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(二十九)樋口直房の死

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 信長は天正二年の正月祝いの席において、岐阜城において朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首級を「薄濃」にして馬廻に披露し、酒肴にしたと伝わる。

 しかし、新たな年を迎えてもなお、織田家は依然として各地に火種を抱えていた。

 特に、武田信玄の後を継いだ武田勝頼が一月末に美濃岩村口に出兵して岩村城周辺の枝城を攻め落とし、明知城を伺う勢いを見せていた。

 そのため、越前の一揆勢が大挙して近江にまでなだれ込む事態にでもならない限り、本腰を入れて越前に対処する余裕がないのが実情だった。

 二月の下旬になって、木目城に秀吉の使者が訪れ、書状を届けた。

 使者を引見した員昌、阿閉貞征、樋口直房の三名は、額を突き合わせるようにして書状をのぞき込む。

 そこには、「今後は情勢を見極めたうえで、木目城は磯野、阿閉、堀の三家が交替で守備をせよ」との命令が記されていた。

 期せずして、三名からため息が漏れる。

「交替で守れとは、また妙な命令にございますな」

 皆の思いを代弁するように、直房がつぶやいた。

 三家のうち、木目城から最も離れた位置に所領がある堀家の采配を託された立場としては、兵を移動させるだけでも簡単な話ではない、との直房の思いが言外ににじむ。

 もっとも、距離の差云々に関わらず、員昌も阿閉貞征も同じ気持ちなのだが。

 加えて、所領に戻りさえすれば国境を警固する任務から解放される訳でもない。

 今後、一揆勢が国境を突破しようとする動きを見せた時には、速やかに駆け付けられるよう、常に準備を整えておく必要がある。

「されど、致し方ない措置かと存ずるのう」

 直房の呟きにそう応じた貞征が難しい顔をしながら、やれやれと首を振る。

 国境に築かれた木目城は政庁としての機能を兼ねた城ではなく、純然たる防御施設としての城である。

 外部から運び込まない限り、兵をただ詰めておくだけで兵糧を食いつぶすことになる。

 命令に従い、とりあえずは阿閉勢が木目城に残り、堀勢と員昌の手勢は所領に引き上げることとなった。

 いつ交替の命令が届くかは、越前の情勢次第ということになる。



 だが、越前の一揆勢の警戒を命じられていた筈の員昌は、六月中旬には手勢を率いて新庄城から離れ、岐阜に入っていた。

 信長は、三度目となる伊勢長島の一向一揆攻めを計って各地の兵を参集させており、員昌にも出兵が命ぜられたのだ。

「御屋形様は手隙きを許さぬ御方のようじゃ。それにしても、一揆勢の根拠に攻め込む戦さとはのう」

 あまり面白くない気分で員昌はこぼす。

 木目城に詰めた時も、一揆勢が城下に押し寄せる事態とはならなかった。

 そのため員昌は、味方としても敵としてもこれまで一向一揆の軍勢と対峙した経験がなかった。

 武将に率いられた軍勢ではなく、坊主が農民を煽り立てるだけの一揆に、こちらから戦さを仕掛けることに、実感が沸かないのが実情だった。

 伊勢への討ち入れの命令が下るのを待つ員昌の陣所に、新庄城の留守居を任せた員春から急を告げる使者がやってきた。

「何事か」

「樋口三郎左衛門様より、後詰の要請にござります」

 この時期、樋口直房は堀勢の陣代として、阿閉勢に代わって木目城に入っている筈だった。

 使者が差し出した書状を受け取り、内容を改めた員昌の顔色が変わる。

 そこには、一揆勢の襲来を受けて至急増援を求める、直房の悲鳴のような内容が綴られていた。

 直房の使者は、既に員昌が手勢を率いて岐阜に出立して不在であることを知らず、入れ違いに新庄城に向かったため、事情を聞いて驚いた員春が書状を転送してきたのだ。

「これは、いかぬな」
 員昌は渋面を作る。
 
 近江衆だけでなく、敦賀にて越前の動きに備えていた丹羽長秀らの軍勢も、今や岐阜城に参集している。

 さらに北近江三郡を任されている筈の羽柴秀吉も、折悪く長浜城の築城に手を取られており、すぐに兵を動かすこともままならないらしい。

 間が悪い、というよりも、一揆勢はこの方面が手薄になっている隙を狙って動いたのだろう。

「こうしてはおれぬわ」
 書状を握りしめて立ち上がった員昌は、その足で岐阜城の信長の元に向かった。



「遅いわ、磯丹」
 木目城危うしの報せを員昌から聞かされた信長は、不機嫌そうに吐き捨てた。

 その態度から、既に状況は信長の耳に入っていることが伺われた。

 直房の急使はいったん新庄城に向かったために時間を空費しており、員昌に書状が届くより先に信長に急を知らせた者がいたのだろう。

 信長も各地の戦況をつかむための諜報網を張り巡らせている筈であり、そのこと自体はまったく不思議ではない。

「恐れながら、急ぎ後詰が必要かと存じます」

「無用のことよ」

 員昌の進言に、信長は鼻を鳴らして首を横に振った。

「それは、何故」
 戸惑う員昌に向けて、信長は皮肉げな笑みを浮かべた。

「その様子では磯丹は知らぬようじゃな。木目城は既に落ちておる」

「なんと」
 員昌は息をのむ。

 いかに一揆勢の人数が多かろうが、相手は城への仕寄り方も知らない農民なのだ。

 員昌は在番した時に、木目城の縄張りを自分の目で確かめている。

 昼夜を分かたぬ攻撃に数か月耐えよというのは流石に無理だが、数日の間だけであれば持ちこたえられる堅固な造りになっていた筈だ。

「樋口三郎左衛門め、一揆と和睦して退転しくさったのじゃ」
 額に青筋を立てた信長が、手にした扇子を脇息に打ち付ける。

(まさか、三郎左衛門殿が一揆に降るとは)

 信じがたいことであるが、員昌に信長の言葉を否定する材料はない。

 それほど一揆の勢いが激しかったのか、それとも一揆相手の戦さに戦意が挫けたのか。

「磯丹は兵を高島に戻せ」
 苦々しげな口ぶりで、信長が命じた。

「御意」
 員昌も迷わず頭を下げる。

 確かに、一揆勢が北近江に乱入するような事態となれば、員昌も他国に攻め入っている場合ではない。

「もし、三郎左衛門がお主を頼ってくるようなことがあれば、必ず斬れ。首を儂のところへ持って参れ」
 憎悪を露わにした信長の瞳には、鋭い光が宿っていた。



 数日後。
 新庄城に帰還した後、越前への出陣と籠城の両方の準備に勤しむ員昌の元に、秀吉から樋口直房に関する続報が届いた。

 員昌は、てっきり直房は一揆方に降ったと思い込んでいた。

 しかし実はそうではなく、家族を連れて伊賀に逃れようとしていたところを秀吉の追手に捕らえられて誅殺されたのだという。

 直房の首級は、伊勢に出陣している信長の元に届けられた。

 信長は直房の失態の責めを、堀家の当主である堀秀村にも及ばせた。

 堀家の所領は有無を言わさず召し上げとなり、秀吉が預かることになった。
 堀秀村自身も、後に秀吉に仕えたと伝わる。

 穿った見方をすれば、美濃と近江の境目に大領を有する堀家は、浅井家無きあとは信長と秀吉にとっては目障りな存在となっており、今回の一件で実に都合よく失脚してくれたことになる。

「三郎左衛門殿の真意は奈辺にあったのやら。話を聞けなんだのが悔やまれるわ」
 秀吉の書状から顔をあげた員昌は肩を落とし、誰に言うともなくぽつりと言葉を漏らした。



 史書を紐解くと、磯野家の取次役である織田於菊丸は、天正二年か三年夏ごろまでに元服して、織田七兵衛信澄と名乗りを改めているとされる。

 ただし、後世伝わる「信澄」の諱が正確であるかどうかは、確実な史料からは伺えない。

 天正三年三月。
 その信澄が、新庄城の員昌の元に現れて、新たな命令を伝えた。

「人足を集めろ、と?」
 広間で向かい合った員昌は、眉を寄せて訊ね返す。

「いかにも。お屋形様におかれては、東山道を番場から佐和山城に抜ける摺針峠越えの道を作事し、東山道を付け替えたいとの御意向にござる」

「街道の付け替えとは、また思い切ったことをお考えになるものよ」
 員昌は唸った。

 元亀の頃の窮地の連続からは脱したとはいえ、信長はいまだ各地に争乱の火種を残しているし、本願寺との争いも終わりをみていない。

 そのような時に大規模な土木工事に人数を割く余裕があるのか、などと員昌は思う。

(いや、四方に敵を抱える折であるからこそ、迅速に東西を移動するための作事が必要なのか)

「人足は、しめて二万人を集めるとのことにござる」
 信澄は、そう前置きして高島郡に割り当てられた人数を告げ、人足は美濃と近江一円から集められると付け加えた。

 どれほどの規模の工事になるのか員昌には見当もつかない。

 だが、性急な信長のことであるから、短期間に一挙に仕上げることを見込んだ人数なのだろうと推察する。

 もちろん、実現不可能な割り当てではない。

 ただし、いつ出陣の命令が下るか判らない立場を思えば、まとまった人数を差し出すのは二つ返事とはいかないのも事実である。

「……承知つかまつった」
 嘆息をこらえてそう応じる員昌を尻目に、信澄は要件を終えるとさっさと腰を上げる。

 信澄は単なる取次役にとどまらず、織田の連枝として禁裏や商人との付き合いもあり、なかなかに多忙なのだった。



 員昌は、高島郡内の各村から出させる人数の調整だけでなく、奉行として派遣する将の選定、人足に支給する作事の用具の調達など、諸々の調整に頭を悩ませる。

 佐和山落城時にいったん解散となった磯野家の家臣団は、新たに仕官してきた者を多く加えて再建されたとはいえ、使いごたえのある者の数は物足りないのが実情だった。

 城内が慌ただしさに包まれる最中、思いがけない来訪者があった。

「藤堂与右衛門じゃと? よし、広間に通せ」
 近習からその名を告げられた員昌は、口実が出来たとばかり、書きかけの書状を放り出して広間に向かう。

「おお、久しいのう。姉川でいつの間にか見失うた折は、てっきり討たれたかと思うておったぞ」

「お恥ずかしいことでござる」
 顔を上げた藤堂高虎が、困ったような笑みを浮かべた。

 上背のある巨躯は、数年前からさらに逞しさを増しているように見える。

 姉川の合戦では、信長の首級を挙げると息巻いていた高虎だが、左手に鉄砲玉を浴びて倒れ、味方に引きずられるようにして這々の体で戦場から離脱していた。

「感状こそ頂戴いたしましたが、それだけのことにござった」

 その後は、小谷城が落城する前に城内で諍いを起こして出奔し、織田に降った阿閉貞征のところに身を寄せていたという。

「ほう。それでは先だっての木目城詰めの折りに顔を合わせることも出来たやも知れぬな。して、此度は何用じゃ」

 員昌が本題を問うと、高虎は居住まいを正してから口を開く。

「実はそれがし、阿閉様の元を辞してござる。かくなる上は磯野様の縁にすがりたく、まかり越した次第」
 要するに、仕官の申し出である。

 員昌は顎鬚を撫でて思案の表情をみせる。

 貞征に見切りをつけた理由を問うてみたところ、働きに対して十分な恩賞が得られず、出奔したのだと、率直すぎる返事である。

 員昌と貞征とは、ただでさえこの頃折り合いが悪くなっている。

 もっとも、員昌にはなんら含むところはない。
 己の立場に不満を募らせた貞征の一方的な嫉妬が原因である。

 加えて言えば、貞征は寄親である秀吉に対しても、反抗的な態度をにじませているとの噂話も伝わっている。

 その貞征の元から退転した者を員昌が召し抱えるとなれば、一層、態度をこじらせかねない。

(『既に自分の元を離れた後のことゆえ預り知らぬ』、などとは思わぬのが人間の常であるからのう)
 懸念はあるが、見どころのありそうな高虎を手元に置きたい気持ちも抑えがたい。

 しばし考えて結論を下す。

「よかろう。ただし、儂とて手元不如意でな。八十石。それでよければ仕えよ」

 己の才覚に自信がある高虎にとっては、到底満足できない石高であろう。

 一瞬、高虎の眉間に皺が寄る。

「……よろしくお願いいたしまする」
 数瞬の間をおいて、高虎が頭を下げた。

 こうして、員昌は高虎にとって三度目の仕官先となった。

 後世、幾人もの主君の間を渡り歩いた武将の代表格として高虎の名が知られることになるなど、この時の員昌には想像も出来ないことだった。
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