月に落ちていくように

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子ども扱い

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ユアンの発言に不機嫌なナトラージャだが、それでも直也の言葉や文字の事を話している。

直也はそれを横目で見ながら、ワイシャツ一枚で中はどうなっているのかと首と襟の間につくって隙間から覗く。
そして、何もなかったように元に戻した。

――――すっぽんぽん……。

なんと、ワイシャツの下は何も身に着けていなかった。
直也はますます、熱海の旅館から自分がこんなことになった事に頭を捻る。

確かに、自分は倒れた。それは覚えているが、何故倒れただろう熱海の旅館でも病院でもない所でこんな恰好をしているのか……。

ううっと唸った直也に、ユアンは何かを察したのか「ナオヤ様」と呼び掛けて安心させるように微笑む。

「覚えていないかもしれませんが、貴方は雨の中で道に倒れていたんですよ。 しかも、雨に打たれていた所為で、貴方は熱をだして一日寝込んでいたんです」

そこまで言ったユアンは、言いにくそうに眉を下げた。

「貴方が着ていた、夜伽用の夜着は雨でびしょ濡れになってしまいました。一応、証拠として保管してありますが……」

まただと、直也は顔を顰める。
また、『夜伽用』という日常生活では聞くことはないだろうワードが出てきた。

それを何と勘違いしたのか、慌てた雰囲気を漂わせてユアンが瞳を一瞬揺らす。
しかし、彼は感情を抑え込むことが得意なのか、瞳の奥でちらついた感情を隠してしまう。

「さて、気の利かないナトラージャ様に貴方の服を調達してきてもらいましょう」

気を取り直したようにユアンは手を一つ叩き、いまだにベッド端に座っているナトラージャへ視線を向けた。

ナトラージャは、それに応えるように頷く。

「そうだな。雨も止んだことだ。馬で一っ走りしてくるか」
「あ、あの!」

どんどん進んでいく話に、直也は言葉が通じないとわかっていながら慌てて二人に呼び掛けた。

「どうした?」
「どうしました?」

呼び掛けられたとわかったのだろう二人が、一斉に直也を見る。

直也は、あまりの迫力にうっと喉辺りに息を詰まらせた。
整った美しいものが集まれば、半端ではない。
伝わらないのに、何を言えば良いのか。
その考えに、数回口を少し開いたり閉じたりした後、直也は俯いた。

すると、少し荒っぽい手つきで頭を撫でられる。

「大丈夫だ。きっと、お前も俺達も話が出来るようになる」

今でも、意思疎通は少しだけだができるだろう。柔らかく低い声が頭上から降って、直也は顔を上げた。

少し吊り上った目を優しく細め、真っ直ぐに見下ろすナトラージャのオレンジ色の髪が輝いている。
それが、いつも慰めてくれる時の月のようで……。

深呼吸をした直也は、弱ったように笑って視線を逸らす。
困った。イレギュラーな状況に置かれているというのに、ナトラージャの髪の所為で調子が狂う。

それに彼は、もう少しで十八歳になるらしい年下。
大人とは、年下にも何にも甘えることを大体は我慢する厄介な生き物なのだ。

だが、ナトラージャもユアンも子供に向けるような愛情の籠った瞳を向けてくる。
たしか、ユアンが自分の事を『少年』と言っていた。
ならば、その誤解に甘えても良いのじゃないか。

心の中で葛藤していれば、頭からナトラージャの手が離れて行った。
視線をナトラージャに向ければ、口端を片方上げたナトラージャの顔が近づいてくる。

「すぐに帰る。それまで良い子で待っていろよ、――――ナオヤ」

蜂蜜のように甘ったるくなった瞳に、直也は惚けたような自分の顔が映っているのが確認できたが、 次には瞳ではなく男らしい首が視界を占めた。
額に少し濡れた柔らかい感触が一瞬して、チュッというような音。
直也は、何が起きたのかわからなかった。
だが、ナトラージャの整った顔が離れて行ったことで、額にキスされたと気づく。

「なっ」

子供に掛けるような言葉の後の不意打ちに、直也は額に手を置き顔を真っ赤にさせて口をぱくぱくさせ狼狽する。

そんな直也を見て、満足そうに笑ったナトラージャはすぐに部屋を出て行った。
少しした後、小さな馬の嘶きがして蹄鉄の小刻み良い音が遠ざかって行く。

「あらま、珍しいこともあるものですねぇ」

感心したようなユアンが、のほほんとした様子で直也に手を差し出した。

「さあ、ナオヤ様。とりあえず、お風呂に入りましょう。汗をかなり掻いていましたから」

ユアンに言われてみて、直也は汗を掻いた後のような肌の感覚を自覚した。
そうなってしまうと、入らずにはいられない。

じっと待っている優しげなユアンが差し出している手に、直也は迷いながらも手を乗せた。
ナトラージャの事はとりあえず今はどこかに置いておくとして、どうも目の前のユアンの言動に絆されているような気がする。油断できない男だ。

――――でも、悪い人ではなさそうなんだよな……。

身の危険を感じられない。
それに、自信過剰も良い所だ。
ならば、風呂に入った後に今の自分の状況を考えれば良いか。
ある一定の不安を超えた直也は、経験で鍛えられた“臨機応変”を発動させたのだった。



◆ ◆ ◆



直也は、緑茶のような色の湯が溜まる猫足のバスタブに浸かった。
全身を洗った直也にユアンが、疲労回復に良い薬草の入った湯を作ってくれたのだ。

それなりに浸かって湯が冷めはじめており、そろそろ出ようかと立ち上がる。
猫足のバスタブから上がる方法がわからないが、とりあえず淵を乗り越えバスマットへ足を着く。
それと同時に、浴室のドアが開いた。
椅子に置かれているバスタオルを取ろうとした直也は、息を飲んだような音がしたそのドアへと振り返った。

出入り口には、ナトラージャが立っていた。
直也が入っているとは知らなかったようで、驚いた表情をしている。
しかし、すぐにナトラージャが直也から視線を外す。

「すまない」

目線は床へ向けたまま、気まずげな表情で謝るナトラージャの態度に、直也は自身が乙女になったような気分になる。

近日に熱海で温泉に入っていた直也には、裸を見られたぐらい平気なのだが……。
ナトラージャの言動を見るに、同性であっても他者の裸を見てはいけないようなお国柄なのだろうか。

何やら直也まで気まずくなりそうになった時、ナトラージャが我に返ったように直也の方へ足早に近づいてくる。

目の前に来ると、やはり背が高い。
見下ろされた直也は、どうしたのかと窺うようにナトラージャを見上げる。

「何をぼーっと突っ立ている。風邪を引くぞ?」

そう言ってナトラージャはバスタオルを手に取り、直也の頭や上半身に着いた水気を取っていく。
腹のあたりまで拭き終わると、直也にバスタオルを手渡す。

「下着と服を持ってくるから、あとは自分で拭け」

命令口調のようなそれだが、ナトラージャは直也の頭をクシャっと一撫でして踵を返した。

「なんか……本当に俺、子共扱いだ」

ぽつりと呟くと、なんだか可笑しくて直也は小さく笑った。
心がくすぐったくなるが、嫌ではない接せられ方だ。
大人に接するようにして欲しい。なんて、ナトラージャにもユアンにも思わなかった。
むしろ、嬉しい。と思ってしまうのは、可笑しいだろうか?

直也はナトラージャが言った通りに、身体の水気を拭いはじめた。
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