたいことはない。

 趙才は張裔の言葉をうなずいて肯定した。

「私もおっしゃる通りのことを考えました。許靖様ならそうされると期待しての提案です。それに、許靖様なら適格な方をお選びになれますよね?ただ瞳を見るだけで……」

 趙才は意味ありげな視線を許靖に向けたが、許靖はなんの反応も示さなかった。

 趙才は構わず話の先を続けた。

「……我ら趙氏もやはり巴郡の外から来た人間ということで、商い上も生活上も損することが多いのです。加えて私は母が東州兵と同郷であるということで、血まで憎まれることもあります。今日もこうして殺されかけているわけですし」

 趙才は寂しそうに笑った。

 仕事柄、憎まれることには慣れているだろう。ただそれでも命を狙われるということが立て続けに起これば、平気な顔はしていられない。

 そんな趙才へ、声が下から投げつけられた。

「趙才殿が殺されたけたのは、出身や血筋ばかりが原因ではないぞ」

 吐き捨てるようにそう言ったのは、まだ床に尻をついたままの厳寿だ。趙才を睨み上げるようにしている。

「趙才殿が我らを隠居程度で済ませてくれようというのは正直ありがたい。感謝しよう。それに許靖様からお叱りを受けて、我らの器が小さかったのだと反省もしている。しかし、今回の事はそれだけで起こるようなものではなかったぞ」

 文成もうなずいて厳寿に同意した。

「左様。確かに我らは器が小さかった。趙才殿が巴郡の外から来たこと、東州兵と同じ血を引いていることで憎しみを深めてしまった。我らの至らぬ心のせいだ。しかし、趙才殿が己の利を最大にすることのみを追求して、多くの生活を傷つけたことも確かだ。利を求めることが商いだと言われればそうなのかもしれないが、相手の事を全く考えぬというのは、人の道を外れていると言わざるを得ない」

 言われた趙才の表情から、ふっと力が抜けた。

 それから不思議と澄んだ瞳で二人の視線を受け返した。

 趙才はこれまでも自分に向けられる憎しみの視線から逃げてはこなかった。ただし、今まではその憎しみを理解できないものとして切り捨ててきたのだ。

(だが、それはもうやめよう。向けられる憎しみを切り捨てず、正面から受け止めなければ人の気持ちなど分からない)

 許靖の言葉を聞き、趙才はそうすべきなのだと思い直していた。

(商いと利の追求とが一つの理として成り立つとするならば、人を苦しめれば憎しみを受けることもまた一つの理として成り立つのだ。確かに自分は多くを人間を傷つけた。それが自分の中では正しい事だったとしても、それで憎まれる事もまた必然だ)

 やがて趙才はゆっくりと口を開いた。

「厳寿様、文成様。おっしゃる事、もっともだとよく分かりました。まだ単純には思い切れませんが、許靖様は私のことを巴郡の民だと言ってくださいました。私も……きちんと巴郡の民になりたいと思っています。ですからご隠居なされた後、茶でも飲みに伺ってもよろしいでしょうか?この地のことを色々お聞かせください」

 趙才の態度があまりに意外だったのか、厳寿と文成は鳩が豆鉄砲でも食ったような顔をした。

 そして、自分たちの感情をどう処理したらよいか分からなくなった。

 厳寿は身じろぎしながら答えた。

「……事件の処理について、まだ許靖様から許可をいただいておらん」

 皆の視線がいっせいに許靖に向く。

 許靖はわざと大きくため息をついてみせた。

「本来なら張裔殿が初めに言った通り、内々で話を終わらせるのは良くないことです……が、まぁ仕方ないでしょう。ただしここのところ同じようなことを繰り返していますし、事は重大なので念のため劉璋様に判断を仰ぎます。張裔殿、それでよろしいかな?」

 張裔は首肯した。

「私の方から劉璋様にご報告差し上げましょう。まず否とは言われないでしょうが」

 張裔は許靖の副官であると同時に劉璋の副官でもあり、厚く信頼されている。

 加えて、劉璋様は手持ちの主戦力である東州兵と地元民との融和に常に心を砕いてきた。それに資する手段があるなら、否定などしないだろう。

「お願いします。では、そういうことでこの事件には蹴りをつけましょう」

 許靖のその一言で、厳寿と文成は深く息を吐きながら全身を脱力させた。

 あわや流刑、下手すればもっと重い罰になっていたのだ。それが隠居程度で済むのなら御の字といえる。

 厳寿と文成はゆっくりと顔を上げ、再び趙才を見上げた。

 その視線は先ほどの睨み上げるようなものとはまた違ったものに感じられた。力が抜け、何か厄介事から開放されたような視線だった。

「趙才殿……落ち着いたら隠居先に茶を飲みに来られるとよい。望み通り、この地のことを話そう。最高の蜂蜜をかけた凉糕も用意しておくぞ」

「左様。今度は毒の入っていない蜂蜜を、な」
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