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(二十五)右近の婚儀
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員昌は奪取した小川城にて数日に渡って守りを固めていたが、逃亡した小川秀康が奪還に動く様子はみられなかった。
そのため、いったん小川城を員春に預け、馬廻りのみを連れて大溝館にひとまず帰還した。
状況が落ち着き次第、小川城に居を移すための用意が必要だからだ。
しかし、いくら大溝館より防備が整っているとはいえ、美弥や員行を先日までの敵地にある小川城に連れていくべきか、判断に迷うところである。
(もうしばらく様子見が必要か)
などと考えつつ大溝館で身の回りの準備をしている員昌の元に、思いがけない男が面会を求めてきた。
「一別以来にございますね。此度は、首尾よく城を奪ったとのこと。祝着にございまする」
広間にて員昌の前で頭を下げるのは、津田坊こと織田於菊丸である。
「お屋形様の御気性からすれば、儂がいつまでも館に籠っておることを喜ぶまいと思うてな」
員昌は言葉を選びつつ応じる。
高島郡は、かつては浅井家の勢力圏に入ったこともあるが、現時点の浅井家は国衆に軍役を課せるほどの支配力は有していない。
高島郡が概ね、浅井・朝倉寄りの中立という立場の国衆が多い土地柄だからこそ、織田に随身した員昌も遠慮なく城を攻められる事情がある。
(浅井家の本領に踏み込めと言われたとて、とてもこうはいくまいよ)
員昌は内心で自嘲する。
長政によって母親を磔刑に処せられた以上、もはや再び浅井家に仕えることはありえない。
とはいえ、どうしても長政に対しては憎み切れない気持ちも残る。
員昌の胸中は複雑である。
「なるほど。実はそれがし、この度、お屋形様より磯野様の取次役を命ぜられておりまする」
どこまで員昌の苦衷を知っているのか、於菊丸は明るい声で言った。
「取次?」
「ここだけの話、与次左衛門殿では役が重かろうとのお屋形様の仰せにて」
於菊丸が、年齢不相応な意味ありげな微笑みをみせる。
今回の出陣にあたって員昌は林与次左衛門を通じて出陣の許可を得た。
その際、信長には与次左衛門の言動に何か気にいらない点があったのかも知れない。
「ふうむ。それにしても、お屋形様の甥御たる貴殿が儂ごときの取次とは、いささか役の合わぬことではござるまいか」
「その儀なれば」於菊丸はそれまでの明るさから一転して、声を潜めた。「実は、お屋形様におかれましては、それがしを磯野様の養子にすることをお考えのご様子。取次役も、事前の用意のためとのことにござる」
「養子とな。儂には歴とした嫡男がおるが」
思いもよらない話に、員昌は両の目を瞬かせた。
「なんと。磯野様には娘しかおらぬ、と丹羽様も申されておりましたが」
今度は於菊丸が驚いて、信長譲りの高い声をあげる。
「ああ、それはのう」
佐和山城を開く際、交換する人質として男子を出せないので女子を出したい、と丹羽長秀に伝えた経緯を思い出し、員昌は顔をしかめた。
「我が嫡子・右近員行はいささか蒲柳の質があってな。長き籠城であの折は寝込んでおったゆえ、証人には出せなんだのじゃ。丹羽殿は、その話を誤解されたようじゃ」
実際のところ、員行は身体そのものは健康である。
表だって人前に出られない性分について、わざわざ於菊丸に説明しても仕方ないため、員昌はそのように表現したまでである。
「左様でございましたか」
若干苦しい言い訳に聞こえたはずだが、於菊丸はさほど疑いもせず納得した様子だった。
そのまましばし考え込む様子を見せていた於菊丸であるが、不意に明るい表情をみせた。
「皆様方からは津田坊などと呼ばれておりますが、津田は庶流の姓にて、お屋形様の同母弟の子であるそれがしは、誇りをもって織田と名乗っておりまする」
信長の甥らしからぬ、やや迂遠な言い回しである。
織田を名乗ることにこだわりがあり、本音では磯野とは名乗りたくない、という意味あいだと員昌は理解した。
「されど、儂が養子を断ったとなれば、お屋形様の覚えも悪かろうな」
員昌個人としては、信長を恐れるものでもない。
とはいえ、妻子と家臣を養わねばならぬ身である以上、曲がりなりにも意に沿うように仕えねばなるまい、との思いもある。
「まあ、今日明日という話でもございませぬ。それがしもなるべく引き延ばすよう、心がけましょう」
於菊丸は自分を納得させるように数度頷いて、そう請け合った。
「よろしく頼みまする」
員昌は深く頭を下げた。
於菊丸に弱みを握られたようで口惜しい気もするが、背に腹は代えられなかった。
員昌が高島郡に移された後、織田と浅井はなし崩しに和議を破棄し、再び干戈を交えるようになっていた。
五月六日には、浅井長政は織田方の手に落ちていた箕浦城および鎌刃城を奪い返すべく、一門の浅井井規率いる軍勢を差し向けている。
この軍勢には、反信長の立場で決起した一向一揆勢が加わっていた。
鎌刃城は、竹中半兵衛の調略によって浅井家から造反した堀秀村が守っており、長政としては意地でも攻め落としたい城だった。
しかし、横山城の木下秀吉が素早く後詰めに動いて一向一揆勢を撃破したことから、長政の目論見は奏功しなかった。
員昌の耳にも、様々な伝手で浅井家の苦しい情勢が届く。
そんなとき、敵味方に別れた間柄ではあるが、ふと気づけば長政を応援している自分に気づき、頬を歪めるのが常であった。
七月。
員昌は、小川城の周辺を馬廻りを連れて巡察するのが日課となっていた。
既に、美弥と員行ら一族の者も、大溝館から小川城に移り住んでいる。
巡察は、万が一にも彼らを危険にさらさないためにも必要であった。
「嫁取りをいたしましょう」
員昌に轡を並べて同行していた嶋秀淳が、不意に進言した。
「なんじゃ、だしぬけに。誰の嫁じゃ」
意図をつかめず、馬上の員昌は間の抜けた返事をする。
「無論、若殿にございます」
相変わらずの図太い体躯を反らし、秀淳は笑みを大きくする。
「右近の嫁とな。……それは難しかろう」
員昌とて、嫡子に内儀がいないことを気にかけていなかった訳ではない。
しかし員行の気質からして、嫁を迎えることなど到底できないだろうと、端から諦めてしまっていた。
「なんの。若殿は、佐和山を出た頃より、御気性を持ち直されたやに存じますぞ。今の若殿であれば、嫁御を貰うのも懸念なきものかと」
「左様であろうかのう」
員昌は馬上で首をひねる。
員行は、員昌が浅井家の重臣であり、佐和山城の城主という立場であることから、その跡を継がねばならない事実に気後れし、人前に出ることを身体が拒絶している節があった。
今の員昌は、かつて従えた家臣のほとんどを手元から放し、いずれ高島郡司になるという口約束があるだけで、小さな城を奪うのがやっとの境遇にある。
周囲に見知った浅井家の人間がいない場所に転じたことで、員行の心を追う暗雲も、多少は晴れているのかもしれない。
「しかし、このような時期に進めるべき話であろうか」
いつになく員昌が、秀淳に気圧される恰好になっていた。
このような時期、とはあいまいな表現であるが、互いにそれで意図は通じた。
「このような時期だからこそ、にございます。殿には嫁を迎える立派な嫡子がいることを、内外に知らしめねばなりませぬ」
秀淳は言外に、織田於菊丸を養子に押し込もうと画策する信長を牽制する必要がある、との思いをにじませていた。
「ともあれ、儂の一存では決めがたい。当人と話してみねばな」
困惑しながらも、わずかな期待に思いがけず胸を躍らせる員昌であった。
「家格や家柄などにはこだわりませぬ」
城に戻り、その足で員行の部屋に足を運んだ員昌に嫁取りの話を聞かされ、相手の希望を問われた員行は、小さな声でそう応じた。
「それがしが妻を迎えるなど、到底無理にございます」という返事を覚悟していただけに、控えめながらも自らの要望を口にしてくれたことに、員昌は驚きつつも喜んだ。
そしてこの嫁取り話には、員昌以上に美弥が張り切った。
「右近殿も既に三十路なれば、あまり若い嫁では話もあわぬでしょう。容姿は問いませぬが、気性の優しい人でなければ」
などと、まだ相手も決まらないうちからあれこれと想像しては気を揉んでいる。
「されど、当人が意外と乗り気なのは良いが、果たして見合う娘にあてはあるのか」
肝心の相手がいなければ話の進めようもない。
しかも、かつての宮沢の在所や佐和山城の伝手を用いることは、今となっては不可能である。
「なに、ここは主膳殿にひと働きしていただき、手近な土豪の娘などを見繕てもらえばよろしゅうございましょう」
悩む員昌に対し、秀淳はあっさりと言った。
主膳とは、前の小川城の主である小川主膳正秀康を差す。
この時期、員昌は秀康を配下に加えていた。
城を攻め落としてしばらく後、逃亡した小川主膳正秀康が依然として近隣に潜伏していることを、盛造が突きとめて報告した。
員昌は、「恨みを捨てて仕える気があるのならば、召し抱える用意がある」と使者を通じて秀康に伝え、城に呼び出した。
小なりとも一城の主の意地で、このような呼びかけを黙殺する可能性もあったが、意外にも秀康は早々に出頭してきた。
(厚顔無知というべきか、したたかな処世と認めるべきか)
御殿の広間で秀康の口上を聞く員昌は、自分から誘降を呼びかけたとはいえ、呆れるほかなかった。
もっとも、秀康の立場に立てば、この後に員昌が名実ともに高島郡司としての地位を確立するのであれば、下手に逃げ隠れして抵抗するのは得策ではない。
それよりも、早い段階で帰服した方が後々の立場がよくなると計算したとしても、なんら非難される謂れはないとも言えた。
いずれにせよ、員昌は約束通り秀康を召し抱え、その旧領をそのまま代官として管理する役目を与えていた。
とかく勝手が判らない土地を一から治めるより、元々の城主が統治するほうが、領民を安心させるだろうと考えてのことだった。
ただし、さすがに前の城主を小川城内に住まわせる訳にもいかないので、城下のほど近くに新たな屋敷を建てて住まわていた。
秀康の伝手を用いて、城下の土豪から嫡子の妻を迎えることになれば、秀康としても面目が立つ。
そのうえ、将来の高島郡司たる員昌との縁を感じた土豪や国衆が帰服しやすくなる、との目算も働く。
(家格や家柄にはこだわらぬ、と当人も申しておるし、むしろその方が右近も気後れせずに済むやも知れぬ)
員昌をそう覚悟を決め、秀康に打診するとの秀淳の申し出を承知した。
秀淳経由で、嫁取り話の要望を聞かされた秀康は、わずか数日の後には、これぞという相手を見つけてきた。
領内の名もない土豪の娘であり、十代早々に病を患ったため婚期を逃し、年の頃は二十歳過ぎ。
無論、既に病は癒えているが、行き遅れの引け目もあってか、至って控えめな性分だという。
恋愛もなければ見合いもないのが、武家の婚姻である。
員昌はこれを良縁と信じ、話を進ませた。
九月の吉日を選んで、小川城にて婚儀が執り行われた。
員行の気性も考慮し、参集した人数はささやかなものである。
員昌をはじめ磯野家家中の人間は、この時はじめて新婦の顔をみる。
やや翳のある、物静かな娘だった。
員昌の心配をよそに、新郎たる員行は金屏風の前で照れくさそうな顔を見せながらも、人前で発作を起こすこともなかった。
「まさか、この日を迎えることが出来ようとは」
人目もはばからず涙ぐむ美弥の傍らで、員昌の目にも光るものがあった。
しかし、員行の嫁取りによってささやかな幸せに包まれた城内の空気は、数日後には一変する。
九月十二日に、信長が大軍を率いて比叡山延暦寺に押し寄せ、焼き討ちを敢行したとの報せが届いたのだ。
盛造は高島郡内の調者働きにあたっていたため、その凶報を最初に員昌にもたらしたのは、佐和山城時代から取引が続く、出入りの商人であった。
「むごいものじゃな」
小川城から延暦寺までの距離は、およそ十一里あまり。
人の足でも三日とかからず、次々と続報がもたらされる。
詳細が明らかになるにつれて、比叡山は目をそむけたくなるような惨状であることが判った。
高島郡にはまだ足がかりを得ただけでもあり、出陣を命じられなくてよかった、とさえ員昌は思う。
しかし、信長に仕えている限り、このような非道なふるまいを、これからいくらでも目の当たりにするのかも知れない。
暗い思いが員昌の胸に広がる。
「必要とあれば叡山さえ焼くとは。織田の恐ろしさを知った郡内の国衆がどう動きましょうか。敵に回るやら味方につくやら」
表情を曇らせる秀淳に、員昌も頷いて嘆息する他ない。
「どちらに転ぶにせよ、その動機となるのは恐怖ゆえであろうな」
事実、員行の婚儀を契機に軟化するかに思われた国衆の誘降は、この後は思うように進まなくなった。
そのため、員昌による高島郡の平定は、数年に渡って停滞することになる。
そのため、いったん小川城を員春に預け、馬廻りのみを連れて大溝館にひとまず帰還した。
状況が落ち着き次第、小川城に居を移すための用意が必要だからだ。
しかし、いくら大溝館より防備が整っているとはいえ、美弥や員行を先日までの敵地にある小川城に連れていくべきか、判断に迷うところである。
(もうしばらく様子見が必要か)
などと考えつつ大溝館で身の回りの準備をしている員昌の元に、思いがけない男が面会を求めてきた。
「一別以来にございますね。此度は、首尾よく城を奪ったとのこと。祝着にございまする」
広間にて員昌の前で頭を下げるのは、津田坊こと織田於菊丸である。
「お屋形様の御気性からすれば、儂がいつまでも館に籠っておることを喜ぶまいと思うてな」
員昌は言葉を選びつつ応じる。
高島郡は、かつては浅井家の勢力圏に入ったこともあるが、現時点の浅井家は国衆に軍役を課せるほどの支配力は有していない。
高島郡が概ね、浅井・朝倉寄りの中立という立場の国衆が多い土地柄だからこそ、織田に随身した員昌も遠慮なく城を攻められる事情がある。
(浅井家の本領に踏み込めと言われたとて、とてもこうはいくまいよ)
員昌は内心で自嘲する。
長政によって母親を磔刑に処せられた以上、もはや再び浅井家に仕えることはありえない。
とはいえ、どうしても長政に対しては憎み切れない気持ちも残る。
員昌の胸中は複雑である。
「なるほど。実はそれがし、この度、お屋形様より磯野様の取次役を命ぜられておりまする」
どこまで員昌の苦衷を知っているのか、於菊丸は明るい声で言った。
「取次?」
「ここだけの話、与次左衛門殿では役が重かろうとのお屋形様の仰せにて」
於菊丸が、年齢不相応な意味ありげな微笑みをみせる。
今回の出陣にあたって員昌は林与次左衛門を通じて出陣の許可を得た。
その際、信長には与次左衛門の言動に何か気にいらない点があったのかも知れない。
「ふうむ。それにしても、お屋形様の甥御たる貴殿が儂ごときの取次とは、いささか役の合わぬことではござるまいか」
「その儀なれば」於菊丸はそれまでの明るさから一転して、声を潜めた。「実は、お屋形様におかれましては、それがしを磯野様の養子にすることをお考えのご様子。取次役も、事前の用意のためとのことにござる」
「養子とな。儂には歴とした嫡男がおるが」
思いもよらない話に、員昌は両の目を瞬かせた。
「なんと。磯野様には娘しかおらぬ、と丹羽様も申されておりましたが」
今度は於菊丸が驚いて、信長譲りの高い声をあげる。
「ああ、それはのう」
佐和山城を開く際、交換する人質として男子を出せないので女子を出したい、と丹羽長秀に伝えた経緯を思い出し、員昌は顔をしかめた。
「我が嫡子・右近員行はいささか蒲柳の質があってな。長き籠城であの折は寝込んでおったゆえ、証人には出せなんだのじゃ。丹羽殿は、その話を誤解されたようじゃ」
実際のところ、員行は身体そのものは健康である。
表だって人前に出られない性分について、わざわざ於菊丸に説明しても仕方ないため、員昌はそのように表現したまでである。
「左様でございましたか」
若干苦しい言い訳に聞こえたはずだが、於菊丸はさほど疑いもせず納得した様子だった。
そのまましばし考え込む様子を見せていた於菊丸であるが、不意に明るい表情をみせた。
「皆様方からは津田坊などと呼ばれておりますが、津田は庶流の姓にて、お屋形様の同母弟の子であるそれがしは、誇りをもって織田と名乗っておりまする」
信長の甥らしからぬ、やや迂遠な言い回しである。
織田を名乗ることにこだわりがあり、本音では磯野とは名乗りたくない、という意味あいだと員昌は理解した。
「されど、儂が養子を断ったとなれば、お屋形様の覚えも悪かろうな」
員昌個人としては、信長を恐れるものでもない。
とはいえ、妻子と家臣を養わねばならぬ身である以上、曲がりなりにも意に沿うように仕えねばなるまい、との思いもある。
「まあ、今日明日という話でもございませぬ。それがしもなるべく引き延ばすよう、心がけましょう」
於菊丸は自分を納得させるように数度頷いて、そう請け合った。
「よろしく頼みまする」
員昌は深く頭を下げた。
於菊丸に弱みを握られたようで口惜しい気もするが、背に腹は代えられなかった。
員昌が高島郡に移された後、織田と浅井はなし崩しに和議を破棄し、再び干戈を交えるようになっていた。
五月六日には、浅井長政は織田方の手に落ちていた箕浦城および鎌刃城を奪い返すべく、一門の浅井井規率いる軍勢を差し向けている。
この軍勢には、反信長の立場で決起した一向一揆勢が加わっていた。
鎌刃城は、竹中半兵衛の調略によって浅井家から造反した堀秀村が守っており、長政としては意地でも攻め落としたい城だった。
しかし、横山城の木下秀吉が素早く後詰めに動いて一向一揆勢を撃破したことから、長政の目論見は奏功しなかった。
員昌の耳にも、様々な伝手で浅井家の苦しい情勢が届く。
そんなとき、敵味方に別れた間柄ではあるが、ふと気づけば長政を応援している自分に気づき、頬を歪めるのが常であった。
七月。
員昌は、小川城の周辺を馬廻りを連れて巡察するのが日課となっていた。
既に、美弥と員行ら一族の者も、大溝館から小川城に移り住んでいる。
巡察は、万が一にも彼らを危険にさらさないためにも必要であった。
「嫁取りをいたしましょう」
員昌に轡を並べて同行していた嶋秀淳が、不意に進言した。
「なんじゃ、だしぬけに。誰の嫁じゃ」
意図をつかめず、馬上の員昌は間の抜けた返事をする。
「無論、若殿にございます」
相変わらずの図太い体躯を反らし、秀淳は笑みを大きくする。
「右近の嫁とな。……それは難しかろう」
員昌とて、嫡子に内儀がいないことを気にかけていなかった訳ではない。
しかし員行の気質からして、嫁を迎えることなど到底できないだろうと、端から諦めてしまっていた。
「なんの。若殿は、佐和山を出た頃より、御気性を持ち直されたやに存じますぞ。今の若殿であれば、嫁御を貰うのも懸念なきものかと」
「左様であろうかのう」
員昌は馬上で首をひねる。
員行は、員昌が浅井家の重臣であり、佐和山城の城主という立場であることから、その跡を継がねばならない事実に気後れし、人前に出ることを身体が拒絶している節があった。
今の員昌は、かつて従えた家臣のほとんどを手元から放し、いずれ高島郡司になるという口約束があるだけで、小さな城を奪うのがやっとの境遇にある。
周囲に見知った浅井家の人間がいない場所に転じたことで、員行の心を追う暗雲も、多少は晴れているのかもしれない。
「しかし、このような時期に進めるべき話であろうか」
いつになく員昌が、秀淳に気圧される恰好になっていた。
このような時期、とはあいまいな表現であるが、互いにそれで意図は通じた。
「このような時期だからこそ、にございます。殿には嫁を迎える立派な嫡子がいることを、内外に知らしめねばなりませぬ」
秀淳は言外に、織田於菊丸を養子に押し込もうと画策する信長を牽制する必要がある、との思いをにじませていた。
「ともあれ、儂の一存では決めがたい。当人と話してみねばな」
困惑しながらも、わずかな期待に思いがけず胸を躍らせる員昌であった。
「家格や家柄などにはこだわりませぬ」
城に戻り、その足で員行の部屋に足を運んだ員昌に嫁取りの話を聞かされ、相手の希望を問われた員行は、小さな声でそう応じた。
「それがしが妻を迎えるなど、到底無理にございます」という返事を覚悟していただけに、控えめながらも自らの要望を口にしてくれたことに、員昌は驚きつつも喜んだ。
そしてこの嫁取り話には、員昌以上に美弥が張り切った。
「右近殿も既に三十路なれば、あまり若い嫁では話もあわぬでしょう。容姿は問いませぬが、気性の優しい人でなければ」
などと、まだ相手も決まらないうちからあれこれと想像しては気を揉んでいる。
「されど、当人が意外と乗り気なのは良いが、果たして見合う娘にあてはあるのか」
肝心の相手がいなければ話の進めようもない。
しかも、かつての宮沢の在所や佐和山城の伝手を用いることは、今となっては不可能である。
「なに、ここは主膳殿にひと働きしていただき、手近な土豪の娘などを見繕てもらえばよろしゅうございましょう」
悩む員昌に対し、秀淳はあっさりと言った。
主膳とは、前の小川城の主である小川主膳正秀康を差す。
この時期、員昌は秀康を配下に加えていた。
城を攻め落としてしばらく後、逃亡した小川主膳正秀康が依然として近隣に潜伏していることを、盛造が突きとめて報告した。
員昌は、「恨みを捨てて仕える気があるのならば、召し抱える用意がある」と使者を通じて秀康に伝え、城に呼び出した。
小なりとも一城の主の意地で、このような呼びかけを黙殺する可能性もあったが、意外にも秀康は早々に出頭してきた。
(厚顔無知というべきか、したたかな処世と認めるべきか)
御殿の広間で秀康の口上を聞く員昌は、自分から誘降を呼びかけたとはいえ、呆れるほかなかった。
もっとも、秀康の立場に立てば、この後に員昌が名実ともに高島郡司としての地位を確立するのであれば、下手に逃げ隠れして抵抗するのは得策ではない。
それよりも、早い段階で帰服した方が後々の立場がよくなると計算したとしても、なんら非難される謂れはないとも言えた。
いずれにせよ、員昌は約束通り秀康を召し抱え、その旧領をそのまま代官として管理する役目を与えていた。
とかく勝手が判らない土地を一から治めるより、元々の城主が統治するほうが、領民を安心させるだろうと考えてのことだった。
ただし、さすがに前の城主を小川城内に住まわせる訳にもいかないので、城下のほど近くに新たな屋敷を建てて住まわていた。
秀康の伝手を用いて、城下の土豪から嫡子の妻を迎えることになれば、秀康としても面目が立つ。
そのうえ、将来の高島郡司たる員昌との縁を感じた土豪や国衆が帰服しやすくなる、との目算も働く。
(家格や家柄にはこだわらぬ、と当人も申しておるし、むしろその方が右近も気後れせずに済むやも知れぬ)
員昌をそう覚悟を決め、秀康に打診するとの秀淳の申し出を承知した。
秀淳経由で、嫁取り話の要望を聞かされた秀康は、わずか数日の後には、これぞという相手を見つけてきた。
領内の名もない土豪の娘であり、十代早々に病を患ったため婚期を逃し、年の頃は二十歳過ぎ。
無論、既に病は癒えているが、行き遅れの引け目もあってか、至って控えめな性分だという。
恋愛もなければ見合いもないのが、武家の婚姻である。
員昌はこれを良縁と信じ、話を進ませた。
九月の吉日を選んで、小川城にて婚儀が執り行われた。
員行の気性も考慮し、参集した人数はささやかなものである。
員昌をはじめ磯野家家中の人間は、この時はじめて新婦の顔をみる。
やや翳のある、物静かな娘だった。
員昌の心配をよそに、新郎たる員行は金屏風の前で照れくさそうな顔を見せながらも、人前で発作を起こすこともなかった。
「まさか、この日を迎えることが出来ようとは」
人目もはばからず涙ぐむ美弥の傍らで、員昌の目にも光るものがあった。
しかし、員行の嫁取りによってささやかな幸せに包まれた城内の空気は、数日後には一変する。
九月十二日に、信長が大軍を率いて比叡山延暦寺に押し寄せ、焼き討ちを敢行したとの報せが届いたのだ。
盛造は高島郡内の調者働きにあたっていたため、その凶報を最初に員昌にもたらしたのは、佐和山城時代から取引が続く、出入りの商人であった。
「むごいものじゃな」
小川城から延暦寺までの距離は、およそ十一里あまり。
人の足でも三日とかからず、次々と続報がもたらされる。
詳細が明らかになるにつれて、比叡山は目をそむけたくなるような惨状であることが判った。
高島郡にはまだ足がかりを得ただけでもあり、出陣を命じられなくてよかった、とさえ員昌は思う。
しかし、信長に仕えている限り、このような非道なふるまいを、これからいくらでも目の当たりにするのかも知れない。
暗い思いが員昌の胸に広がる。
「必要とあれば叡山さえ焼くとは。織田の恐ろしさを知った郡内の国衆がどう動きましょうか。敵に回るやら味方につくやら」
表情を曇らせる秀淳に、員昌も頷いて嘆息する他ない。
「どちらに転ぶにせよ、その動機となるのは恐怖ゆえであろうな」
事実、員行の婚儀を契機に軟化するかに思われた国衆の誘降は、この後は思うように進まなくなった。
そのため、員昌による高島郡の平定は、数年に渡って停滞することになる。
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