【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬

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(三十一)車一揆

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 水戸城奪還を目論んだ斯忠つなただの叛乱は後世、「車一揆」と称されるが、その詳細については確たることは判らない。

 一応は江戸時代の伝聞として、次のような内容が伝わっている。

 七月十日、三百余名が那珂川を渡河して水戸城への夜襲を試みたが、折からの悪天候に阻まれて思うように兵を進められない。

 まごつくうちに、徳川方が接収した支城からも増援が駆けつけ、衆寡敵せず敗れて斯忠は捕らえられた、というものである。

 まことしやかな話ではあるが、記録の裏付けは取れていない。

 一方では、七月十七日に、一味のが徳川の番士に捕らえられて密謀が露見し、斯忠らは事を起こすことすら叶わぬまま、一網打尽にされたとの話もある。

 いずれにせよ水戸城を一時的にでも奪うことは出来ず、斯忠が追われる身になったことは確かである。

 そして身を潜めていた斯忠は、不覚にも咳き込んだために徳川方に発見されてしまう。

 その身柄は一度江戸に送られて詮議を受けた後、最終的には十月に再び常陸に戻されて磔刑に処された。

 武勇の士として知られた男の最期にしては、あまりにも呆気ない終わり方である。

 合戦のさなかに馬上で眉間に矢を受けて斃れた父・義秀のような、劇的な死にざまからは程遠かった。

 それではあまりに哀れと思われたか、一部の軍記物などにおいては、徳川相手の一戦を主君・義宣に訴えるもこれを容れられなかったため、抗議の意味で自刃したことになっている。

 また、咳が命取りになったことから転じて、「咳止めの神様」として地元で信仰を集めたとの話も残る。
 当人があの世で聞けば、さぞ苦笑することだろう。


 斯忠の嫡子・新左衛門は、斯忠と行動を共にしたために同じく磔となって命を散らした。

 会津行きに同行できなかったことを悔やんでいたのだとすれば、無残な最期を迎えたとしても、どこか納得するものはあったのかもしれない。


 佐竹義宣の元にいた斯忠の次男・善九郎は叛乱に関与することなく、佐竹家移封先の秋田への同行を認められ、命を長らえている。

 もっとも、車の姓を名乗ることに差し障りがあったのか、家名を吉沼に改めている。


 斯忠の弟とも子ともされる車善七郎もまた、生き延びていた。

 しかし、江戸に潜入してなおも家康を討つ機会を見計らうも失敗し、捕らえられた。

 この時、家康は善七郎の剛毅さ、あるいは忠義心を称賛して命を助け、江戸浅草の非人頭としたと伝わる。


 この一揆において処刑されたのは、車斯忠父子、馬場政直父子(夫婦とも)、そして大窪久光の五人のみである。

 この少なさから類推すると、やはり挙兵前に露見したと考えるほうが妥当かもしれない。

 であるならば、武士の意地のために無駄に人を死なせずに済んだこと、なかでも最愛の妹が巻き込まれなかったことは、斯忠にとってわずかな慰めになったであろうか。


 斯忠が関わった他の人々のその後についても、このまま少し触れる。

 車一揆が生起したとき、斯忠の天敵であった和田安房守昭為は筆頭家老として、秋田への家臣団受け入れのために奔走していた。

 国許からの急報に接し、「愚かなことを」と舌打ちぐらいはしたかもしれないが、それどころではない、というのが本音であっただろう。

 移封がひとまず一段落し、秋田にてひと冬を越した慶長八年(一六〇三年)にはさすがに激務が堪えたのか、隠居を申し出ている。

 しかし、昭為の隠居によって空席となった家老職を巡って佐竹家中で内紛が起きるなど、安定には程遠い佐竹家においては彼の存在はまだまだ必要とされた。

 けっきょく元和四年(一六一八年)に八十七歳という高齢で亡くなるまで、昭為は苦労の絶えない生涯を送ることになる。 


 既に隠居の身であった翁山道永こと真壁氏幹は、佐竹の秋田行きに同行せず、常陸に残った。

 鬼とも称された豪傑は、再び世に出る機会をうかがうこともなく、大坂の陣で豊臣が滅び、徳川幕府の元で戦さの無い世が作られていくのを見届けた後、元和八年(一六二二年)、七十三歳で世を去った。


 斯忠の年下の異母兄、車丹波守義照も秋田には行かず神谷館に残った。

 意図して残ったのか、同行が認められずに取り残されただけなのかは定かでない。

 車一揆の処罰に連座せずに済み、胸をなでおろしたことは確かであろう。

 しかし、彼にも時間は残されていなかった。

 特に何を成すこともないまま、斯忠に遅れることわずか二年後の慶長九年(一六〇四年)には死去している。


 福島城主の本庄越前守繁長は、和睦交渉の貢献と福島城を守り抜いた一戦により、その地位を飛躍的に向上させていた。

 石高こそ一万一千石から三千三百石に減封されたものの、引き続き福島城を任された。

 上杉家中では直江兼続に次ぐ重鎮扱いとなり、その立場は終生変わらなかったという。

 大坂の陣の前年、慶長十八年(一六一四年)に死去。享年七十五。


 直江兼続の実妹・於きたは、斯忠に告げたとおり本庄繁長の元に再嫁し、連れ子の男子を無事に育て上げた。

 男子は長じて須田姓を名乗り、右衛門満統と称した。

 前夫・満胤と同じ「右衛門」を用いるあたりに、世が世なら須田満親の正当なる後継者との強烈な自負がうかがい知れる、との評価は穿ちすぎであろうか。

 なお、満統は本庄繁長の五女を嫁にしている。

 血のつながらない兄弟姉妹同士の近親婚は、満統、ひいては於きたが繁長に受け入れられていたことの証左であろう。


 梁川城主の須田大炊介長義は、二万石から六千六百六十六石へと、いっそ微笑ましいほど律儀に三分の一に石高を減らされたが、本庄繁長同様、城主としての地位は保った。

 松川合戦において長義が奪った伊達政宗の陣幕は、景勝に献上された。

 後年、徳川秀忠の供をして伊達政宗が上杉家の江戸屋敷を訪れた際、景勝は馬屋の前や台所の門にこれみよがしにくだんの陣幕を飾り付けて政宗に恥をかかせた、という子供じみた逸話が残る。

 それはさておき、松川合戦で示した長義の武勇は、大坂冬の陣における鴫野の戦いにおいても変わらなかった。

 上杉勢の先鋒を任された長義は、天下に知られた大坂方の豪傑・後藤又兵衛勢を相手に奮戦し、兜首も得て徳川秀忠から感状と来国光の太刀を与えられたほどだった。

 しかし、その際の戦傷が悪化したため、それから半年足らずの後、三十八という若さで惜しくもこの世を去った。 


 組外衆の岡佐内定俊は、上杉家を退去した後、会津六十万石に復帰した蒲生秀行に再び仕えた。

 上杉家に仕えたのは数年であったが、理財の才はわずかな期間にも関わらず大いに発揮され、多くの上杉家臣に抜け目なく金を貸し付けていた。

 上杉家を去る前に借金を取り立てられるのではないか、と戦々恐々とする上杉家臣を余所に、佐内は証文を残らず焼き捨ててから退散した。

 その振る舞いは、直江兼続をして「今の上杉家には、このような男こそ必要であったのに」と嘆かせたほどであったという。


 一方、前田慶次利益は直江兼続との個人的な友諠によるものか、組外衆が軒並み召し放ちとなる中にあって、引き続き一千石を与えられて仕えたという。

 上杉転封後の米沢にて隠棲したが、傾奇者としての逸話には、この隠棲時代のものも少なくないとされる。

***

 最後に、まったくの余談で物語を締めくくることをお許し願いたい。

 車一揆とはなんだったのか。その評価は割れる。

 多くの場合、領地替えの処遇を受け入れられない、時代遅れの田舎武士が起こした愚かな叛乱、と見なされる。

 しかし一方で、移封される佐竹の御家を不憫に思い、無念を晴らすべく起った義挙である、との評価も無くはない。

 幕末の松下村塾にて高杉晋作や伊藤博文を指導し、明治維新に大きな影響を及ぼした吉田松陰もその一人である。

 佐久間象山らの元で西洋の兵学を学んでいた頃、車一揆の話を聞き知って水戸を訪れ、斯忠を忠臣として高く評価したとされる。

 伝承によっては、車丹波は城下のに隠れていて捕らえられた、とされるだけに、単に縁を感じただけであるかも知れないが。

 なお、よく知られる「松陰」とは、自ら名乗った号である。

 正しくは、名を矩方のりかた。通称を「寅次郎」という。


(おわり)
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