猫と嫁入り

三石一枚

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二十話

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 辺りには、ずっしりと重い暗闇が降りていた。
 今宵は星の光一つすら地上に落ちない真っ暗な夜である。私は、そんな漆黒を照らす仮初の灯りを頼りに一人で街道を歩いていた。
 夏場前であるに関わらず、冷気を感じさせる何かがある。一度風が吹けば背に走る悪寒が一瞬身体の自由を奪う。気味の悪い散歩である。

 許嫁殿とは、結局あの甘味屋で解散をした。彼は私を気遣って送ってくれようとしたのだけれど、私はそれを「少しばかり寄る場所がある」としてその申し出を断った。快く私の一言を受理した彼は笑顔で私の背中を見送ってくれた。背後に感じる視線が、今の私にはどうにも切なくて痛かった。その笑顔はあくまで、商業的な意味合いがあると深読みをしてしまう。
 何より、今は一人で物耽りたい気分だった。どうにしろ人に付かれて帰る気分ではない。とぼとぼと一人虚しく歩いて帰るのが今の私にはお似合いであった。人通りも少なくなり、昼とはまた別の顔を見せる大路地を歩く様は、これまた奇っ怪な感情を呼び寄せる。
 ひとの温かさが引っ込んだ街は嫌に寂しく寒い。胸の内がざわめくような衝動を感じさせる。このままこの世界から人っ子一人いなくなってしまうのではないかという寂寥が体を縛り付ける。
  勿論、そんなこと起きるはずもないのだけれど。

 ともあれ、私はこのまま素直に帰宅しようとしていない。彼の付き添いを断ったのも、少しばかりの野心があったからだ。存外、立花麗かは実直に育ってはいない。八割の素直と二割の茶目っ気で生きている人間である。そんな私が、そうやすやすと正直に帰りましょうで家路につくわけが無い。
 『寄る所がある』と言ったが、これは嘘ではなかった。偽りなき事実である。
 彼との話で私の中でひとつだけつっかえたものがある。あの猫の事だ。このままトントン拍子に話が決まれば、きっとあの可愛い小動物とも会えなくはなってしまうだろうし、別れという訳では無いが、少しばかりその顔を見たくなった。勿論、愚痴だってこさえてある。
 空に星がない事をみれば、今はきっと雲が大空を制してあるのだろう。条件は揃っている。
 私は少しばかり歩みを早める。
 身体に残る気分の悪さを振るうために。

  ※※※※※※※※※※※※※※※

 たどり着いた矢先に、私は口を開けずにはいられなかった。
 目の当たりにした光景を飲み込めずに、ただ呆然と眺める。
 端的に言えば、あるべき姿であるはずのものが、そうでなくなっていた。
 心もとない程小さな明かりの下。降りた帳の中で咲いていたはずのハイカラ色の大人用の防雨具は。
 ・・・臙脂の傘は。
 ・・・畳まれていた。
 乾いた土の上に寝かされたような状態でだ。
 濡れそぼってたはずのその身は、既に乾ききってしまっている。
 
 いつもなら開いたままでそこにあるはずの傘が、綺麗きっちりにされている様は、私を酷く動揺させた。考え方によっては通りかかった人が不審に思って閉じたなど、色々と根拠付けができるのだけれどそんな人がこの付近にいるのだろうか。
 例えばこれが、宿を畳んだ、という暗示であったならば。嫌な予感が脳裏を掠める。

 ふと落とした視線の先に、白く綺麗な便箋が一枚置かれていた。閉じられた傘に敷かれるようにしてぽつんとあった。
 私は手に取ってそれを開ける。これをただの覚書であるとは思えない。あの猫が宿としていた傘が今は閉じられ、代わりにこれがあるとするなら、関係性が何かあると考えるのが普通である。
 かさかさに乾いたような手触りの便りには、滲むような字面で長い文章が書き連ねられていた。
 見てくれは決して綺麗ではない。殴り書きにすら見えてしまいそうなほど乱暴な文字の羅列だ。ところどころ擦り切れてしまっているような字すらある。
 あの猫が書き込んだのか。考えられないが、そう考えるしかない。
 私はゆっくりと噛み砕いていくように、小さな明かりの下でその文に目を通していく。  
 
『これを見たもので、もしこの傘に覚えがないのなら、どうかそっと臙脂色の傘の下に、一見すれば見つけられるように置いて欲しい。
そしてここにある全てのことを忘れるのだ。これは決して君宛に書いたものでは無い。記憶に留めて置く必要も無いほどの戯言しか書かれてないからだ。
これを見つけた上で、この傘に覚えがある・・・若しくは、みすぼらしい猫と遊んだことのあるのなら、どうかこの先を読んでくれ給え。
これは決して面白みのあることを書いたものでは無い。きっと記憶にとどめておく必要も無いほどの戯言しか書かれてないのだから、一読したならば燃やしても、破り捨てても構わない。
だけれど、確かに君宛に書き連ねたものだ。君だけは目を通して欲しい。

臙脂色の傘をくれたお嬢さんへ。
この手紙を読んでいるということは、きっと私はここを去った後だろうと思う。君の事だから、恐らく愚痴のひとつやふたつ、悩みの種か若しくは相談事をこさえてやって来たのだろう。そのことについて謝りたい。折角私を頼ってきてくれたというのに、このような便箋一枚しか残せない私を、どうか許して欲しい。

まず、私にはもう、あまり時間が残されてない事に触れておきたい。君には話してはなかったが、もうずっと前からその運命にあった。隠していた訳では無い。口にするべきものでもないと思っていたのだ。さすらうだけが能の猫がどこぞで倒れようが、きっと君には関係の無い話なのだから。
日に日にまとわりつく、身体にある悪寒は命のさえずりを意味し、合わぬ焦点は終わりを暗示する。楽しみであった散歩すら、気が気でない。川を眺めるときか、それとも休憩として木陰にもたれかかる時か、もしやすれば、あと一歩か。いつ、自らの身がゆっくりと崩れていくのか、地に臥してしまうのか分からない、そんな恐怖を抱いて土を踏みしめていた。先に進むほど死が近くなるのならば、もう私は足を止めてしまいたい。例え物理的に私が行く手を止めても、どちらにしろ死ぬ事が遠ざかる訳では無い。しかし、体を動かす程、自分の生命への脈動を感じてしまう。この鼻腔をくすぐる緑の匂いを、水に没した青の地面を、闇入りする前の地平の茜を、まだこの体で味わっていたい。狂おしいほどに、命が惜しく感じる。あゆむ程に、意識が砕け散るその瞬間を意識してしまう。そんな日々を、ずっと前から送っていた。

君に会ったのはそんな矢先の話だ。小っ恥ずかしい話だが、君との邂逅が、私の心を少しだけ照らしてくれる形になった。片手に数える程度でしか君と話す機会に恵まれなかったが、それでも、凍てついた深海に不意に差し込んだ光束のように、小さいながらも私がこれからを生きるために必要な導となってくれた。私に一歩を踏み出す勇気をくれた。太陽のようにすら思っている。

私と君は結局は別の個体だ。互いに用意された別の道がある。交わるのがこの程であっただけで、それから先を分かち合いながら生きることはきっと叶わない。君は君の力だけで自分の人生を歩むべきだし、私も然りである。
だからこそだ。本当に惜しいのは私も同じだが、きっとこうやって離れるのがお互いのためだと思う。私たち二人は似ているのだから、きっと期限を決めてしまえば気を使ってぎこちないままに離れ離れになるだろう。出会った時と同じように、ぱったりと居なくなる方が、きっとお互いにきつくはない。お互いもとあった線路に戻るだけだ。夢だったと思えばいいのだ。喋る猫は、君の見た白昼夢だったと。

長々と連ねたが、震える手で一筆認めるのも疲れてしまうものがある。筆とは斯様に重かったのか。字とは斯様に書き辛いものだったのか。
生きるとは、斯様に面白いものだったのか。
戯言はここまでである。私はこの限りある命でできるだけ多くを知るために、旅に出てみるつもりだ。臙脂色の傘は、もう必要でなくなったから、この場を借りて返したい。この場を返すことは、きっともう無いだろうけれど。
私は生きるだけ生きてみる。君も、華のある命の限りを生きてくれ。

私に小さな夢を見せてくれてありがとう。
あなたという、麗らかに咲く一輪の華に至極の幸が見舞われんことを。

あなたが愛した黒猫より』

「・・・。」

 読み終えた私は言葉を失った。口に現す文言が出やしなかった。

 居なくなった。どこかでそういう事が起きる事を覚悟していたにも関わらず、それに直面した時はやはりこうも動揺が現れる。先の告白も同様に。
 しかし、彼の言う事も一理はあった。確かに、あの運命的な出会いがあったからこそこうやって顔をつき合わせて話す機会に恵まれただけで、実際はきっと交じることの無い関係性であったはずだ。私と猫は必然で結ばれていた訳では無い。さらに希薄な偶然でのみ遭遇していたわけで。

「とはいえ、私もいつまでも頼って生きるべきじゃないってことか」

 白昼夢・・・か。確かに私は、最初に彼を視野に収めた時はそれを現実逃避と表していた。人の言葉を理解し、弁舌に話せる猫など、昨今世界の国中を見ても存在しない事など、小娘の私でも分かる。
 確かに、あの子は夢だったのかもしれない。私はただ、夢から覚めただけなのだ。ただ、それだけだ。
 現実に戻されたなら、やる事はひとつ。ただ、現実を見据えること。
 あの素敵な夢だって、きっと私にそうやって現実に集中してもらいたいから、こうも突然姿を消したのだろう。あの夢はいつだって優しい。仮初でない灯りを照らしてくれるくらいに。

 彼の残された時間というのも初めて知ったが、だとすればこれで今生の別れとなりうる。彼だってそうやって覚悟を決めて行方を眩ませたなら、その姿を追うなんてことは野暮だ。この別れをそのまま、受け入れるべきである。

「・・・本当に、いい夢でした」

 夢は潰え、ただ肌寒さを感じさせる現実だけが身を悴ませる。
 頼りない灯火が、臙脂の傘を柔く暖かく包む世界だけが、夕闇の中に取り残された。
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