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(七)痛恨事

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 太尾城の夜討は、七月一日の晩に決行とされた。

 旧暦の朔日であるから、月明りはない。
 加えて空は分厚い曇天に覆われており、星明りすら見えない。
 夜襲には絶好の状況が揃っていた。

 言うまでもなく、夜討ちとは初動の混乱に乗じて戦果を拡大する策である。

 いつまでも闇夜の中で戦い続けた場合、どのような不測の事態を招くか予測がつかない。

 そのため、敵が立ち直ってくる頃に夜が明けて彼我の状況がつかめるよう、実際には真夜中よりも夜明け前を見計らって仕掛けることが多い。

 それだけに、今井定清が城内に送り込んだという忍びが火を放つ刻限が重要となる。
 早すぎても遅すぎても、機を逸することにつながる。

 だが、事前に取り決められていた刻限を過ぎても、太尾城にそれらしき動きはみられないままだった。

「火の手があがりませぬな」
 じりじりとした空気が流れる中、本陣につめていた員昌は、思わずぼそりと口にする。

 とたん、定清の家臣が顔をしかめるのが員昌の視界の隅に入った。

「どうやら、遺憾ながら忍びはしくじったようですな」
 篝火に照らされた定清の顔も、悔し気に歪んでいる。

 決まりの悪い空気が本陣の中に流れた。

 ややあって、思いつめた表情の定清が重い口を開く。

「かくなる上は一度兵を引き、仕切り直したいと存ずる。敵に気取られぬよう、夜のうちに陣を払う所存」

「はて、そう慌てて引き下がることはございますまい」
 員昌は、急に弱気になった定清の言葉に首を傾げた。

 しかしよくよく話を聞いてみると、忍びによる放火で生じた混乱に乗じて攻め落とすことしか考えていなかった定清は、長滞陣に備えた兵糧の用意も、城攻めに必要な仕寄道具も充分に揃えてはいないことが明らかとなった。

「では、今井殿は先にお退きくだされ。我等は小勢ゆえ進退も容易なれば、殿軍を務めさせていただきましょう」
 やむなく、員昌はそう申し出る。

「おお、それはありがたい」
 定清は素直に喜び、員昌の殿軍を認めた。

 無策のまま、一斉に退き陣となれば敵手から追い討ちを受ける可能性がある。

 いったん引き上げると独り決めをした定清は、そのことにすら思い至っていなかったらしい。

(六角と袂を分かって以来、戦さ場に出る機会から離れておられたせいか、いささか勝負勘が鈍っておられるのであろうか)

 退陣の支度を家臣に命じる定清の姿に懸念を抱きつつ、員昌は自陣へと戻らざるを得なかった。



 夜討に備えて起床済だった兵に殿軍の支度を急がせる員昌であるが、なお諦めきれずに闇に溶け込む太尾城を眺めていると、不意に曲輪の奥に小さな光が見えたかと思うと、炎に照らされた白煙が立ち上る様子が見えた。

「いかぬ。今頃になって付け火に成功しおったわ」
 舌打ちした員昌は天を仰ぐ。

 今井勢は既に陣を払っており、呼び戻すには相応の時間がかかる。

 しかし、せっかくの好機到来に、指をくわえてみているだけで終わるのも口惜しい。

「やむを得ぬ。我らのみでひと当てして脅しつけてやろうぞ」
 下知を待つ家臣の前で、員昌は腹に力を込めて声を励ました。

 「おう」と将士の声が揃い、陣中が慌ただしくなる。

 彼らも、ここまで来て何もせずに引き上げとなることには不満を抱いていたのだ。

 無論、員昌もわずか二〇〇しかない己の手勢だけで太尾城を攻め落とせるなどとは思っていない。

 しかし仮に、太尾城にこもる六角の城兵が、今井勢が既に兵を引いたことに気づいていないとすれば話は別だ。

 夜討ちを受けて勝ち目がないと判断した敵が、算を乱して逃走する可能性もあり得る。

 希望的観測ではあるが、員昌はその可能性に賭けたかった。



 鯨波をあげ、磯野勢が太尾城に迫る。

 付け火の消火に追われる太尾城の城兵は明らかに混乱しているようで、弓矢の一筋も放たれることはない。

 掛矢を手にした兵は、苦も無く大手門に取り付いた。

 磯野勢の弓組が、仰角を付けて矢を引き絞り、後方から火矢を城内に射込んで援護する。

 予想以上に手ごたえがなく、このまま大手の城門を打ち破れそうな勢いである。

 ただし、そのまま城内に突入してよいものか、と員昌の冷静な部分は逡巡する。

 一方、意気上がる手勢はそのような懸念など知らぬ顔で喚声をあげている。

 しかし。

「敵じゃー!」
 突如あがった声が、陣中に冷や水を浴びせる。

 みれば、西側から黒々とした一団の影が、騎馬武者を先頭にして押し寄せてくる。

 太尾城は南北に細長い縄張りで、搦め手の北郭と大手門がある南郭を連結する格好で構成されている。

 磯野勢に南郭の大手門を攻めさせつつ、城兵が北郭の搦め手から討って出て背後に回り込み、襲撃を仕掛けようとしている。

(敵の応戦が存外弱いのは、そのためか!)
 員昌のみならず、その場に居合わせた磯野勢の誰しもがそう判断した。

「迎え撃て!」
 員昌の命令を受け、馬廻りの武者が、弾かれるように飛び出して新手の迎撃に向かっていく。

(さて、如何いたすべきか?)
 員昌は難しい決断を迫られていた。

 繰り返しになるが、員昌の手勢はわずか二〇〇でしかない。
 逆襲をあしらいつつ城攻めを続行することなど、そもそも不可能である。

 それどころか、まごついている間に挟み撃ちにあって全滅しかねない。

(……やむを得ぬか)
 無念ではあるが城攻めは断念して、城外に出てきた敵を追い散らしつつ、一旦引いて体勢を整えるより他はない。

 城内の火の手すら、夜討ちを誘う敵の策略ではなかったか、と員昌は腹立たしい思いで退き鐘を鳴らすよう命じ、大手門に取り付いたばかりの兵を引き返させる。

 陣払いの時間を稼ぐべく、馬廻りは迫ってきた敵勢の正面から果敢にぶつかっていく。

 互いに喚声があがり、斬り結ぶ喧騒が響く。

 が、すぐに員昌がかつて戦場で耳にしたことない奇妙なざわめきに変わっていく。

「如何した! 何が起こっておる」
 大手門から味方の兵を退かせることを優先していた員昌は、背後の状況を掴むのにしばし手間取った。

「敵勢にあらず! 今井勢にござる!」
 駆け戻ってきた馬廻りの武者の一人が、思いもよらぬ言葉を放った。

「なんじゃとお」
 全身の血の気が引く。

 員昌は束の間、そこが戦さ場であることも忘れて立ち尽くした。



 やがて東の空が白み、闇が払われるにつれて、互いに戦っていた相手が味方であったことが明らかとなる。

「なんたることだっ!」
 員昌は思わず呻く。

 最初に届いた敵襲との報告を、疑いもせず信じ込んだのは失策であった。

 佐和山城に移って数か月しか経っておらず、今回参陣していた将兵の多くが宮沢城から移ってきた馬廻りであり、今井勢との面識がほとんどなかったことも、状況の把握を遅らせる要員となっていた。

 己の判断の誤りを嘆く員昌に、さらなる衝撃が襲った。

 馬廻り衆の一人である岸澤與七が討ち取った騎馬武者が、他ならぬ今井定清であったことが判ったという。

 乱戦の最中、太尾城を目指そうとしていた騎馬勢の大将を一撃で仕留めた與七であったが、手柄どころか取り返しのつかない失態をおかしたことになる。

 最早こうなっては、城攻めどころではない。

 敵の追い討ちを警戒しつつ、それぞれ撤退するしかなかった。

(なんと、無様な真似を……)
 員昌は、太尾城の城内から嘲り笑いが聞こえてくるような気がした。



 いったん佐和山城に帰還した員昌は、腰を据える間もなく、謝罪のため、わずかな従者を連れて今井定清の居城である箕浦城に足を運んだ。

 無論、頭を下げて許されることではないし、主の仇として討たれる可能性も十分に考えられた。

 だが、だからといってここで誠意ある謝罪をしない限り、国衆の信頼を得られず、すなわち佐和山城主としての役目を果たせない。

(切所ではあるが、逃げるわけにはいかぬ)
 出立にあたり、万が一の折には、員春に後事を託すと告げていた。

 美弥と員行には顔を合わせることさえしなかった。

 時を惜しんだこともあるが、覚悟が鈍るのが何よりためらわれた。



 箕浦城の本丸御殿大広間では、今井家の宿老である今井中西ちゅうさいこと今井左馬尉家政が、主君の座すべき上座を外した位置に座り、今井藤九郎、岩脇一介定政、嶋若狭守秀安とその嫡子である四郎左衛門尉尉秀宣といった面々が両側に顔をそろえていた。

「詫びのしようもござらぬが、今後必ず、小法師殿の身が立つことを約束いたす」
 甲冑を脱ぎ、直垂姿で登城した員昌は、不遜ととられぬよう、丁寧に頭を下げる。

 あまりに卑屈な態度ととられては今後の統治に障りがあるが、今は先の算段など度外視である。

 小法師とは、今井定清の世継である。
 長男を六角の人質として失っている定清にとり、そして今井家の家臣にとり、残された唯一の希望と言ってよい。

 しばし、沈黙の間が落ちる。

「面をお上げ下され、磯野殿」
 やがて、今井中西がかすれた声をあげた。

「味方討ちにて我等の主を失うたことは痛恨事なれど、夜討ちを決めたのは他ならぬ主なれば、磯野殿ばかりを責める訳には参らぬ」
 今井中西の言葉に対し、居並ぶ今井家の家臣たちの中から反論の声はあがらなかった。 

 いずれも感情を激することなく、やや諦め顔で現状を受け入れている様子だった。

「むしろ腹立たしいのは、殿に夜討ちを進言した田那部式部よ。磯野殿が参られると知りながら、当の本人が出仕せぬとは」
 嶋秀安が首を振りつつ、今井家の重臣の名を口にして嘆息する。
 その横では、嶋秀宣がなんとも言えぬ表情で己の父と員昌の様子を等分に見つめている。

「自らの策がこのような事態を招き、顔向けできぬのであろうよ」
 岩城定政が語気を強めて言い放った。

 あえて家臣の一人を殊更にあげつらうことで、員昌を糾弾できない苦しさを紛らせようとしているようにも見えた。

 その後、員昌は改めて主君である長政からも詫びを入れてもらうことと、浅井家も員昌も、今後も今井家を決して粗略に扱わず、小法師を盛り立てることを証文に書き記すことを約した。

 やがて和解の証として酒と膳部が用意され、員昌も相伴に預かることになったが、当然のことながら笑いの一つも起こらない、実に気まずい席になった。

 酔いつぶした後に討たれるかも知らない、との思いが員昌の脳裏にかすめた。

 しかし、ここで酒を断り、今井の家を疑っているなどと勘繰られる訳にもいかない。
 進められるがままに盃を空けるしかなかった。

 員昌は生まれてこのかた、これほど酔えぬ酒を口にしたことはなかった。
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