死の餞ヲ、君ニ

弋慎司

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第2部

#42 心よ

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 色鮮やかな夢を見ていた。体の熱は、その夢を思い出す度に上がっていくようだ。
僕は長い時間、足元に転がっている死体と見つめ合っていた。白いシャツは、赤く染め上がっている。
 今の光景を、第三者の目線から見ているような気分だ。
 死体の胸部は包丁で何度もなんども刺され、形を失っていた。
「はっ……な……なんだ、これ……っ!?」
 力いっぱいに握っていたナイフにしか気が回らなかった僕は、反対に持っていた温くて柔らかい感触の存在に目を落とした。
 残忍なほど冷静だった思考の波は、ここで初めて上下に激しく振れる。
 嗚呼、見れば見るほど、体から離れてしまったはずなのに、脈打っているようだ。僕には見える。
「あ、あぁ……なんで……手が、勝手に動いて」
 左手が自我を失って、震えだした。このまま肩から引っこ抜けて、勝手に暴れだしてしまいそうだ。
 包丁を投げ出し、暴れ馬のような左手首を掴む。一向に震えは止まらない。しかし手中に収まっている鼓動だけは、優しく包み込んでいた。
 心臓が意思を持ちながら、僕の胸に食らいつこうとしてくるのを抑えつける。
「い、や……いやだ……!! ちがう……!!」
 心が体と一つになりたがっているかの如く、迫る。
 人のものを奪ってまで、心臓が欲しかったわけではない。僕の中では、複数ある気がかりな出来事の中の、ほんの一つに過ぎないもの──なのに。
「やめて……うっ、うう……これは、僕のじゃない!!」
 僕は床に倒れ、息苦しさからのたうち回った。喉にせり上がってくるものを吐き出そうとするも、体の一部となってしまったものを出せるはずもなかった。
 とうとう彼の心臓を──。僕はシャツを捲って、真相を確かめた。
「う……嘘だ、こんなの……あり得ないよ」
 赤みを帯びた木の根が、胸の真ん中に張り付いている。浮き出た脈に触れると、生々しい拍動に慄いた。
 そして、僕は諦めたように死体の方を振り返る。
 この人を生き返らせなくては。いつものように、冷静に、祈るように。
「……え?」
 いつもなら、普段なら、時間の経過とともに傷口は修復し、元の──傷一つない状態に戻る。そういう手筈だった。
──おかしい。肉の破片は散らばったまま、静止したまま動かない。
「…………もしかして」
 そんな事、彼に限ってはあるはずがない。
 彼がエンゲイジリングを外すなんて、あるはずがない。少なくとも僕がいる間は──あってはならないのだ。
 死体の右手に嵌まっているべき指輪を見ようと、僕は震える両手を叱りながら前へ動かす。
 僕は彼の右手をようやく自らの手に乗せると同時に、絶望も掬ってしまったことに気がついた。けれどもう遅い。
「そんな……」
 僕は慌てて、首の回る限り部屋を見渡した。
──あ、あんな所にあるじゃないか。壁際のテーブルの上、天井に向かって無造作に伸びている手の動きを形にしたような置物の、人差し指に。憎いほどに綺麗なままで。
 それでは、それではこの人は、もう生き返らないというのか。
 それは、僕が最も恐れていたことではないか。
 体中を寒気が走り抜けていった。取り返しの付かないことをしたという罪悪感が、沸騰した薬缶の水のように悲鳴を上げている。
「僕が……レイセン君を……殺した……殺した……!」
 クリーム色のテーブルランプに照らされたエンゲイジリングと、どうしようもなくなった死体を見つめる。
 何もできない無力な僕は、白い部屋から逃げ出した。

 部屋を抜け、宿の扉を潜り、裸足で走り続けた。
 忌々しいほど星が輝く夜空の下を、汗だくになりながら──必死に。重すぎる罪からは逃れられないことを知りながらも尚、逃げようと足を動かした。
「はぁ……はぁ……っう」
 目からは止めどなく涙が溢れてくる。何度拭っても零れ落ちる涙を、僕は流す資格もないのに。それでも泣くことをやめられなかった。
──こんなもの、要らないのに。人でない僕が、心臓なんか手に入れたところでどうしようもないではないか。
 息ができなくなっても、喉から血が出そうになっても、走り続けた。
「うわっ!! い、た……」
 終いには石に躓いて転ぶ。擦り切れた膝を掌で覆いながら、僕は顔を上げることができずに蹲った。
「……う、ぐぅ……どうして、こんな事に……」
 後悔先に立たずと、終止符を打っていいものではない。
 しかし、今の僕にはどうすることもできない。あのエンゲイジリングと対にならなければ、僕に存在理由などないのだ。
 レイセン君を自らの手で殺めてしまうという結末を迎えた事が許せなかった。
 声が枯れるまで泣いた。泣いて、泣いて、叫喚の声が魔獣の耳に届いたとしても構わないと、泣いた。
「……殺しちゃった……ころしちゃったよお……レイセンくん……僕は……」
 フィリアが攫われ、ノアが悔しさから慟哭した噴水の前で、懺悔するように僕は俯いていた。
 噴水の中央で盃を掲げる女神像の頭は、口の端から頭の天辺にかけて砕けている。女神の口元は悲しんでいるように見えた。しかし時間が経つと、僕を蔑んで嘲笑っているようにしか見えなくなっていた。
「……あ」
 僕は汚したくなるほどに美しい、夜空に浮かぶ天の川を見上げた。
「…………」
 次から次へと現れては消える──流星群。
 流れ星の中で、一際大きく、群を抜いて輝く青白い光が流れていく。僕はこの流れ星に釘付けになり、見惚れた。それ程までに、惹かれるものがあったのだ。
 青い炎が燃えているようにも見えるその星の中心は、人の形をしていた。
「あれ、は……」
 炎の中の輪郭はぼやけてしまっている。けれど輪郭線を補完していけば、そこには裸体の青年が朧気に映し出された。
 他の流星群は白い線を描き、現れたかと思うと途端に姿を消してしまう。しかし、青い炎だけは違った──。どの星々よりもゆっくりと、周りの小さな輝きたちを引き連れて、旅をするように落ちていったのだ。
 青白い光は、僕たちが訪れた宿屋の手前で勢いを失い、万華鏡のような輝きを散りばめながら消えていった。
「……戻らなきゃ」
 僕は夜空の炎が現れてから消えるまでの間、目で追った。光が落下していった先も含め、これは僕にとっての救いだと思った。
 今更、擦り傷や足の痛みなど、なんてことはない。それでも裸足で地面を圧し潰すには、多少の痛みを伴う。僕は脚を引きずりながら、無理矢理に帰路へと就いた。

「…………」
 何事もなかったかのようにドアノブを掴んだ。緊張からドアノブを握る手が汗ばんで、取り込まれた心臓が前後左右に、それも同時に大きく拍動している。
 部屋は相変わらず、赤く染まり上がってしまっていた。違いといえば、僕がこの部屋から逃げ出した時よりも時間が経ち、色が乾いていたことくらいだ。
「おかえりなさいませ」
 何故とは思わなかった。僕は希望にも似た炎を見て、こうなることを望んだのだから。
 両手をついて床に座っていた青年が、また口を開く。
「早いお帰りで」
「レイセン君……ごめん、僕は……!!」
 彼が無理に笑おうとしているところを、初めて見た。
 居ても立ってもいられなくなった僕は、不出来な微笑みを浮かべる青年の元へと駆け出した。そして、儚くて脆い青年の肩に顔を埋めて、きつく抱きしめた。
 求めるように手を伸ばせば、当たり前に返ってくる仕草が、僕にはとても愛おしく、かけがえのないものなのだと思い知った。
「あ……ご主人様……」
 レイセン君が「痛い」とか「苦しい」という言葉を僕に言うまでは、このままでいようと思った。
「ただいま……。本当にごめんね……。僕は自分が何なのか、何がしたいのか、もうよくわかんないよ……」
 僕の髪を撫でながら、青年は濃艶な声を発した。銀色の羽根のような前髪が横に流れる。
「貴方が目を覚ましてくれて、私は嬉しかった……。私の知っている限りをお話します。その時が来ました」
──けれど、まずはシャワーを浴びましょう。我に返ったように青年から体を放し、頭からシャツの裾までを眺めた。真っ白だったはずのシャツも体も、乾いた血の色をしている。
 首筋に汗と血液の混じったところを、指の腹で優しく撫でた。
「……僕、君のこと好きだよ。レイセン君」
 僕の頬は自然と緩んでいった。
 今伝えなければならないことでもない。そういえば、今まで一度も伝えたことがなかったと、思い立ったが故の言葉だった。
 青年も笑っていた。今度は不自然な笑い方なんかではない。
「……貴方にそう言われる日が来ようとは。私は果報者、ですね」
 僕はレイセン君に──先に入っていいよ。と言い、二人でシャワールームのある下の階へと降りていった。

 青年がシャワー室から出てくると、すぐに僕の番がやってきた。
 僕は転んだ時にできた傷を丁寧に洗い落とし、体にこびりついた、何層にも重なる血痕を次から次へと消していった。
「……ふぅ、やっとさっぱりしたよ」
「風呂は命の洗濯、とも言いますからね」
 レイセン君は早々に髪を乾かし終え、テーブルの上に湯気の漂うカップを一つ置いた。
 刺殺された形跡は何一つ見受けられない。何時も通りの、清廉な美貌を余すことなく魅せる青年へと戻っていた。
「……これは?」
「話の内容が内容ですので、目の冴えるものをと思いまして。珈琲です。砂糖は多めに入れておきましたよ」
「本当? ありがとう。……あ」
 テーブルに置かれた光沢のある黒い液体から、湯気が沸き立つのを見ていた。
 今まで思い出さなくてはいけないとは思いつつも、度重なる悲惨な出来事に上書きされて口にすらできなかったことを、思い出したのだ。
 今度こそ忘れまいと、僕はレイセン君に尋ねた。
「ねえ、ノアは? どこにいるの?」
「……その話ですが」
──彼は今、行方不明です。
 首にかけたタオルで髪を乾かしていた僕の手は、ノアが姿を消してしまったという事実に止まった。
「……え?」
「ですが、不可解な出来事が。共に来ていただけますか、ノアがいた部屋に」
「う、うん」

「なんだこれ……窓が……」
 ノアの部屋としていた窓ガラスが、無惨に破壊されていた。ガラスの破片は四隅に、鋭利な角を残しながら崩れている。
 夜になって冷えた風が、割れた窓ガラスの中心から吹き込んでくる。レイセン君が暗い部屋の電灯を点けるためにスイッチを押すが、部屋は暗いままだ。
「壊れてしまっています。突風で飛ばされたガラスでも当たったのでしょうか……」
「でも、どうしてこんなことに……」
「私がこの部屋からガラスの割れる音を聞いて、様子を見に駆けつけたときには既に……」
 部屋には服や本の頁が散らかっている。
 床に落ちた紙をかき集めていると、二つに割れた注射器が散乱していた。おそらく、落下したのだろう。中には紅い液体が入っていたと思わせる、小さな粒が点々と付着していた。
「これは……」
「注射器ですね。……まさか」
 レイセン君は僕の背後から、落ちていた注射器の欠片を見ただけで推測するに至った。しかし、首を横に振って僕に言う。
「ノアに関して、まだ何も……どこに行ってしまったのかさえ不明です。とにかく、もう暗くなりましたし、彼を探すのは後にしましょう」
「そうだね……わかった、暗くてよく見えないし、太陽が出てからここを探そう」

 珈琲のカップが置かれたリビングに戻ると、僕とレイセン君は対面するように座った。
 そして、深呼吸をすると、僕を真っ直ぐに見つめながら話を始める。
「……では、お話致しましょう。貴方の事を」
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