桜子さんと書生探偵

里見りんか

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終幕 婚約

38 湖城桜子の婚約者2

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「私がお慕いしているのは……五島新伍さんです。」

 桜子の言葉に、その場にいた者が、皆一様に驚いて、新伍を見た。

 父も、イツも、時津も。藤高貢も、東堂樹も、三善中将も……そして、当の新伍でさえも、何を言われたのか分かっていないようで、珍しくポカンとしている。

「え……っと、桜子さん………?」

 新伍が、何かの間違いではないかと恐る恐る聞き返す。

「桜子、それは本当か?」

 父の確認に、桜子はしっかりと頷いた。

「はい。私は、五島さんを……新伍さんをお慕い申し上げております。」

 応接室が水を打ったように、静まり返る。その静寂を破ったのは、貢だった。

「別に、私はそれでも構いませんがね?」

 感情を映さぬ涼しい顔で、

「桜子さんが、誰を慕っていようと、藤高家の嫁としての職責を果たしてくれるのならば、特に構いませんよ。」

 軍帽の鍔をキュッと直す。

「どうせ結婚は、家と家の結びつきですから。」

 それは承知している。桜子も重々分かっているのだ。だからこそ、一度は藤高家に嫁ぐと決めたのだから。
 それでも………ーーー

「私がダメなのです。」

 新伍が怪我をして血を流す姿を見たときに思った。この先、私とこの人の縁が切れたら、この人は、私の知らないところで大きな怪我をするかもしれないーーー酷い傷や大きな病で伏せったり、死んでしまったりするかもしれない。

 私はそれを、何も知らぬまま、ただ心配だけをしながら、過ごすのだ。息災だろうか、困ってはいないだろうか、と。

 考えただけで、出来そうになかった。

「私が新伍さんの側にいたいのです。たとえ湖城の家を出ることになっても、新伍さんの側に………!!」

 私はなんて、ワガママな娘なんだろう。その桜子の決意に水を差したのは…

「戯れ事はやめてください。」

 新伍だった。いつも飄々とした声とは違い、聞いたことないほどに低く重い。

「家を出るなんて、気安く言うものではない。何不自由なく育った桜子さんは、僕や時津さんが、どういう暮らしをしてきたかを知らないでしょう?」

 拒絶の響音。

「藤高少尉は、貴女に似合いの婚約者です。志は清廉で、家柄も良い。桜子さんは、大人しく少尉のところに嫁ぐべきです。」

 新伍の論理的に詰め寄るような言い方に、思わず、

「い………いやです。」
「は……?」
「私は五島さんをお慕いしていると言っているじゃないですか! 五島さんに嫁ぎたい、と。」
「何を……貴女は、その手のワガママを言う人じゃないでしょう?」

 それはその通りだ。桜子はお転婆だが、本来、そのあたりはちゃんと心得ている。

 でも……それでも嫌なのだ。ワガママだって分かっているのに、折れることができない。

 にらみ合う桜子と新伍。割って入ったのは、父だった。

「桜子。五島くんの言うことは、もっともだ。私はお前を自由にのびのびと育ててきたが、所詮は財閥令嬢。お前が家を出て、湖城の力を借りずに生きていこうとしても、一日と持つまいよ。冷たいようだが、それが現実だ。」

「お父様……」

 家を出たら、一人では生きられない。改めて父に突きつけられる現実に、甘い夢が揺らぐ。恵まれているはずの自分は、なんて非力なんだろう。

「だから、五島くんについて家を出るなんて考えはやめなさい。」

 そういった父は、一転、カラッとした明るい声で、

「別に桜子が出ていかなくても、五島くんにうちに婿に入ってもらえばいいんだから。」

「………は?」
「………え?」

 新伍と桜子はほぼ同時に、どちらも素っ頓狂な声を上げた。

「えっ……と、それはどういう………?」

 戸惑う桜子に、父は新伍顔負けの飄々とした狸面で、

「さて、桜子はこう言っているが、君はどうだね? 四人目の婚約者殿。」
「四人……目の……婚約者?」
「忘れたか? もともと、婚約者候補は四人いただろう?」

 そう言われると、そんな話があった気がする。最初、四人と言いながら、やっぱり三人と言い直し、なぜ急に一人消えたのかと桜子が聞いた。

「本人があまり乗り気でないという、その四人目こそ、ここにいる五島新伍くんだ。」
「まぁッ!! 本当ですか?!」

 思ってもみなかった事実の発覚に、桜子が歓喜する一方、

「僕は三善中将を通じて、お断りしたはずですが……。」

 新伍が渋るように眉根を寄せた。

「まぁまぁ。」

 それを中将が宥め、

「どうだい? 桜子さんは、君の思っていたような令嬢だったかな?」
「それ……は……違いますが……」

「新伍さんの思っていた令嬢? どういうことですか?」

 桜子が、父と三善中将の顔を交互に見る。二人は互いに顔を見合わせ、やや間をおいて、父が、

「五島くんはな、財閥令嬢なんて、とても自分とは釣り合わない。身分は言うまでもなく、話も合わないだろうから、互いにとって辛い結婚生活になる、と断ってきたのだ。」

 桜子が新伍をみる。
 新伍が、「だって、そのとおりでしょう?」と、首の付根をかいた。

「僕の生い立ちを考えてみてください。桜子さんもご存知のとおり、僕はダンスすらも満足に踊れない。身の程は弁えています。湖城家とて、何の後ろ盾もない僕と結婚しても、利はありません。加えて、僕自身、蝶よ花よと育てられた財閥令嬢と仲良くできるような性格では、ありませんからね。」

 財閥に婿入りなんて現実的じゃありません、という新伍に、父が肩をすくめた。

「後ろ盾ではなく、私は君が気に入っているんだがね。」

 今度は三善中将が、

「新伍。それなら、私の養子になるか? 三善家と湖城家の婚姻関係なら、外聞も気になるまい? 私が良いダンスの先生をつけてやろう。」
「ご冗談をッ!!」

 新伍が、目をひん剥いた。

「僕は…………」

 一瞬だけ言い淀んで、周りに視線を巡らす。それから一呼吸おいて、

「……僕の父は会津者ですよ。会津は朝敵。軍部の有力者たる三善中将の戸籍を汚すことになります。」

 三善中将と父が揃って、キョトンとした。間の抜けたような時間の後、二人が同時に

「アッハッハッハッハッ!!」

 と大笑いした。

「なんだ、新伍! お前、そんなことを気にしていたのか? 普段は柳の葉みたいに涼しい顔しているくせに、意外と繊細だなァ!!」

「そんなことって……軍や政府の中枢には、会津に対する反感が未だ根強い者もいると聞きます。現に、勝川警部補も中将の家にいると知ってからも尚、僕のことを嫌っていたのは、僕の血筋に気づいたからです。」

 今度は父が、

「そうかもしれんが、別に気にすることはない。実力で黙らせてやれば良い。今はそういう時代だろう? 勝川警部補だって、最終的には君を認めた。少なくとも、我らは気にしないよなぁ?」

 同意を求められた三善中将も

「全く気にせぬなぁ。」

 鷹揚に頷いた。

「なぁ、新伍。お前は、なかなか生きづらい幼少期を過ごしたかもしれないが、私に出会うという転機があっただろう? 私はお前に光る物を感じたから連れてきたんだ。いつまでも過去に縛られる必要はない。」

「私も、君という人間が気に入ったから、桜子との婚約を打診したんだ。君の持つ背景や後ろ盾ではない。桜子には、君という人間が合うと思ったんだ。」

 父が愛おしげに目を細めて、桜子を見た。

「まぁ……私は、蝶よ花よと育てたつもりだが、どうしたわけか、本人はこの有様だ。」

「お父さま!? この有様っていうのは、どういうことですか?」

 桜子がプクッと頬を膨らませるが、父はそれすらも愛らしいとでも言いたげに微笑んだ。

「見ての通り、財閥令嬢にしては好奇心旺盛というか……お転婆というか…君が思うような、お高くとまった娘じゃないだろう?」
「……確かに、そう…ですが……」
「君だって、桜子のことが嫌いなわけではあるまい?」

 まさか、嫌いと答えるわけはないよな、とでも言わんばかりの圧をかけながら尋ねられたせいか、

「…そ……れは、まぁ……」
「では、憎からず思っている、ということでいいんだな?」
「えッ?! えぇっと………」

 少し困った顔の新伍と目が合う。桜子は高まる期待を抑えきれなかった。

 良い答えが聞きたい。せめて、多少は希望の見いだせるような返事であればいい。

「桜子さんは……おっしゃるとおり、決して気位の高い箱入令嬢ではありません。好奇心旺盛なところもですが、それだけでなく、素直で真っ直ぐです。特に……」

 新伍は、桜子の隣に寄り添うイツ、未だ立ち直れない様子の時津に視線を巡らせた。

「人に対する真っ直ぐさが、周りの人の心を惹きつけるのだ、と思います。」

 フッと新伍の頬が緩んだ。

「そういう意味で言えば、かくいう僕も、桜子さんのそういう真っ直ぐさや明るさに惹きつけられた、と言えるのかもしれません。」

 ごく自然に浮かんだ新伍の柔らかな表情に、桜子の心がフワリと浮いた。嬉しい。
 拒否ではない。むしろ、望んでいた以上に前向きな回答。

「じゃあ、婚約してもいいんだな?」

 父がカッと目を見開いて、グイッと身を乗り出した。

「それ……は……」

 新伍の目が少し泳いで、

「藤高少尉は……いいんですか? 藤高少尉と桜子さんの婚約は決まっていたのでは?」

 そうだった。桜子がいくらワガママを言ったとて、藤高家と湖城家の問題がある。それを蔑ろにはできない。
 すると重三郎が、

「いや? 藤高家には、前向きに考えたい、とは伝えたが、正式には返事していないが?」
「えっ?!」

 確かに、あのとき、父は藤高家に返事をする、と言ったのに……。

「桜子が五島くんに想いを寄せていることくらい、お見通しだ。これでも父親だからな。」
「それでは……お父様は何も返事をされていないのですか?」

「元々、五島くんと桜子は相性が良いと思っていた。桜子だけではなく、五島くんにとっても。彼の持つ、一見見えづらい、心の仄暗い部分を、桜子は温かく受け止めるだろう。会いさえすれば、それなりに惹かれ合う部分があるのではないか、と。」

「もしかして……」

 新伍が尋ねた。

「最初に手紙のことを話すときに、桜子さんを同席させたのは、僕と引き合わせるためですか?」

 桜子のいない場所で洗いざらい話せば、ややこしい話にならなかったのに、何故桜子を同席させて、曖昧に話を進めたのか、ずっと気になっていたという。

「まぁ、そうだな。」

 父が肩をすくめた。勿論、時津の扱いを決めかねて言葉を濁していたというのもあるが、と補足する。

「解決してほしくて君を呼んだことに違いはないが、君と桜子を会わせる、またとない機会だからな。」

 まさか、その前日に夜の街で偶然出会っているなんて知ったら、流石の父も腰を抜かすかもしれない。なんてことを考えていると、

「もう、いいですよ。」

 藤高貢が、皆の話を止めるように割って入った。

「湖城さんは、五島さんが桜子さんに相応しいと思っていて、桜子さんも慕っている。五島さんの方も憎からず、ということでしたら、これ以上、私の出る幕はない。」

 ため息混じりに言うと、

「面倒だから、父には私から断ったと伝えましょう。」
「貢くん、すまんな。湖城としては、これからも藤高への協力は惜しまん。何か入用の物があったら、いつでも言ってくれ。」

 父が、頭を下げた。貢が頷く。そして、新伍の方を見て、

「私も、貴方と桜子さんは、こうなる気がしました。だから、君が婚約者の候補に入っていなくて良かった……と思ったのですが……。」

 仕方がありませんねと、そう残念そうでもなく言ったーーーように見えたが、貢は、桜子の前まで歩いてくると、帽子をとって胸に当てた。桜子の目の高さに合うように腰をかがめて、

「私が貴女を怖がらせていたとは気がつきませんでした。申し訳ありません。」

 軽く頭を下げた。

「本音を言うと、私は桜子さんを気に入っていたので、少し残念ですが……」

 ちらりと新伍を横目に見た。

「どうか、お幸せに。」

 貢の唇の両端が僅かに持ち上がった。初めて見る人間らしい温かみを感じる表情だった。

 それから、皆に「失礼します。」と頭を下げ、三善中将に「公務に戻りますので」と敬礼して、応接室を後にした。

 部屋の中にはついに、湖城家の関係者と新伍、三善中将だけとなった。

「さぁ、改めて仕切り直しだな。」

 父が言った。

「桜子と五島くんの婚約について。」
「………。」

 黙ったままの新伍に、三善中将が「新伍」と呼びかける。さらに何か話そうと口を開きかけたのが、それに先んじて、桜子が、

「新伍さん。」

 新伍の前に立ち、黒い瞳をまっすぐに見つめた。きちんと、自分の気持ちを伝えるために。

「新伍さんが好きです。お慕いしています。私と……婚約してください。」

 指先が震える。足が今にも、逃げ出したいと臆している。怖い。でも、ちゃんと伝えたい。

 新伍は、少しだけビクリと身体を震わせてから、

「………いつだったか…嫌なことを無理に我慢する必要はないーーーと貴女に言ったのは、僕でしたね。」

 藤高家から帰る道すがら、園枝有朋と貞岡しを乃が腕を絡ませ歩いているのを見たときのことだ。

「それと同じように、僕は、好きなことや望むことも、はっきりと口にしていい、と思います。」

 ゆっくりと言葉を選びながら語りかける。

「僕は……僕は、桜子さんのそういう真っ直ぐなところは、とても素敵だと思います。好ましくも思う。けれど……」

 逆接の接続詞に、桜子の心臓がギュッと萎んだ。

「けれど、湖城さんの仰るように、入婿して財閥の跡取りにと言われても、今すぐお受けすることは出来ません。僕自身も、そういう立場を望んだことは、一度もない。」

「…………はい。」

 零れ落ちそうになる涙を、こらえて下を向く。すると新伍の手が、そっと髪に触れた。優しく撫でるように。

「だから、」

 前を向くと、少しだけ首を傾げた新伍の黒い瞳と目があった。

「だから、とりあえず婚約者候補ーーーで、いかがですか?」
「婚約者……候補?」

 今まで、桜子が散々強調してきた一言を、新伍が少しだけイタズラっぽく言う。

「はい。候補、です。」

 いつものように飄々と、でも誠実に。

「もう少し、ゆっくりとお互いを知って、先のことは……一緒に考えましょう。」
「一緒………に?」

 新伍が、桜子の髪を撫でていた手を離して、前に出す。桜子は、おずおずとそれを握った。新伍が珍しく照れたように、はにかんだ。

 桜子の心がキュンと締まる。今までのような辛い痛みじゃない。
 もう、我慢もしなくて良いんだ。この人を、好きでいていいんだ。

 嬉し涙が零れそうになった瞬間、バシッと乾いた音がした。父の重三郎が平手で新伍の背を叩いたのだ。

「ッ?!」
「言っておくが、もう五島くんの他には、婚約者候補は作らんからな。早く婚約者に昇格してくれよ。」

 新伍が痛みを堪えながら、

「……湖城さんは、もし万が一、僕が湖城財閥を継がないと言っても、いいんですか?」

 父は、「いいと言ってるじゃないか」と、カラッと笑って、

「たまたま湖城財閥は時流に乗って大きくなったが、今、成功している者や会社が永遠に栄え続けるわけではない。そういうところに嫁いだからと言って、一生苦労しない人生が保証されているわけではないからな。君は、一廉の人物になる。私はそう見込んだ。私は君に賭けたい。君となら、桜子は幸せになる。私はそれで、一向に構わん。」

「でも僕は、まだ何者でもない。ただの学生ですよ?」

 その言葉に、父は、「それが何か?」と肩をすくめた。

「やはり湖城さんは変り者……ですね。」
「桜子の父だからな。ただし、」

 父は、経営者らしい、威圧的な声で、

「桜子を悲しませることだけは、許さんからな。それから…………時津。」

 沈痛を続けていた時津を呼んだ。時津が、ビクッと身体を震わせる。

「お前は、今日から三善家にいけ。」
「………は?」

 パチクリと目を瞬かせる時津とは違い、三善中将は、「なんだ、結局そうなったのか」と冷静に答える。

「時津は、桜子から距離を置いたほうが良い。三善家に住み込み、湖城財閥の仕事は引き続きするように。ただし当家の仕事はさせん。三善家の預かりだ。中将には、すでに話をつけてある。」

 時津は慌てふためき、

「し……しかし、それでは、この家のことが……。」
「心配不要だ。」
「桜子さまのお世話も……」
「イツがいる。古参の女中たちも。」
「イツでは、いざと言うときにお嬢さまを守れません。」
「ちょうど良い機会だから、大ニに戻ってきてもらう。大ニの事は、先方にはご理解頂いた。桜子の外出のときには、大ニに付き添わせれば良い。」
「私は……」

 時津は、まるで今にも死にそうな程に蒼白な顔で、

「私は、不要ですか……? 私は、お嬢さまに捨てられるのですか?」
「違う。」

 父は、即座に否定した。

「お前は桜子に拾われてここに来たかもしれないが、私や桜子の所有物ではない。時津、お前は誰かの物ではないんだよ。」

 だから、捨てられるのではないんだ、と諭す。

「桜子から離れて世の中を見ろ、と言っているんだ。それに、三善中将のところには五島くんがいる。彼はなかなか面白いから、お前にとってもいい刺激になるし、桜子の婚約者を支える立場もまた、一興だろう?」

 途端に、時津の顔がパァっと明るくなった。

「なるほど! では、五島さんとお嬢さまが結婚なさるときに、私はついていけばいいんですね?」

 さっきまでの死んだような目が嘘のように生気を取り戻し、

「任せてください。五島さんを、桜子さまの婚約者に相応しいように、しっかりと指導いたしますので!!」

 ダンスもみっちり叩き込みますと鼻息荒く言う時津に、父は頭を抱えて、「…………うん」と、唸ると、三善中将の肩にぽんと手を置いた。

「全く伝わっていない気がするが、あとは頼んだ。あの軸の傾きまくった視点をなんとかしてくれ。」
「おいッ………」

 中将は「無責任すぎるぞ。」と苦笑いした。

 こうして、桜子の婚約騒動に始まった全ての事件は、湖城邸の応接室にて、無事に幕をおろしたのだった。



 ◇  ◇  ◇


 麗らかな日差しの差し込む午後。

「イツーー!!」

 先程、学校から帰ってきたばかりのはずの桜子がイツを呼ぶ声がした。婚約騒動も落ち着いたというのに、本人の方は、未だ子どものように無邪気だ。

「ねぇ、このリボンと花飾り、どちらがいいかしら?」

 桜子は、右手に臙脂色のリボン、左手には黄色い花飾りを携えて現れた。

「新伍さんは、どっちが好きだと思う?」
「そうですねぇ……今日のお召し物には、黄色の花飾りのほうが合う気がします。」
「……子どもっぽくはないかしら?」

 桜子が頬を紅色に染めて、不安げに瞬きした。

「そんなことありませんよ。明るい桜子さまに、よく似合います。」
「ホントッ?!」

 嬉しそうに顔が綻ぶ。

「あぁ……お芝居、楽しみだわ。」

 今日、桜子は、新伍と芝居に行く約束をしたのだという。話を聞く限り、「約束した」というよりは、半ば強引に約束を取り付けた、という感じだったが……。

 イツが桜子を座らせ、花飾りを髪につけてやる。いじらしいお嬢さまの気持ちを少しでも手助けできるよう、できるだけ可愛らしく見える角度に調整しながら。

「出来ましたよ。」

 うん、我ながらいい出来だ。
 桜子が「ありがとうッ!!」と、パッと立ち上がって、

「もう行かないと。大ニが玄関で待ってるから。」

 駆け出そうとするので、

「えっ?! お芝居は4時からですよね? 今から行くんですか?」

 まだ2時を過ぎたところだ。

「いいの。始まる前に団子屋さんに行きたいし。それに、今日は時津が屋敷にいるんですって。だから、三善のおじさまの家まで新伍さんを迎えに行くのよ。」

「ちょッ……お嬢さまが時津さんに会いに行ったら………」

 時津は諸手を挙げて喜ぶだろうが、旦那さまが、桜子と離した意味がない。
 というか、桜子が新伍を迎えに来ると思って、時津はわざわざ家で待ち構えているのではないか。

 そう伝える前に、桜子は走って行ってしまった。
 と思っていたら、また廊下の向こうの玄関から、ひょいと桜子の姿が覗いた。

「言い忘れていたわ。」

 よく通る声でイツの名を呼び、

「行ってきまぁす!! お土産買ってくるわね!」

 満面の笑みを浮かべて手をブンと振ると、身体をひらりと翻した。軽快に跳ねる全身から、喜びが満ち溢れている。

 イツはふぅと、軽いため息をつくと、

「いってらっしゃい、お嬢さま。」

 陽の光の中に飛び出した桜子の背に、小さく手を振る。

 前途は、まだ不確か。でも、きっと明るい。

 暖かな日差しに、ふわりと舞う黒い髪についた黄色の花飾りが朗らかに揺れていた。



 ー 完 ー




*本編はこちらで終了です。あとがきに続きます。ありがとうございました。*



** 他サイトに掲載した際、読者様より、6話の「婚約者、東堂樹」にて、「新伍が感じた不穏な視線は誰のものですか?」との質問をいただきました。

作者自身、書いたことをすっかり忘れていたのですが、あれは「トワ」になります。

本来、30、31話で触れなければならなかったものですが、完全に回収し忘れており、申し訳ありませんでした。


改稿には時間がかかるので、一旦、こちらにてお答えを掲載せさせていただきました。 **

    
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