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知らない名前

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 腹が膨れるまで食べ、挙げ句に泣いて気持ちの整理までついた。もうこれであのだだっ広い庭の草むしりだってできるだろう。泣きすぎて目元がすっかり腫れてしまい、ベッドに横たわってアルバートに冷たいタオルで冷やしてもらいながら、伊織はぽつぽつとこれからのことを話した。

「今までいたところとは、ここは違うんだと思います」
「うん」
「今までは保護者がいて養ってくれてたから学校にも通えていたけど」
「うん」
「これからは俺が働かないといけないんですよね」
「いや?」
「えっ」

 弾かれるように飛び起きると、アルバートはにこにこと笑ったまま、まるで答えが用意されてたかのように口を開いた。

「何もしなくていいからここにいたらいいよ」
「え」
「食事の心配も、泊まるところの心配も、着るものの心配もいらないよ」
「どういうこと……?」
「そのままの意味だよ。ずっとここにいればいいんだ」

 ここにいてもいいという言葉はありがたかった。この世界が分からない以上、どこに行ったらいいのかも分からない。親の庇護下から離れたことのない経験値が圧倒的に足りない伊織では、きっと一人で生きていくのは一苦労だ。そんな中で衣食住が揃うのであればありがたい申し出だ。けれど、一体なんのメリットがあってこの男はそんなことを言うのだろうか。何かしらの利がなければそんなことは言い出さないだろう。

「なんで、そんなこと言うんですか……?」

 そういえば、どうして伊織の名を知っていたのだろうか。名乗った覚えもなければ、どこから来たかなんて話もしていないのに、どうして事情をすべて知っているかのように振る舞うのだろうか。どんな事情があってあの森にいたのか、どこから来たのか、普通なら聞きたいのではないだろうか。

「なんでって」

 伊織は身を震わせた。助けてもらえて警戒心が緩んでいたのかもしれない。この男が何者なのか、先に確認するべきだった。己を害する存在だったのならば今すぐに逃げなければならないだろう。地の利もない、何もわからないこの世界でひとりになるのは辛いけれど。

「君はまだ子供だろう。親の庇護下にいるべき子供を何も分からないところに放り出すことはできないよ」

 その言葉に体の力が抜けていく。ぱたりとベッドに倒れ込むと、アルバートは冷えたタオルを再度当ててくれて何も見えなくなる。彼の突き抜ける青空のような瞳は、嘘をついているようには見えなかった。この人を信じてもいいのかもしれない。この優しさにおぼれてしまいそうだ。

「そういえば、どうして名前を知っていたんですか?」
「ん?」
「まだ名乗ってなかったかなって……」
「ああ」

 目元をそっと冷やしてくれるやさしい手つきに眠くなってくる。食べたらすぐ寝るだなんて赤ん坊みたいだ。目が腫れるほど泣いてしまったし。

「気絶する前にイオリが自分で自己紹介してくれたよ」
「え? そうでした?」

 覚えがないけれど、そうなのだろうか。アルバートの名を聞いていないのに、自ら名乗ったりなんかしたのだろうか。森にいたとき、伊織はひどく動揺していて、彼の顔を見た途端すぐに気絶したような気がするけれど、出会ったことのないはずの彼が名前を知っているならきっとそうなのだろうなと、そう思うことにした。

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