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泡菜
しおりを挟む蓮花村滞在三日目の朝、藍鹿は焦燥感で目を覚ました。まだ朝と呼んで差し支えない日の高さだったが、菁野の姿はすでに房の中にはない。
(あの人、どこへ行ったんだろう?)
藍鹿も出遅れるわけにはいかないと慌てて身支度をして水簾閣を出た。そこで藍鹿が直面したのは、菁野が村のあちこちで騒ぎを巻き起こしている現場だった。
菁野が藍鹿に気づいて駆け寄ってきた。
「おはよー、藍鹿!」
「おはようございます。起きるの早いんですね」
抑揚のない棒読みで挨拶を返す。
「日の出と同時に抜け出したんだ。藍鹿はぐっすり寝てたね」
「……菁野。あなた、何をしたんですか?」
菁野は重たげに膨れた巾着を手にしているのだ。中に詰まっているのはもちろん、銭だ。
「商売さ! 聞いてくれ藍鹿、金払いがいいぞぉ、この村は!」
菁野はある村人には酒を飲ませ、また別の村人には虫下しだの軟膏だのを押し売りしていた。女性は容姿の良い菁野をチラチラと意識しているし、男たちは露骨に威嚇する眼差しを送っている。小さな村はじわじわと混迷をきたしていた。
「許可なく金儲けするのは、やばいのでは……」
「気難しいこと言わないでよ。ほら、これ見て」
「は? ギャッ!!」
菁野が懐から細い物体を取り出した。藍鹿は瞬時に後退って距離を取る。蛇にしか見えなかったのだ。ところが菁野はお気楽そうな笑みを浮かべて、藍鹿の前にぷらぷらと謎の物体を揺らした。
「藍鹿にあげる。そのへんに落ちてた蔓だよ。これで蛇に慣れる訓練を」
「さ、最低……!」
冷たい恐怖の後に溶岩のような怒りが押し寄せた。藍鹿がきつく拳を握っていると、水簾閣の方角から砂埃をあげて巨体の男が走ってきた。棍棒をぶん回している石蓮子だ。岩が割れそうな怒号が蓮花村に響く。
「お客人! 胡散臭い商売はやめていただこう!」
「藍鹿、藍鹿、たすけてぇぇ~!」
「取った金を出せ! 早く返せ!」
大きな額にピキピキと青筋を立てた石蓮子が、菁野の首根っこを掴んで連行していく。藍鹿は我関せずを貫きたくてその様子にくるりと背を向けたが、そこへ笑いを含んだ声が投げかけられた。
「ほんと最低だねえ。あんた、お友だちはちゃんと選びなよ?」
「……あれは友人じゃありません」
腕を組み仁王立ちする中年の女性が、藍鹿を見下ろして「そうなのかい?」と片眉を上げた。
その時、藍鹿の腹の虫が、ぐうぅと鳴いた。
恰幅の良い中年女性は金夫人といって、村の婦人たちの中心人物だった。ついてきな、と気安い調子で誘われ、藍鹿は村人の住居が立ち並ぶ区域まで足を伸ばした。ひとりでは足を踏み入れ難い場所だ。
菁野が衆目を集めた反動なのか、村人たちは藍鹿をそれほど警戒せずに見送った。途中で悋気の激しいほくろの男――黒児ともすれ違ったが、ひと睨みされただけで絡まれはしなかった。
「客人を飢えさせる趣味はないからね」
金夫人は藍鹿に釜焼きの饅頭を二つ、貰ってきてくれた。ありがたく、もぐもぐと頬張らせてもらう。端っこがカリカリに焦げていて香ばしい。おそらく菁野も何も食べていないだろうから、ひとつは持ち帰ってあげようと思って袖の中に忍ばせる。
金夫人が小さな皿を持ってきて、藍鹿の前に置いた。
「辣椒と瓜の漬け物だよ。挟んで食べな」
饅頭と一緒に食べると、塩気と酸味が食欲をかき立てる。
藍鹿がいるのは、家々の間に開けた小さな空間だ。野外に拡張した共同の厨とでもいうべき場所で、婦人たちが卓や桶を並べて、蔬菜の漬物をつくっていた。蓮の花茎や瓜、新生姜、緑の美しい大角豆など採れたての作物が籠に山盛りだ。
村の食卓には頻繁に、泡菜――漬物が登場する。漬物は主食の付け合わせや冬の保存食として重宝するが、揚げ物に刻んで掛けるなど、調味料のひとつとしても使われるのが特徴だ。
藍鹿もお礼がてら、手伝いを申し出た。ついでに彼女たちから人足の行方でも聞き出せたら上々だ、という打算も働いている。
頭に籠を載せ、様子を見に来た金夫人が藍鹿の手元を覗き込んだ。
「ずいぶん皮剥きが上手じゃないか」
「実家が蔬菜商でしたから」
「みっちり仕込まれたってわけかい」
おまけに藍鹿が宮仕えをしていた頃は、後宮に供給される食糧を妃嬪の宮へ配分する賄い事務を任されていた。甘味が足りないといった愚痴を受け止めたり、食糧に乏しい冬は宮殿内で飢え死にが出ないように心を配らねばならず、おかけで女性の会話に混ざるのが得意になった。
「ああ、やっぱり。この地方でも漬け汁は湯冷ましと白酒ですよね。私の父はそこに茶の出涸らしも入れてたんです。漬物の酸味が落ち着いて香りがよくなるそうですよ。店にも並べてましたが、父の漬物はなかなか評判でした」
「都の人が考えることはしゃれてるね」
「それにしても、変わった形の漬物壺を使うのですね。壺口のまわりにお皿が付いていますが……」
下処理をした野菜をほいほいと放り込む陶器の壺は、大陸の北や中央ではあまり見かけない形をしている。
「ああ、そこには水を入れるんだ。皿っていうか、水盤みたいなもんかね」
金夫人が使い方を実演してくれた。
たらいにぬるま湯と塩、白酒少々を加えて混ぜ、漬け汁をつくる。漬け汁を壺に注いだら、村で取れた蔬菜を壺いっぱいに詰め込んで蓋をする。壺の蓋に使うのは陶器のお碗だ。お碗になみなみと水を酌んだら、それを壺上部の凹み――水盤の部分に流し込みながら壺口にかぶせる。こうすると水の力でお碗が浮いてしまうが、それでちょうどいい。
「漬物ってのは、しばらく置いとくと気泡が出てくるだろ? 密閉するのはよくないんだ」
下手に密閉すれば内側から爆発する。外から余計なものが入らぬように守りつつ、壺の中に溜まった空気を逃がさなくてはならない。この漬物壺は、発酵の進みやすい温暖で湿潤な地方に適した、考え抜かれた形なのだ。
藍鹿は壺を眺めながら唸った。
「外から守り、内から逃がす、ですか……。発明した人は天才ですね」
「真夏の採蓮で忙しかった頃、うちの子に漬物番を任せたんだけど、川原からでっかい石を持ってきてそれを蓋に使ってさ。そのままひと月もほったらかしにしといたっていうんだよ。見に行ったら案の定、壺が割れてたね」
「あー、石はだめだね、石はよくないよ」
他の婦人たちもうんうんと頷いてる。それぞれ実感が伴っているので、みな多かれ少なかれ失敗した経験がありそうだ。
「あっ、藍鹿! ここにいたんだ!」
「もう贖罪は終わったんですか?」
石蓮子に吊るし上げられていたはずの菁野が現れた。あの巨体の侍衛を撒いてきたらしい。藍鹿の隣にどかりと腰をおろし、漬物壺を指でぴんと弾いた。
「これって漬物壺……? なんかアレだ、すっごく不恰好な形だよね」
「菁野、人が大事にしているものを莫迦にしてはいけない」
さらりと口をついて出た言葉だったが、菁野も周囲にいたご婦人たちも水を打ったようにしんと静まる。
「ご、ごめん、藍鹿」
「いえ。謝るのなら私ではなく、みなさんに言うべきですよ」
「おばちゃんたち、ごめんね」
「おばちゃんは余計だけど謝罪は受け取るよ」
金夫人がからりと笑う。
(……意外だ。絶対謝らないと思ってた)
菁野がしょぼんとした声で謝罪するので驚いた。あーだこーだと言い返してくると思っていたのに。これは励ましたほうがいいかもしれない。藍鹿は袖から焼き饅頭を取り出した。
「金夫人が饅頭をくれたんですよ。まだ何も食べていないのでは? よかったら食べて」
「いいの? ありがと藍鹿、愛してる!」
「あっ愛……!?」
硬直した藍鹿の前で菁野はがつがつと饅頭を頬張り、「石蓮子が追っかけて来るかもだからそろそろ行くよ」と素早く身を翻して行ってしまった。大きな瓜をひとつ剥き終わる暇もない。
「何しに来たんだ……?」
「あんたのお連れさんは風のようなお人だね。よその人とのんびり話すのもたまにはいいもんだ。説明しがいがあって楽しいよ」
「彼の行動に関しては本当に……私も振り回されてばかりで……」
ご婦人たちが、大変そうねえと眉を下げ、藍鹿に同情を示す。金夫人は会話に参加していても手を休めず、紅と白の蓮花を漬け込んでいる。藍鹿はふと思い出して、青蓮について訊ねてみた。
「そういえば、青い蓮は食用にはなさらないんですか?」
「水簾閣の蓮には手をつけないよ」
「それは貴重な花だから?」
それもあるけど、と金夫人は作業の手を止め、考えをめぐらせるように目線を上げる。
「あの蓮は蓮主様にしか扱えないんだ。あたしらが下手に触れでもしたら災いを呼びかねない。あのお方は青蓮花のためにこの村に連れてこられて……苦労したからね。それに蓮主様のおかげで、うちの暴力夫もおとなしくなってくれたし。恩人だよ、あの方は」
「――あたしのところは、蓮主様のおかげで死んだ子供が蘇りましたよ」
それまでおとなしく漬け汁を混ぜていた垂れ目の女性が、おっとりとした声で言った。
(死者が蘇った?)
藍鹿の聞き違いかと思ったが、ふざけている様子は微塵もない。それが本当なら、どんな妙薬でも成せない奇跡がこの村では起きていることになる。滞在すればするほど、蓮花村には謎が増えていくようだ。
「息を吹き返したら、親兄弟のことをさっぱり忘れてしまっていたんですけどね。あの世から送り返された駄賃に親との思い出を取られたんだろうと蓮主様は説明してくれました。でも何だっていい、子供たちが生きててくれればそれでいいんです」
胸に手を当て、うっとり惚気るように話す。
「……そうね。あんたはいいわよね」
藍鹿がどう相槌を打つべきか悩んでいると、今度はきつい顔つきの婦人が話し出した。
「でもうちの子はだめだったわ。蘇らなかった。何度も頼み込んだし、夫だって差し出した。なのに無理だって……なんであんたが良くて、こっちはだめなのよ!」
「おやめ、九娘」
たしなめた金夫人を、九娘と呼ばれた女は怒気も隠さず睨む。
「良い人ぶるのやめたら、金さん。知ってんのよ。あんた、旦那に仕返しするために自分の息子を蓮主に差し出したよね。息子が蓮主を悦ばせたから今があるんだってこと、忘れちゃったの?」
「あんた、客人の前で……!」
「春に来た大工や人足もそうよ。あの人たちが蓮主の機嫌を――」
「それ以上はおよし!!」
金夫人が机に激しく両手をついて言葉を遮る。
九娘は気が抜けたような白けた顔で声を落とした。
「……そうだよね。あんたたちに言ったって無駄だわ」
九娘がふらふらと去ると、婦人たちは黙りがちになった。金夫人の顔は真っ青だ。
「悪かったね。あの子は元は良い娘なんだけど今は少し……責めないでやっておくれ」
心を病んでいると言いかけて抑えたのだろう。藍鹿に目配せする金夫人は、これ以上の詮索はよせと訴えているようにも見える。
金夫人の話を引き取ったのは、垂れ目の女性だった。どこかズレた調子で話を続ける。
「誰でも生き返るわけじゃなくて、青蓮によって選ばれるんですよ。人にどうこうできるものではないと蓮主様も言ってました。だから恨みっこなしにしてほしいのになあ」
九娘とのやりとりは見ていたが『恨むな』というのは難しい話ではないかと余所者の藍鹿でさえ思った。もしあなたが子を失ったままだったらどうなのだと訊くのは意地悪だろうか。
「青い蓮によってうちの子たちは選ばれた。それで息を吹き返したんですよ」
ふわふわと夢見るような微笑みを浮かべて女性は言う。
藍鹿はひとつ、大いに引っかかりをおぼえた。
「うちの子たち、と言いましたね。蘇ったのは……ひとりではないと?」
「はい。水簾閣にお泊まりなら、きっともうお会いになっていますよ。あの子たち――小七と小八は、きちんとお仕えできてますか?」
「え……ええ、親切にしていただいてます」
「よかった。自慢の子供たちなんです」
童子らの母だという女性は藍鹿の話を聞いて、垂れ気味の目尻をさらにとろんと緩めた。
それ以上相手をするのが怖くなり、藍鹿は金夫人に意識を戻した。
「金夫人。さきほどの女性――九娘さんが、人足がどうのと話してましたが……」
「その話はもういいじゃないか」
それまでの態度とは打って変わって、金夫人はぴしゃりと話題を断ち切った。
「……手伝いはもう十分だよ」
金夫人の強張った横顔と、小七・小八兄弟の母の夢見心地の微笑。二人の対照的な女たちに見送られて、藍鹿は水簾閣に戻った。
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