SMの世界

静華

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「すっげぇ……」
 カウンターでグラスを磨いていた翔(かける)の口から心の声が漏れた。
 翔がこの会員制フェティッシュバー・F(エフ)で働き始めて約八か月。ショーを見るのはこれで三回目だ。
 Fで行われるショーはSMを主軸とした性的フェティシズムを満たすもので、テーマは多岐にわたり、コスプレ、メイド、緊縛、スワッピングなどテーマに合わせたSMショーが不定期に開催される。
 縛られて、鞭で打たれたり、玩具(ディルドー)で犯される姿を公衆の面前でさらすなんて考えられない。
(っていうか、下手したら公然わいせつ罪じゃん……)
 詳しく知らないが、Fの会員になるためには厳しい審査があり、基本的には会員の紹介などがなければ入会できないらしい。しかも、厳格な会員規約があり、個人情報の漏洩については特に厳しい罰則が設けられている。スタッフも厳選された身元が確かな人ばかりで、オーナーが直接面接し、研修期間の半年間はショー開催日の出勤ができないことになっている。
 翔もようやく研修期間の半年を終えて、ショーのある日も出勤を許された。というか、ショーの内容など詳しいことを知らされたのだ。
 衝撃的なショーの存在に辞めようかとも思ったが、普通のアルバイトではありえない高時給とバイト仲間の人柄、シフト調整のしやすさから、続けて働くことに決めた。
ショーの時は鞭打ちの音や悲鳴、怒声などにはらはらさせられるが、三回目の今日はだいぶ慣れた気がする。それとも、今日のショーに出ているのが違う人だからだろうか。
 前の二回のショーの人は怖かった。雰囲気もそうだが、言葉づかいも粗野で乱暴で、大きな声で相手を追い詰めていくような人だった。けれど、今日の人は見た目だけなら人形のように綺麗な人だ。
(っ……)
 今、ステージ上の彼と目が合った気がした。感情を抑えた冷たい瞳が、ほんの一瞬、翔を捉えた。
「おい、翔。休憩、いけよ。控室の個室は入るなよ。ショーが終わったらあの人を入れるからな」
 背後からぽんと背中を叩かれた。
「あ、はーい。颯斗(はやと)さんはもう休憩とった?」
「いや、翔の後にとるわ。先にいけよ」
 ここはいいから、と休憩室へ行くように促され、翔はまだショーが続くステージを横目に【Staff Only】と書かれたドアを押し開けた。
 さっきのショーが今日のラストだから、後は客が引けるのを待って片付けるのみ。
 誰もいない狭い部屋の隅に置いてある丸イスに座って、翔は煙草に火をつけた。大きく息を吸って、空気と一緒に煙を肺に送り込む。そして、ゆっくりと肺から煙を吐き出した。
 煙とともに、さっきまでのショーの主役である大柄のマッチョな男の姿が悶え苦しむシーンを頭から追い出そうとする。
 翔は恋愛に関してはゲイよりのバイだ。同性でも異性でも、パートナーからたっぷり愛されたい、ちょっと甘ったれなところがある。
 SMに全く興味がないと言えば噓になる。でも、あんな風に縄で縛り上げられ、鞭で打たれて本当に性的興奮を得られるんだろうか。
 縛られて、赤く腫れあがるほど鞭でぶたれ、ディルドで責められていた男の性器は萎えることを知らないように硬いままだった。
(っていうか、普通にケツに指入れただけでめちゃ痛かったし、……無理だよな)
 それとも初めは無理でも、そういう体になるものなんだろうか?
「いや……絶対、痛いよ」
「今日はそんなに痛くしてないんですよ。まったく痛くないというわけではないでしょうが。彼はとてもよく躾けられた奴隷なんです」
 ぽつりとこぼれた独り言に返事があって、翔は飛び上がるほど驚いた。声のする方を振り返ると、翔が入ってきたドアとは反対側にある、ステージへと続くドアの縁に体を持たれかけさせた男がにっこり佇んでいた。
 ショーで大男を責めぬいていた人だ。
 細身だが、自分よりも大きい男を手際よく吊り上げられるほどの筋力がついているからだろう、華奢という印象はない。整った顔立ちにモデルのような抜群のスタイル。身長は一七〇センチそこそこの翔よりも高いだろう。見た目だけでいくと、この男の方が責められる側に似合う気がした。
「今日は軽めのショーでしたから、彼には物足りなかったかもしれません」
 ――軽め? ……あれで?
こつこつと足音を響かせながら男が近寄ってくる。
 なぜだか、彼から視線がはずせなかった。縛られているわけでもないのに、翔はイスから動けない。
 すぐ目の前にきた男を見上げる翔と翔を見下ろす彼の眼差しがひっついて離れない。しばらく――ほんの五秒ほどだったかもしれないが、翔にはもっと長く感じた――見つめあうと、彼の目元がふっと緩んで金縛りが解けた。
「すみませんが、煙草を一本いただけませんか? 切らしてしまって……」
「あ、え、あ、はい。メンソールっすけど、それでもよければ」
 テーブルに投げ出してあった箱から一本取り出して手渡した。
 煙草を受け取った指先は、温かかった。なんだが意外だ。もっと凍えるほど、冷たいかと思っていたのに。
 うすく形のよい唇にくわえられた先端に、愛用のジッポで火をつけてやった。
「ありがとう」
 吐き出される煙にのせて、彼はにっこりと微笑んだ。
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