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第一章 お姉様の婚約者
4:精一杯の色仕掛け(2)
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「兄様、ご機嫌よう」
私が部屋に入ると、兄様は読んでいた本を机に置き、後ろを振り返った。そしていつものように心底嫌そうに目を細めた。
「ご機嫌は非常によろしくない。主に君のせいで」
「あら、それは大変ですわ」
「はあ……。君も懲りないな、ミュリエル」
「諦めが悪いのは私の長所ですので」
「悪いが、何度来られても俺が君を抱くことはない。絶対にだ」
「世の中、“絶対”なんてあり得ないのですよ」
絶対にあり得ないと思っていることでも、案外普通に起きたりする。
そう、例えば結婚式当日に婚約者に逃げられるとか。
「……」
「………」
しばしの沈黙。見つめ合う兄様と私。
夜の静寂が私たちを包む。
暖炉の薪がパチパチと鳴り、橙色の炎がゆらゆらと揺れている。
よし。
私は大きく息を吸い込み、ガウンの腰紐をするりと解いた。
「ふふっ。兄様」
「何だよ」
「そんな風に余裕ぶっていられるのも今のうちですわ」
私は着ていたガウンを豪快に脱ぐ。そしてどうだ、という顔をして兄様の方を見た。
兄様は自信満々な私を呆れ顔で見つめていた。
「あれぇ?」
どこを間違えたのだろう。完璧だと思ったのに。
兄様はチッと舌を鳴らすと、椅子から立ち上がってゆっくりとこちらに近づいてきた。
「痴女かよ。馬鹿」
床に落ちたガウンを拾い上げ、それを乱暴に私の頭に被せる兄様。扱いが雑すぎる。
「あ、そういうことですか」
どうやら兄様は豪快に脱いだのが気に入らなかったらしい。そういえばお義母さまも、ゆっくりと焦らしながら脱ぐよう仰っていた。
私は再びガウンを羽織ると、今度はちらちらと上目遣いで兄様の様子を窺いつつ、右肩に手を添えてできるだけゆっくりとガウンをずらす。
けれど、何故だろう。お義母さまの指示通りにしているつもりなのに、自分でもわかるほどに動きがぎこちない。そして心なしか、兄様が笑いを堪えるみたいに肩を震わせている気がしなくもない。
私はもう何が正しいのかわからず、ヤケになって再び豪快にガウンを脱ぎ落とした。
兄様は耐えられなかったのか盛大に吹き出す。私は頬を膨らませた。
「兄様。それは流石に失礼なのではなくて?」
「悪い。でも君の色仕掛けがあまりにもぎこちなくて」
「こういうのは慣れていないのです!仕方がないでしょう!?」
「そうだな。慣れないことをするものではないな、ミュリエル?」
「……むぅ。そうですわね!」
「そう怒るな。ほら、とりあえずガウンを着なさい。腹を冷やすぞ」
兄様は拗ねた子どもをあやすように私の頭を撫で、そしてまた、私にガウンをかけてくれた。今度は頭ではなく、肩に。
姉様に遠慮してか、ここ最近は滅多に触れてこなくなっていたのに。私は肩の上に乗せられた兄様の手を掴んだ。
「……おい、こら」
「あ、マメが出来てる」
「あんまり触るな。痛い」
「どうしてマメなんて出来てるのですか?引きこもりのくせに」
「引きこもりって言うな。もう離してくれ」
「んー、もう少し。兄様の手、好きなんですよね。私」
花の匂いがする、優しくて温かい手。私は昔からこの手が大好きだ。
「そういえば昔はよく、私の手を引いて歩いてくれてましたよね。お散歩に行く時とか」
「……忘れた」
「うそ。覚えてませんか?私、鈍臭いから何にもないところでよく転んで。あまりに危なっかしいからって、手を繋いでくれていたんですよ?」
「……さあ?そうだったか?」
「私、あの頃からずっと、兄様のこの手が大好きなんです」
兄様は、姉様とのデートに必ずと言って良いほど現れる私を邪魔者扱いせずに、しっかりと手を繋いでくれていた。
本当は姉様との二人きりが良かったはずなのに、いつも私のことを気にかけてくれた。優しい人。
「ごめんなさい……」
私が二人のデートを邪魔をしなければ、兄様はもっと姉様との仲を深められたのではないだろうか。
私が二人の逢瀬の邪魔をしなければ、姉様も兄様の魅力に気づくことができて、結果的に兄様を裏切るようなことはしなかったのではないだろうか。
今はそう思えてならない。
「……はあ」
無意識に吐き出された私の身勝手な懺悔に、兄様は大きなため息をこぼす。
「何に対しての謝罪かはわからないが、謝るな」
「ご、ごめ……」
「だから謝るなって。君の謝罪の9割は君が悪いわけじゃないことに対してのものだ。そんなことで謝られても、俺は困る」
「はい……。ごめ……、あ、いや……。はい。気をつけます」
「………うん」
「…………」
「…………」
また、気まずい沈黙が私たちの間に流れた。
ダメだ。今夜は完全に失敗した。色々とグダグダで、とてもそんな雰囲気ではない。今夜はもう撤収しよう。私は一歩後ろに下がった。
が、しかし。
うっかりお義母さまのガウンの裾を踏んでしまった私はバランスを崩した。
「きゃっ!?」
これはやばい。お義母さまと私の身長差を考えていなかった。私は後ろに倒れそうになる。
兄様は咄嗟に私の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「……っぶねー」
「あ、ありがとうございます」
「ったく。気をつけろ、馬鹿」
「す、すみません。…………って、あれ?」
意図せず、兄様の胸の中に飛び込むことになってしまった私は、兄様の胸板が想像していたよりもずっと分厚いことに驚いた。
「もしかして……。鍛えていらっしゃるの?」
兄様の胸元の隆起した筋肉を触りながら尋ねる。心臓の鼓動が妙に早い。
「兄様?」
「…………少しだけ、鍛えている」
「手のひらのマメもそのせい……?」
「……」
「まさか、剣の鍛錬をしていらっしゃるの?」
「まあな」
「どうして?剣は苦手だっておっしゃっていたのに」
「だって、君が……」
「私が?」
「…………いや、何でもない」
どこか奥歯に物が挟まったような話し方をする兄様に、私は首を傾げた。
兄様はそんな私を見て、グッと眉根を寄せる。とても不快そうな顔。
最近の兄様はよくこんな顔をする。それは私のことを妻と認めていないからなのかもしれないが、毎回そんな顔をされては流石に傷つく。
「兄様……、好き。大好き」
私は兄様に抱きついたまま、兄様を見上げて『好き』と呟いた。一応リッカの助言通りにしてみたのだが、なぜだろう。兄様の眉間の皺はさらに深くなった。
「はああああああ……」
「兄様、ため息が大きすぎます。ひどいです。傷つきました」
「小さければ良いのか?」
「そういうことを言っているのではありません。乙女に向かってため息を吐くなと申し上げているのです」
「仕方がないだろう。君が本当に何一つ理解していないのだから。ため息くらい吐きたくもなるさ」
「兄様はよく、私は何もわかっていないとおっしゃいますけど、一体何をわかっていないと言うのです?」
「全部だよ」
「きゃっ!?」
兄様は苛立ったように、少し乱暴に私の腰を抱き寄せた。
意外と力が強い。鍛錬の成果だろうか。
「に、兄様?」
「ミュリエル」
「な、なななな何でしょう?」
「このまま、ベッドに行くか?」
「……………………え?」
絶対にないと言っていたのに。どうして?
予想外の提案に私の体は凍りついたように固まる。ソレが目的で来ているのに、いざそういう展開になると急に動けなくなるなんて情けない。
「あ、あああああの……」
「ミュリエル……」
兄様は私の顔に手を添えると、頬を優しく撫でる。そして動揺する私を弄ぶように唇に触れると、親指の腹で少し強くなぞった。
これはもうキスされる流れだ。だって、この前メイドから借りて読んだ恋愛小説でも同じような場面があったもの。
たしか、あれは護衛の騎士が片想い相手のお姫様にちょっと強引に迫るシーンだったはず。
私もあんな風に触られるのだろうか。どうしよう、少し怖くなってきた。
だが、怖いなんて言っていられない。これはまたとないチャンスだ。
予習は完璧だし、大丈夫。
この日のために、お義母様に隠れて何冊もの恋愛小説を読んできたのだ。私は覚悟を決めてギュッと目を閉じた。
けれど、兄様はそれ以上何もしてこなかった。
私がゆっくりと目を開けると、目の前には悲しげに微笑む兄様の顔があった。
「兄、様……?」
「冗談だよ。本気にするな」
「え、冗談……?」
「うん。冗談」
「……そ、そっか。そうですよね。兄様が私なんかの誘惑に乗るはずないですもんね。ははは……」
随分とタチの悪い冗談だが、妙にホッとしてしまった私は怒る気にもなれなかった。
「…………部屋まで送ろう。子どもはもう寝る時間だ。早く寝ないとまた昼間に眠くなるぞ」
兄様は私の頭を撫でると、私の手を引いて廊下へと誘う。
いつまで経っても子ども扱いだ。
「子ども扱いはやめてください」
「そんなこと言われても、ミュリエルはまだ子どもだよ。よく図書室で昼寝をしているだろう?」
「それはお部屋が暖かいせいです」
「違うな。夜更かししてるせいだ。だからもうこういう事はやめて、明日からは早く寝なさい」
聞き分けの悪い幼子に言い聞かせる母親のような口調で私を諭す兄様。それがとても不愉快で、私は口を尖らせた。
「ねえ、兄様。私はいつになったら兄様の妻だと認めてもらえるの?」
自分でもびっくりするくらい、子どもじみた拗ねた口調だ。子ども扱いするなと言った手前、恥ずかしくなり顔を伏せる。
すると、兄様はフッと笑みをこぼすした。そしてまた、しょんぼりとする私の頭を撫でた。
これ以上ない子ども扱い。私は悔しくて、兄様の手を払いのけた。
「子ども扱いは嫌だってば!私はもう立派なレディです!」
「立派なレディは安易に男を誘惑したりしないんだよ」
「私と兄様は夫婦だもの」
「覚悟もないくせに、よく言うよ」
「……覚悟?」
「わからないのならいい」
「え?ちょっと……!」
「ほら、行こう。部屋まで送るから」
廊下に出た兄様はランタンの灯りを頼りに、私の前を歩く。
「兄様……?」
先ほどの言葉の意味を聞きたいのに、兄様の背中はそれ以上は聞くなと言っているような気がして、私は何も言えなかった。
覚悟とは何のことだろう。
永遠の片思いをする覚悟?それとも周りからの中傷に耐える覚悟?
どんな覚悟かはわからないけど、あの日、神様の前で誓いを立てた瞬間から、この結婚生活が目も当てられないほど悲惨なものになろうとも兄様と添い遂げる覚悟ができている。
それなのに。これ以上、私にどんな覚悟を見せろと言うのか。
「はあ……」
兄様の背中を追うのに少し疲れた私は窓の外を見る。夜の帳が下りた庭園には明かりがなく、何も見えない。今夜は月も出ていないから本当に真っ暗だ。
このまま、朝が来なければ庭園の花々はどうなるんだろう。
ふとそんな事を考えた。
何の意味もない疑問だ。必ず朝はくるし、朝が来たら陽は昇る。
でももし、朝が来ない世界になったなら、この花たちは希望も何もない暗闇の中で緩やかに枯れていくのだろうか。
「おやすみ」
「おやすみなさい、兄様」
部屋にたどり着いた私は兄様の姿が見えなくなってから、静かに扉を閉めた。
今夜の静寂はちょっとだけ怖い。
でも、私にはもう、手を繋いで一緒に眠ってくれる人がいない。
今日は久しぶりに金色の悪魔が出てくる夢を見そうだ。
私が部屋に入ると、兄様は読んでいた本を机に置き、後ろを振り返った。そしていつものように心底嫌そうに目を細めた。
「ご機嫌は非常によろしくない。主に君のせいで」
「あら、それは大変ですわ」
「はあ……。君も懲りないな、ミュリエル」
「諦めが悪いのは私の長所ですので」
「悪いが、何度来られても俺が君を抱くことはない。絶対にだ」
「世の中、“絶対”なんてあり得ないのですよ」
絶対にあり得ないと思っていることでも、案外普通に起きたりする。
そう、例えば結婚式当日に婚約者に逃げられるとか。
「……」
「………」
しばしの沈黙。見つめ合う兄様と私。
夜の静寂が私たちを包む。
暖炉の薪がパチパチと鳴り、橙色の炎がゆらゆらと揺れている。
よし。
私は大きく息を吸い込み、ガウンの腰紐をするりと解いた。
「ふふっ。兄様」
「何だよ」
「そんな風に余裕ぶっていられるのも今のうちですわ」
私は着ていたガウンを豪快に脱ぐ。そしてどうだ、という顔をして兄様の方を見た。
兄様は自信満々な私を呆れ顔で見つめていた。
「あれぇ?」
どこを間違えたのだろう。完璧だと思ったのに。
兄様はチッと舌を鳴らすと、椅子から立ち上がってゆっくりとこちらに近づいてきた。
「痴女かよ。馬鹿」
床に落ちたガウンを拾い上げ、それを乱暴に私の頭に被せる兄様。扱いが雑すぎる。
「あ、そういうことですか」
どうやら兄様は豪快に脱いだのが気に入らなかったらしい。そういえばお義母さまも、ゆっくりと焦らしながら脱ぐよう仰っていた。
私は再びガウンを羽織ると、今度はちらちらと上目遣いで兄様の様子を窺いつつ、右肩に手を添えてできるだけゆっくりとガウンをずらす。
けれど、何故だろう。お義母さまの指示通りにしているつもりなのに、自分でもわかるほどに動きがぎこちない。そして心なしか、兄様が笑いを堪えるみたいに肩を震わせている気がしなくもない。
私はもう何が正しいのかわからず、ヤケになって再び豪快にガウンを脱ぎ落とした。
兄様は耐えられなかったのか盛大に吹き出す。私は頬を膨らませた。
「兄様。それは流石に失礼なのではなくて?」
「悪い。でも君の色仕掛けがあまりにもぎこちなくて」
「こういうのは慣れていないのです!仕方がないでしょう!?」
「そうだな。慣れないことをするものではないな、ミュリエル?」
「……むぅ。そうですわね!」
「そう怒るな。ほら、とりあえずガウンを着なさい。腹を冷やすぞ」
兄様は拗ねた子どもをあやすように私の頭を撫で、そしてまた、私にガウンをかけてくれた。今度は頭ではなく、肩に。
姉様に遠慮してか、ここ最近は滅多に触れてこなくなっていたのに。私は肩の上に乗せられた兄様の手を掴んだ。
「……おい、こら」
「あ、マメが出来てる」
「あんまり触るな。痛い」
「どうしてマメなんて出来てるのですか?引きこもりのくせに」
「引きこもりって言うな。もう離してくれ」
「んー、もう少し。兄様の手、好きなんですよね。私」
花の匂いがする、優しくて温かい手。私は昔からこの手が大好きだ。
「そういえば昔はよく、私の手を引いて歩いてくれてましたよね。お散歩に行く時とか」
「……忘れた」
「うそ。覚えてませんか?私、鈍臭いから何にもないところでよく転んで。あまりに危なっかしいからって、手を繋いでくれていたんですよ?」
「……さあ?そうだったか?」
「私、あの頃からずっと、兄様のこの手が大好きなんです」
兄様は、姉様とのデートに必ずと言って良いほど現れる私を邪魔者扱いせずに、しっかりと手を繋いでくれていた。
本当は姉様との二人きりが良かったはずなのに、いつも私のことを気にかけてくれた。優しい人。
「ごめんなさい……」
私が二人のデートを邪魔をしなければ、兄様はもっと姉様との仲を深められたのではないだろうか。
私が二人の逢瀬の邪魔をしなければ、姉様も兄様の魅力に気づくことができて、結果的に兄様を裏切るようなことはしなかったのではないだろうか。
今はそう思えてならない。
「……はあ」
無意識に吐き出された私の身勝手な懺悔に、兄様は大きなため息をこぼす。
「何に対しての謝罪かはわからないが、謝るな」
「ご、ごめ……」
「だから謝るなって。君の謝罪の9割は君が悪いわけじゃないことに対してのものだ。そんなことで謝られても、俺は困る」
「はい……。ごめ……、あ、いや……。はい。気をつけます」
「………うん」
「…………」
「…………」
また、気まずい沈黙が私たちの間に流れた。
ダメだ。今夜は完全に失敗した。色々とグダグダで、とてもそんな雰囲気ではない。今夜はもう撤収しよう。私は一歩後ろに下がった。
が、しかし。
うっかりお義母さまのガウンの裾を踏んでしまった私はバランスを崩した。
「きゃっ!?」
これはやばい。お義母さまと私の身長差を考えていなかった。私は後ろに倒れそうになる。
兄様は咄嗟に私の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「……っぶねー」
「あ、ありがとうございます」
「ったく。気をつけろ、馬鹿」
「す、すみません。…………って、あれ?」
意図せず、兄様の胸の中に飛び込むことになってしまった私は、兄様の胸板が想像していたよりもずっと分厚いことに驚いた。
「もしかして……。鍛えていらっしゃるの?」
兄様の胸元の隆起した筋肉を触りながら尋ねる。心臓の鼓動が妙に早い。
「兄様?」
「…………少しだけ、鍛えている」
「手のひらのマメもそのせい……?」
「……」
「まさか、剣の鍛錬をしていらっしゃるの?」
「まあな」
「どうして?剣は苦手だっておっしゃっていたのに」
「だって、君が……」
「私が?」
「…………いや、何でもない」
どこか奥歯に物が挟まったような話し方をする兄様に、私は首を傾げた。
兄様はそんな私を見て、グッと眉根を寄せる。とても不快そうな顔。
最近の兄様はよくこんな顔をする。それは私のことを妻と認めていないからなのかもしれないが、毎回そんな顔をされては流石に傷つく。
「兄様……、好き。大好き」
私は兄様に抱きついたまま、兄様を見上げて『好き』と呟いた。一応リッカの助言通りにしてみたのだが、なぜだろう。兄様の眉間の皺はさらに深くなった。
「はああああああ……」
「兄様、ため息が大きすぎます。ひどいです。傷つきました」
「小さければ良いのか?」
「そういうことを言っているのではありません。乙女に向かってため息を吐くなと申し上げているのです」
「仕方がないだろう。君が本当に何一つ理解していないのだから。ため息くらい吐きたくもなるさ」
「兄様はよく、私は何もわかっていないとおっしゃいますけど、一体何をわかっていないと言うのです?」
「全部だよ」
「きゃっ!?」
兄様は苛立ったように、少し乱暴に私の腰を抱き寄せた。
意外と力が強い。鍛錬の成果だろうか。
「に、兄様?」
「ミュリエル」
「な、なななな何でしょう?」
「このまま、ベッドに行くか?」
「……………………え?」
絶対にないと言っていたのに。どうして?
予想外の提案に私の体は凍りついたように固まる。ソレが目的で来ているのに、いざそういう展開になると急に動けなくなるなんて情けない。
「あ、あああああの……」
「ミュリエル……」
兄様は私の顔に手を添えると、頬を優しく撫でる。そして動揺する私を弄ぶように唇に触れると、親指の腹で少し強くなぞった。
これはもうキスされる流れだ。だって、この前メイドから借りて読んだ恋愛小説でも同じような場面があったもの。
たしか、あれは護衛の騎士が片想い相手のお姫様にちょっと強引に迫るシーンだったはず。
私もあんな風に触られるのだろうか。どうしよう、少し怖くなってきた。
だが、怖いなんて言っていられない。これはまたとないチャンスだ。
予習は完璧だし、大丈夫。
この日のために、お義母様に隠れて何冊もの恋愛小説を読んできたのだ。私は覚悟を決めてギュッと目を閉じた。
けれど、兄様はそれ以上何もしてこなかった。
私がゆっくりと目を開けると、目の前には悲しげに微笑む兄様の顔があった。
「兄、様……?」
「冗談だよ。本気にするな」
「え、冗談……?」
「うん。冗談」
「……そ、そっか。そうですよね。兄様が私なんかの誘惑に乗るはずないですもんね。ははは……」
随分とタチの悪い冗談だが、妙にホッとしてしまった私は怒る気にもなれなかった。
「…………部屋まで送ろう。子どもはもう寝る時間だ。早く寝ないとまた昼間に眠くなるぞ」
兄様は私の頭を撫でると、私の手を引いて廊下へと誘う。
いつまで経っても子ども扱いだ。
「子ども扱いはやめてください」
「そんなこと言われても、ミュリエルはまだ子どもだよ。よく図書室で昼寝をしているだろう?」
「それはお部屋が暖かいせいです」
「違うな。夜更かししてるせいだ。だからもうこういう事はやめて、明日からは早く寝なさい」
聞き分けの悪い幼子に言い聞かせる母親のような口調で私を諭す兄様。それがとても不愉快で、私は口を尖らせた。
「ねえ、兄様。私はいつになったら兄様の妻だと認めてもらえるの?」
自分でもびっくりするくらい、子どもじみた拗ねた口調だ。子ども扱いするなと言った手前、恥ずかしくなり顔を伏せる。
すると、兄様はフッと笑みをこぼすした。そしてまた、しょんぼりとする私の頭を撫でた。
これ以上ない子ども扱い。私は悔しくて、兄様の手を払いのけた。
「子ども扱いは嫌だってば!私はもう立派なレディです!」
「立派なレディは安易に男を誘惑したりしないんだよ」
「私と兄様は夫婦だもの」
「覚悟もないくせに、よく言うよ」
「……覚悟?」
「わからないのならいい」
「え?ちょっと……!」
「ほら、行こう。部屋まで送るから」
廊下に出た兄様はランタンの灯りを頼りに、私の前を歩く。
「兄様……?」
先ほどの言葉の意味を聞きたいのに、兄様の背中はそれ以上は聞くなと言っているような気がして、私は何も言えなかった。
覚悟とは何のことだろう。
永遠の片思いをする覚悟?それとも周りからの中傷に耐える覚悟?
どんな覚悟かはわからないけど、あの日、神様の前で誓いを立てた瞬間から、この結婚生活が目も当てられないほど悲惨なものになろうとも兄様と添い遂げる覚悟ができている。
それなのに。これ以上、私にどんな覚悟を見せろと言うのか。
「はあ……」
兄様の背中を追うのに少し疲れた私は窓の外を見る。夜の帳が下りた庭園には明かりがなく、何も見えない。今夜は月も出ていないから本当に真っ暗だ。
このまま、朝が来なければ庭園の花々はどうなるんだろう。
ふとそんな事を考えた。
何の意味もない疑問だ。必ず朝はくるし、朝が来たら陽は昇る。
でももし、朝が来ない世界になったなら、この花たちは希望も何もない暗闇の中で緩やかに枯れていくのだろうか。
「おやすみ」
「おやすみなさい、兄様」
部屋にたどり着いた私は兄様の姿が見えなくなってから、静かに扉を閉めた。
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