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知らないスープ
しおりを挟むこわい、そんな印象の命の恩人さんは、アルバート・フロウさんと言うらしい。伊織は何度も彼の名前を口の中で転がした。あまり日本人には馴染のない名前だから、万が一にも間違えないようにと何度も名前を繰り返す伊織を、にこにことしながらアルバートは見ていた。己に対する好感度が最初からマックスなのは気の所為なのだろうか。
「アルバート、さん」
「うん」
「なんでそんなに見るんですか?」
「イオリがかわいいから」
その言葉に眉を顰めるが、どう返したらいいものか分からなくて、伊織は曖昧に頷くことしかできない。否定してもいいけれど、彼の感性を否定したいわけでもないし、褒められていると思えばくすぐったくもないし。
「アルバートでいいよ。アルでもいい。もう少し砕けた口調でいいよ」
「そうは言っても命の恩人さんですし……」
「ふ、君は本当にかわいいな」
口元を手で抑えてくつくつと笑うアルバートはやはりおよそ人間らしくなくて、伊織にとっては非現実のようなものだった。彼のうつくしさに見慣れてしまうと、そのへんの人間が石ころに見えてしまいそうだ。
伊織の腹がぐうと音を立てた。そういえば水しか飲んでいないのだった。もうまる一日は食べていないくせに平和になった途端胃が活動を再開したようだ。腹の音に恥じらうような生娘でもないが、こんなうつくしい男の前で腹を鳴らすのは少しばかり恥ずかしい。鳴った腹を押さえると、アルバートはまずは食事を用意しようと言ってくれた。食事まで世話になるのは申し訳ないが、皿洗いでも草むしりでもなんでもやるから今はとにかく栄養をとりたかった。
「おねがい、します……」
このバカのように広い屋敷の草むしりは相当大変だろうなあ。けれど、背に腹は代えられない。とにかく食べなければ生きていけないのだ。
アルバートがサイドチェストに置いてあった鈴を鳴らすと、日本人男子は秋葉原やコンカフェでしか見たことがないようなメイドがやってきて机の上に食事を置いていった。ロングスカートのメイドも結構いいものだ。無表情に近かったけれど、この世界の住人たちは総じてきれいな顔をしているらしい。メイドが数人やってきたが、皆モデルやタレントのようにきれいな顔をしていた。ただ、その中でもアルバートは軍を抜いてうつくしいけれど。
「こ、こんなに?」
「もちろん残してもいいよ。好きなだけ食べよう。」
残してもいいだなんて、なんて背徳的なのだろうか。残った料理は捨てられてしまうのだろうか。そう考えたら手をつけるのはしのびない。フォークを持ったまま悩んでいる伊織を見て、アルバートは瞳を瞬かせている。腹を減らしていたのに手を付けないなんて不思議に思っているに違いない。
「これって、残ったらどうなるんです?」
「召使たちに下げ渡されるよ。それでも残ったら家畜たちにいくかな」
「あ、それなら……」
まじまじと見られながら食事をするのは気を使うが、一口食べてしまうともう止まらなかった。ばくばくと口に運び、温かいスープを飲んでぼろぼろと涙が出てきた。
「イオリ……」
「ほっとして……」
アルバートは大きな手で伊織の背中を何度もさすってくれた。ぼたぼたと大粒の涙が頬を伝っていくのに、食事の手は止まらなかった。食べられるのは幸せだったんだなと、実家が恋しくなった。たった2日程度しか経っていないのに今すぐ帰りたくてたまらない。ぐずぐずと鼻を鳴らしながら味なんて分からないくらい口に料理を詰め込んだ。
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