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298 境界②
しおりを挟む「ミリィのヤツ、先に上がっているのではないか?」
「それが……どこにも……」
落ち着かぬ様子で辺りを見渡すクロード。
潜水スーツが壊れたので先に上がらせていたはずだが……もしや波にでもさらわれれたか。
海面を見下ろすが、波は静かなものでミリィのミの字も見当たらない。
「ミリィーっ!」
「ミリィさーんっ!」
懸命に叫ぶが、当然のように声は帰ってこない。
あの馬鹿者……何をしているのだ一体。
《ミリィ、聞こえるか? ミリィ!》
念話にも答えず。
念話が届かない範囲にまでこの短時間で流されたことは考えにくい……恐らく気を失っているのだろう。
ったく世話が焼ける。
やれやれとため息を吐くワシに、クロードがしがみついてくる。
「ど、どうしましょうゼフさんっ! ミリィさんが……」
「慌てるな、こういう時の備えはちゃんとしてある」
義手に取り付けられたボタンを押すと、手首の部分に取り付けられた巻き上げ機が唸りを上げて回転し始める。
そこから伸びるのは透明な糸。ハガネマユグモの糸を何十何百にも重ね紡いだ特別製の糸は人一人の体重くらいは軽く支えることが出来る。
義手に取り付けられた機能の一つで、アンカーを打ち出し対象に透明な糸を絡ませることが出来るのである。
ミリィを船に戻す際、念の為にその身体に巻きつけておいたのだ。
いわゆる命綱である。
「よくそんなもの用意していましたね……」
「ミリィを連れていくのだ。このくらいの用意は当然と言えよう」
迷子に定評のあるミリィである。こんな場所に連れて行くなら、首輪の一つもつけておかねばなるまい。
巻き上げ機を動かす事しばし、海面が少し揺れ始める。
「み、見てください! 水面に影が……!」
「引き上げるぞ、網を用意しろ」
言った直後、ざばあと水柱が上がりミリィが海面に姿をあらわす。
引き揚げられたミリィを網で掬い、何とか甲板にまで引っ張り上げた。
首に巻きつけたワイヤーを緩め、潜水スーツを破いて脱がす。
ミリィの口元に耳を当て呼吸を確かめるが……息をしていない。
「……すぐに人工呼吸をする。手伝えクロード」
「は、はいっ」
ミリィの胸に両手を当て、思いきり押し込むように圧迫を続ける。
何度も何度も、全力でミリィの胸に掌を押し潰していく。
同時に、横に座っていたクロードが少し頬を赤らめながらミリィの顎に手を当て、唇を合わせ息を送り込む。
それを何度も繰り返した……が、手ごたえはない。
「ハァ……ハァ……交代だ」
「ん……わかりました」
少し不満げな表情で、クロードがワシと位置を変える。
「……失礼します」
そう言って、クロードはミリィの胸を圧迫し始める。
勢いよく押し付ける手に合わせ、ミリィの唇と合わせ息を吹き込んでいく。
皆の見守る中、どれくらい作業していただろうか。
「ケホッ!」
と、ミリィが大きく咳をする。
「ゲホッ、ゴホッ! ケフン」
何度か咳をしながら、ミリィは口から大量の水を吐きだした。
ふう、どうやら息を吹き返したようである。
鼻から水が垂れているぞ。
「ミリィさんっ!」
「けほっ……く、クロード……? 私一体……」
「よかったです……っ!」
困惑気味のミリィに、クロードが抱き着く。
混乱してはいるようだが、どうやら命に別状はないらしい。
とりあえずは大丈夫でよかったと言ったところか。
《……レディアか。任務成功だ。船を出して貰えるか》
《おっけーお疲れ様っ》
軽い返事のあと、エイジャス号は煙突から蒸気を吹かし動き出すのであった。
「けほっけほっ……うぅ胸が痛い……」
ミリィが胸をさすりながらそう呟く。
何度も思いきり押したからな。胸骨圧迫は、下手をすると骨を折る事もあるらしい。
「ゴメンなさい……必死だったものですから……でも無事でよかった」
そう言ってクロードが指で涙を拭う。
真剣な顔に、ミリィも慌てた様にパタパタと手を振り、茶化した。
「あ、あはは! 気にしないでクロード、本当にありがとうねっ!」
「そうだな。それにいくら押し込んでもこれ以上減りようがないし、気にする事はないだろう」
「ちょっとそれ、どういう意味……?」
「さあて、自分の胸に聞いてみるのだな」
「むぅ~……」
ミリィが胸元を押さえながら、涙目でワシを睨みつけてくる。
逆に反動で成長するかもしれないではないか。
胸を揉むと大きくなると言う話を聞いた事がある。
「しかし本当に危なかったのだぞ。反省しろよミリィ」
「う……わかってるもん……」
「あまり波は強くなかったように思えますが、流されてしまったのですか?」
「ううん、さっきの半魚人に足を掴まれて引っ張られてたの。危うく沈められるところだったわ……」
ミリィが足首をさすると、そこには未だ強く握られた跡が残っている。
ワシらのように水中で息が出来ぬ者を水中に引っ張り込むというのは、単純だが非常に効果的だ。
あの時は既に空気の補給も切れていただろうし、あせって魔導も発動できなかったのだろうな。
とはいえ窮地の時こそ冷静に魔導を発動できなければ、一流の魔導師とはいえん。
まだまだ未熟だな。
「あ! あれを見て下さい!」
突如シルシュが声を上げる。指差す先にはいくつもの大渦が見えた。
遠目からでも見える激しい波と嵐、大渦が荒れ狂う様子はまるで水の壁である。
あれが話に聞く境界か。
確かのあの大波を読んで突破するのは大変そうだ。
イエラの声が甲板に響く。
『あー皆の者、聞こえるかの? そろそろエイジャス号は境界へと入る。内部はダンジョン化している為、魔物も多くなる。気を抜くでないぞ』
珍しく真面目なイエラの口調に、甲板の上にいた者たち皆が息を飲む。
ここからが本番というワケだ。
『次の波と共に突入する。総員、何かにしっかりとしがみついておくのじゃぞ』
イエラの言葉とほぼ同時に、ごごごと何やら地響きのような音が聞こえてくる。
音の方、船尾を見やると、水平線の向こうが盛り上がっているのが見える。
遠目なので正確には分からんが、エイジャス号の倍はあろうかという大波だ。
「つ、次の波ってあれでしょうか」
「そ、そうなんじゃないかなぁ~……」
震え声でそう言いながら、クロードとミリィがワシの身体にしがみつく。
他の者たちも、船体にしがみつき衝撃に備えているようだ。
「……しっかり掴まっていろよ」
そう言って、先刻ミリィを引き上げた糸で船体に身体を巻きつけておく。
迫り来る大波に、船がぐらぐらと揺れ大きく傾き始めた。
「きゃああああっ!?」
「~~~~~~っ!?」
エイジャス号が波にのまれるかと思われた瞬間、ワシは見た。
艦橋の後方に立つイエラが波に向けて手をかざしたのを。
イエラが呪文を紡ぐたび、周囲に風が集まっていく。
そして波目がけ、魔導を放った。
一筋の黒い閃光が走り、その後を渦巻くように爆発が連なり、弾ける。
――――ブラックゼロ。
以前、合成魔導で撃った時とは比べ物にならぬ威力。
『合わせる』必要がないため全力で撃てたからだろう。
イエラの撃ったブラックゼロは大波をも取り込み、凄まじいまでの推進力を生み出した。
それと共に一気に加速する。
船が浮くような感覚。エイジャス号は渦を越え、一気に境界へと突入していくのだった。
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