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クリスマス・イヴ2

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 大原朱里は、年明けから看護師の仕事に復帰するも、自分を拾ってくれた大原病院からオファーがかかり、悩む。

 朱里は主治医の中河原先生のことが好きだ。はじめて男の人に胸がときめいたのである。でも看護師と医師、いや入院中に好きだと自覚したのだから、患者と医師は身分違いで告白すらできない。

 それに診察の時、前をはだけるのが恥ずかしくてたまらなかったが、10歳年上の中河原先生になら見せられた。それぐらい信頼できる先生だったのだ。

 大恩ある大原病院へ行きたいという気もあるが、健康診断後、ずっと面倒を見てくれている勤務先の中河原林病院も捨てがたく、朱里が入院してからずっと、ローテーションで迷惑をかけてしまったので、しばらくの間は、この病院から出る気はない。

 主治医の中河原先生も、論文を学会に発表したいといきこんでおられ、よその病院へ変わる話が来ているなどとは、思ってもいらっしゃらない。

 看護師は慢性的に人手不足で、その仕事は大変な激務なのである。医師の次に看護師が患者さんの命を預かっていると言っても過言ではない。

 そして、医者がたとえ100人集まったとしても、看護師が法定数を下回ったら、開業すらできない。

 看護基準があり、社会保険診療報酬の満額を受け取れないのである。

 そのため大病院の院長と事務長は全国の看護学校を回り、青田買いするのであるが、もし、内定を採れれば支度金を出し、引っ越し費用も家賃の一部または全部も病院側が持つのが通例である。職場見学をしたいと言われれば、顎足宿は当たり前で、食事、交通費、宿泊料金すべて病院側が賄うのである。

 大原朱里も入院している間の診療費の一部負担金は支払っていない。病院側が福利厚生費の一環として、受け取らずその代わり、社会保険には診療報酬として残りの7割を請求するのである。

 だからいくら拾って育ててくれた大恩があっても、大原病院には行き辛いという現状がある。

 放射線治療や抗がん剤治療はしていない。もう、手遅れだったので、本人に負担がかからないように静かに死なせてあげようという中河原先生の判断だったのだ。

 仕事が終わり、着替えて帰ろうとしていた時に、中河原先生から呼び止められ

 「大原さん、ちょっと聞きたいことがあるから、これから出かけませんか?」

 中河原先生は、節分に朱里を誘ってくれたのだ。中河原林病院の近くに、節分で有名な神社があり、境内には本物の生きた鹿までいる。

 二人が行ったときには、既に「鬼は外、福は内。」の掛け声とともに福豆が配られていたのである。

 中河原先生と手をつないだまま、福豆をもらいに行く。

 その神社の奥の院のさらに奥へ行くと、公園がありジャングルジムや滑り台、ブランコがある。そのブランコに二人して乗り、中河原先生はポツリポツリと話し始める。

 もう日が暮れ、あたりは真っ暗なのだが、公園の街灯が二人を照らす。

 「実はね、前から大原さんのことが気になっていたんだ。でも医師と看護師の立場で言い出せず、そのうち大原さんの病気がわかってしまってね、医師と患者なら余計に告白できなくなってしまう。と諦めていたんだ。でも、奇跡的に完治されて、だから……その……僕と付き合ってもらえないか?」

 「ええ?私みたいな中卒でもいいのですか?それに、私は大原病院の赤ちゃんポストの中に入っていたのですよ?」

 「君は正看だよ、中卒でも恥じることはない。僕は君の優秀なところとひたむきに努力する姿に惹かれたんだ。赤ちゃんポストであろうがなかろうが関係ないよ。もし、本当のお母さんが名乗り出てきてくれたら、これから二人で親孝行をしようよ。」

 中河原先生は院長先生の息子さんで将来を嘱望されている。もともと中河原林病院は、中河原先生と河原林先生が二人で始められた病院だそうで、河原林先生にお子さんがいらっしゃらなかったので、中河原先生のところが代々院長を務めていらっしゃるというわけです。

 そんな将来、院長先生になられるかもしれない人と一介の看護師では差がありすぎる。それに医師は医師同士結婚しないと医師会からバカにされるという話も聞く。

 その話を中河原先生にすると

 「バカにしたい奴には、させておくよ。僕は愛する女性と結婚したいのだ。どうか、僕の妻になってくれ。」

 「私も先生のこと好きです。でも、身分違いだから諦めて……いました。」

 いつの間にか、先生がブランコから降りて、

 朱里の前に跪く。朱里の手の甲にキスをして

 「できれば、唇……いや全身、身体中にもキスをさせてください。」

 朱里は真っ赤になり、頷く。

 中河原先生は、朱里を立たせて、大切なものを扱うように抱きしめてくれたのだ。朱里は薄いコートの下から先生のぬくもりを感じて、幸せな気分に浸る。

 バレンタインデー、朱里は生まれて初めて中河原先生のためにチョコレートケーキを焼く、節分から、こっち毎日焼いているけど、今日は失敗せず、うまく膨らんでくれたのだ。それをラッピングして、先生の部屋へ持っていく。二人はあれから、毎日病院外であっている。先生が当直の時に、朱里もまた夜勤するというように時間帯のローテーションを合わせている。

 院長先生の息子の医師と看護師が付き合っていることは病院中に噂が駆け巡る。

 口さがない看護師たちは、

 「あの娘、うまくやったわね。先生も先生よ、末期がんの標本にしたいから、あの娘と付き合っているのよ。」

 これに激怒してくれたのが、中河原先生をはじめとした中河原先生のお父様、院長先生が激怒してくれたのである。

 ある朝の朝礼で、言ってくれたのである。

 「ウチの息子の嫁のことを末期がんの標本呼ばわりしているものがいる。今、ここで名乗りを上げてもらえないか?さすれば、依願退職扱いとして、お咎めなしにしてやるが、名乗り出ない場合は、懲戒解雇にして出て行ってもらう。近隣の病院には廻状を回す。」

 オロオロする朱里に、

 「たとえ看護師不足で、半分病院を閉めなくなったとしても、そんな根性悪の看護師を置いておくわけにはいかない。看護師は患者さんから見て、白衣の天使でなければならない!それを標本呼ばわりするなど、看護師失格である!」

 院長先生が朱里のことを息子の嫁認定してから、一気に意地悪や陰口は鳴りを潜めたのである。

 それよりも、次期院長夫人として、朱里に胡麻をするものまで出始める。

 朱里にとっては、ちょっと迷惑だったけど、それを中河原先生は、ツボにはまったのかゲラゲラ笑う。

 「朱里も、これでようやく俺の苦労がわかっただろう?俺も院長の息子として、小さい時から大人からゴマをすられて迷惑していたんだ。」

 「はぁ。」

 「朱里、おいで。愛しているよ。」

 「まだ、勤務中です。……ああん。」

 もうほとんど食べられているかのようなキスをされる。

 「このカラダにメスを入れなくて、本当に良かったと思っている。神様に感謝する。」

 中河原先生は、敬虔なクリスチャンである。

 朱里は、クリスマス・イヴの夜、女神様に会ったことを言うと、目を丸くされて

 「やっぱり、俺の朱里は、女神様に選ばれた愛された女性だったんだね。だから、女神様の手により癌細胞がなくなったのだ。」

 医者のくせに、非科学的なことを受け入れ信じている。愛するがゆえか?信仰するがゆえかはわからない。

 朱里と中河原先生は、順調に愛を育んでいく。

 そんな時に事件が起きる。それは、中河原先生が当直医で、朱里が夜勤の時に怒った。何者かが生命維持装置を付けている患者さんの命綱と言うべき、呼吸器の電源を切ってしまったのである。警報機が鳴り、慌てて、その病室に飛び込んだ時はもうほとんど手遅れで。

 このままでは、医療過誤を疑わられ、中河原先生は窮地に立たされる。

 どうしよう。どうしよう。オロオロしているとき、ふと女神様から何かいただいたことを思い出したのだ。どんなことでもなんでも神様が叶えてくださるという魔法の不思議なペンの存在を。

 朱里はロッカールームに取って返し、手提げかばんから、あの粗末なボールペンを取り出し、すぐメモ帳にあの患者さんの命が助かりますように、と書く。

 そして、そのボールペンを白衣の胸ポケットに差したまま、病室に向かう。

 病室では、中河原先生が懸命の処置をしているが、バイタルを表す数値が皆どれも正常値に戻っている。生命維持装置がなくても、自力で呼吸されている様子。

 「先生……。」

 朱里が声をかけ、中河原先生がモニターに目をやると信じられないと言った面持ちでいらっしゃる。

 結局、この患者さんは助かり、やがて退院されるまでに回復される。

 ことはそれでは終わらなかったのである。

 中河原林病院では、警報が鳴っている最中に夜勤看護士がロッカールームに取って返したという情報が週刊誌にすっぱ抜かれたのである。

 あの生命維持装置を外したであろう物からのタレコミらしい。すべては、朱里を狙った犯行であることは明白。朱里が次期院長夫人になることを阻止したい人が仕組んだものであると思われた。

 院長先生からも、中河原先生からも何のためにロッカールームに取って返した?と責められはしないが、やんやと聞かれる。

 朱里は仕方なくクリスマス・イヴでの女神様とのやり取りを言う。院長先生もクリスチャンであるから、すんなりその話を信じてくれるが、その不思議な魔法のペンを見せても安物の粗品でもらうようなボールペンにしか見えないことから、他の人たちは信じてくれない。

 警察からも事情を聴かれるが、メモ帖を見せ、ロッカールームでこのペンを使って、これを書いたら患者さんが自力呼吸できるようになったとしか言えない。

 その不思議なペンの存在をマスコミは面白おかしく大々的に取り上げるが、朱里以外の人がそのペンを使って、願いごとを書いても発動しないのである。

 もうほとんど公開処刑に近い形で、立証させられることが決まる。

 病院の前で、大勢のテレビカメラとギャラリーを前にして、もう露を目前としているのに、病院前の桜並木を満開にした後、樹氷を出現させ、その後再び満開にする。というめちゃくちゃな無理難題を願い事として、書くように命じられたのである。

 いくらなんでも桜の木の神様が承知しないだろうと思いながら、無理やりに書かせられた。

 書いているところも生中継で放送される。

 書き終わった紙を報道陣に見せる。

 ギャラリーがざわつき始めたと思ったら、桜が満開になっている。皆、スマホで写真を撮っている。

 その後、一陣の風が吹いたと思ったら、桜吹雪になって、それから樹氷ができた。気温は相変わらず、蒸し暑いままで樹氷ができたのである。

 それからまた満開の桜へと変わっていく。

 もうそれからのほうが大変だったかもしれない?というぐらい、中河原林病院に取材が全世界から殺到したのである。

 「女神に愛されし、奇跡の看護師がいる病院」として、一躍脚光を浴びる。

 不思議な魔法のペンを表ざたにしてから、嬉しい誤算?があったのだ。あの日、あの夜、生命維持装置の電源を切った犯人が分かったのである。

 それは、中河原林病院の看護師長が電源を切っていたのである。看護師長ならば、病室に出入りしていても誰も不審がらない。

 理由はやはり、年下の俊介のことが好きだったので、俊介が自分より20歳も年下の看護師を選んだことへの嫌がらせのつもりで犯行に及んだことが判明したのだ。

 殺人未遂の罪で、看護師長は懲戒解雇の上、逮捕起訴されることが決まる。

 そして、全世界が祝福する中、朱里と中河原俊介は教会で結婚式を挙げたのだ。

 なぜか式の参列者の中に女神様もいらしたのだけど、誰も気づかない。ただ、朱里だけはわかっていたこと。朱里に耳打ちして

 「自分の願い事を3回までできるわよ。」

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