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廃工場
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路地裏の、ゴミの臭いが消えた。代わりに、油の臭いのするヒンヤリとした空気が体を包む。
目を開けると、辺りは薄暗い。
どうやらここは使われていない工場のようだ。
大きな円筒形のタンクがやぐらのような物に乗っていて、天井近くまで掲げられている。胴には『冷却水』と書いてあるから、中に入っているのは水だろう。
壁のそばに置かれた棚には、クモの巣とホコリがかかった道具や薬品が詰まっていた。
ベルトコンベアが大きな機械の中を通って続き部屋に伸びている。
足元に、結衣香のスマホがあった。
「ケイ!」
声の方を向くと、鉄製の柱に縛られた結衣香がいた。
「ケイ、どうしてここに。私の場所がどうしてわかったの?」
きょとんとしている結衣香は意外と元気そうで、まずはほっとした。
「待っていたわ、ケイさん」
立っていたのは、黒髪の美女だった。両端に、若い男二人を従えているのが、劇かドラマのようで、どこか滑稽(こっけい)に見える。
彼女の顔に、ケイは眉根をよせた。
(確か、結衣香は電話で天音とか言ってたか。たしか、どこかで見たことあるような……でもどこで?)
必死で記憶をたどって、ようやく思い出した。
「バスジャック事件で、人質の中にいた人だよね? 旅行とは思えない靴をはいてたから思い出した」
睨みつけるケイの視線にひるまず、女性は笑みをうかべた表情を動かさない。
ケイは続ける。
「けど、どうしてあんたがこんなことを? 感謝される覚えはあっても、恨まれる覚えはないんだけど?」
くすくすと天音は笑った。
「べつに、恨みがあるわけじゃないわ。むしろ、お友達になりたいの」
その言葉に、顔が怒りで熱くなるのを感じる。
「は? 修を操って結衣香をさらって……俺の友達になりたい奴にする仕打ちとは思えないんだけど?」
ケイの怒りを目の前にしても、天音は平然としている。
「ねえ、あなたの能力を教えて」
天音の両端にいる男二人が一歩前に進み出た。
一人は茶色い髪を逆立て、シルバーリングのイヤリングをつけている。
もう一人は、黒い短髪にサングラス。その目は、どこか遠くを見ているような、どこか考え事をしているような、虚ろな目をしていた。
明らかに操られている。
「悪いな、こうしないといけない気がするんだ」
茶色い髪の男はポケットからナイフを取り出した。
サングラスの男は、そばにあった鉄パイプを手に取る。手の甲に、小さな穴が開いている。
「おい、やめろ!」
もちろん、二人がケイの言葉を聞くわけがない。
茶色い男のナイフが、空を切る小さな音がした。
「くそ!」
ケイは飛びのいた。
腕に火箸が押し付けられたような感覚が走る。
肘のあたりに赤い線が走った。そこからだらだらと血が垂れる。
その血がうっとうしいというように、ケイは腕を振り払う。飛び散った血が床にまだら模様をついた。
サングラスの男が、鉄パイプを振り上げる。
その先端が頭をとらえようとした瞬間、ケイの姿がかき消えた。
「なっ」
サングラスの男が左右を見回す。
その真後ろに、ケイの姿が現れる。
ケイは思い切りサングラス男を殴りつけた。
サングラスをふっとばし、男が床に倒れ込む。けたたましい音を立てて鉄パイプが転がった。
もう少しで頭をかち割られていたという恐怖で、ケイの呼吸は荒くなっていた。
その息のまま、天音を睨みつける。
「天音……お前、やっぱり人を操る力があるんだな」
「そうよ。私には吸血鬼の血が流れているの」
どこか得意げに天音が言った。
ケイの肘からぼたぼたと血がしたたった。ホコリっぽい空気にサビた鉄のような臭いが混じる。
茶髪の男が、またナイフを振り上げる。
耳の端で、天音の声が聞こえた。
「知っているでしょう? 吸血鬼の能力。血を吸った人物を操ることができる。棺桶から出てきた人間が、自分の血を吸った人間に仕えるって」
ケイは転がったままだった鉄パイプをつかみ、ナイフを受けた。金属的な音がして、ナイフがはじき飛ばされた。
飛び散っていたケイの血が、床をすべるナイフで刷毛(ハケ)で描かれた線のように引き延ばされていく。
茶髪の男は、奪われた得物に向かってかけだした。
ケイの姿がかき消え、ナイフの上に現れる。
ケイは血でぬめった鉄パイプを投げ捨て、足下にある銀色の刃を拾い上げた。
立ち上がりざま、正面に突っ込んでくる形になった茶髪の男の胸に、蹴りを食らわせる。げほっと胃の中をぶちまけて、茶髪の男は昏倒する。
男の手の甲についた、並んだ二つの小さい痕。
「なるほど。それから、血を吸ったわけか」
なにせ、天音の容姿だ。男女のじゃれ合いにみせかけ、手の甲や首に噛みつくことも簡単だろう。
そういえば、銀行強盗もバスジャック犯も全員が男で、結構整った顔をしていた。
「さて、残りはお前だけだな」
ケイは天音を見据えた。
「男を操って、罪を冒させて……一体、お前は何をしたかったんだ?」
この状態でも、天音は余裕な態度を崩していない。
「なにって……別に理由なんてないわよ」
ふふ、と天音は小さく笑った。魅力的な八重歯がのぞいている。
「だって、もったいないじゃない。能力があるのに、使わないなんて」
「そ、そんなことのために?」
呆れを通り越して怒りが湧いてくる。
「あなたも、分かるでしょう? 普通の人間が、不思議な能力を持っている者をどうあつかうか」
ふと、両親の顔が頭に浮かんだ。育ててはくれたが、つねにこっちの事に怯えていた両親。
「だから、少しいたずらしたいと思っちゃったのよ」
天音は、ゆっくりとポケットに手をつっこんだ。
そして引き出された手には銃が握られていた。
「……」
「それに、あなたに会ってみたかったの。だって、あなたは『吸血鬼』なんでしょう? 私と同じ。あなたは移動の能力が残っているみたいだけど、ネタは割れたわ。あなたがワープできるのは、自分の血のある所だけなのね」
(その通りだ)
ケイの能力は、煙になって窓や戸の隙間から入るといった便利な物ではない。入るには足掛かりとして血が必要なのだ。
バスジャックのときは、ペットボトルのラベルにちょっと血をつけておいた。そして、結衣香のスマホの人形には仕掛けがしてあった。一度ぬいぐるみを少しほどいて、その中に自分の血をつけて再び縫い直したものだ。
まあ、我ながら少し気味が悪いよな、とは思う。
天音は得意げに解説を続けた。
「さっき、あの男達の攻撃を避けたのもそう。床に散った血痕の痕に短いワープ――いや、距離が短いからリープというべきかしら――をしたってわけ」
「ご名答」
向けられた銃口から、虚ろな闇がのぞいていた。
ケイは、急いで視線をめぐらせた。
正面から少し右の所に、自分の血が垂れている。あそこに飛べば。
天音はふいに銃口をケイから外す。銃声が響いた。
撃たれたのは、やぐらに乗った貯水槽だった。
そこに何か仕掛けてでもあったのか、軽い爆発をともって貯水槽に穴が開く。あの小さめのタンクによくもこれだけ入っていた、と思うほどの水が、弧を描いてほとばしる。
「きゃああ!」
結衣香の悲鳴。かわいそうに、しばられているから逃げられず足がびしょぬれになってしまっただろう。
「くっ!」
流れた水が、床に着いた血を洗い流していく。
「これで、逃げる方法はなくなったわね」
天音は銃口をケイにむけた。
「チッ」
舌打ちをして、ケイは腕を振り上げる。
血が天井近くの壁に降りかかった。
銃声。
まるで重力がないように、ケイの足が壁を踏んだ。
「な!」
天音が驚いた声を聞いて、少し気が晴れた気がした。
まさか、血の跡さえあれば重力を無視してどこにでも立てるとは思ってもいなかったのだろう。
ケイのスニーカーが、壁を蹴る。
真上に落ちるようにして、ケイは結衣香に飛びついた。二人は床を転がっていった。
水が冷たくケイのパーカーにしみこんでいく。
天音を床に押し付ける形で、回転は止まった。
「グッ」
結衣香はノドを詰まらせたような声を出す。
「残念だったな」
切れた息の中から、声を絞り出す。。
「血さえついていれば、天井にだって立てるんだよ。重力無視でな」
ニィ、と天音の唇の片方が吊り上がる。
追い詰めているのはこっちのはずなのに、余裕たっぷりの様子が不気味で、恐怖を感じた。
「残念でした」
「え?」
どこからか、うなり声が湧きあがった。
機械の影から、黒いかたまりが飛び出す。それが何か見定めるより先に、足に激痛が走る。
ドーベルマンが足に食らいついている。
ちぎれそうな痛みに、ケイは悲鳴をあげた。
「私には、ボディーガードがついているの」
得意そうな天音の声がどこか遠くで聞こえた。
牙を突き立てられた皮膚から、ケイの血があふれだす。なんど空を蹴っても、食い込んだ牙は離れない。
天音は、銃を改めてケイに突きつけた。
「言う事を聞いてくれないなら、仕方ないわ」
指がかけられた引き金がカチャリと音を立てた。
痛みと恐怖でだらだらと脂汗がケイのこめかみを流れ落ちる。
「あ、でも、もっと面白いことを思いついた」
銃を構えたまま、天音はじりじりと後ずさる。その先には、結衣香の縛られた柱。
縛られたまま、おびえた表情をする結衣香の隣に立った。
「あんた、一体何を……」
天音はかまえた銃の反対側の手をポケットに入れ、ナイフを取り出すと、結衣香を縛る縄を切った。
さすが結衣香だけあって、銃を向けられている男に駆け寄るようなバカな行動はしなかった。出口にむかって逃げ出す。
彼女が反撃をしようとしてもロクなことにならない。逃げきり、助けでも呼んでくれた方がはるかにありがたい。
結衣香はそれをちゃんと分かっているのだ。
「あ……」
不意に結衣香がためらうような声をあげた。
全力で動いていた足が、急に速度を遅くした。最後には、完全に止まってしまった。
(なんで……!)
なんで立ち止まった? と思ったのはすぐ一瞬で、すぐに理由の見当がついた。
すでに天音は結衣香の血を吸っていたのだろう。
「私が、あなたの彼女に、私が何もしないと思う?」
(ですよねー!)
まるでゾンビのように、ふらふらと結衣香が近づいてきた。
ゆっくりと抱きつこうとしているように、ゆっくりと両腕をのばす。
相変らず、銃はケイを狙ったままだ。ここで変に動いて発砲され、結衣香に当たったら。
冷たい手が、ケイの首にからみついた。その指に力が入っていく。
「あ、あれ……」
(結衣香……)
向かい合う結衣香は、自分が何をしているのかわからない、というようにきょとんとしている。
あごの下にある巻き付く手は見えないが、おそらく小さな傷があるのだろう。
顔に血が溜まって熱くなる。喉が変な音を立てた。泣きそうな顔をしている結衣香の姿が、ゆらゆらとにじんでいる。
「う、く……」
結衣香の手が小刻みに震えているのが伝わってくる。
ケイを殺せという命令と、殺したくない、という感情が結衣香の中でせめぎ合っているのだ。
揺らめいている景色は、少しずつ白く染まっていく。そしてもう少しで真っ白になる時だった。
犬の吠え声が響く。
にじんだ視界の隅で、黒いモノがものすごい速さで横切った。
それは、もうぼんやりとした人影にしか見えない天音に飛び掛かった。
その勢いで銃が落ちたのだろう。小さいけれど重い物が落ちる音。
「きゃあ!」
さっきケイがしていたように、ドーベルマンが天音を押し倒した。
よだれが天音の首に垂れる。
「手……離させ……でないと……食い殺させ……」
苦しいながらも、きれぎれにケイは言った。
さすがに自分の飼い犬に喰い殺されるのはいやだったのだろう。
天音は結衣香の支配を解いたようだった。
首から結衣香の手が離れ、ケイは急に肺に流れ込んできた空気でむせかえる。
ぐたりと結衣香は床に座り込んだ。
ケイは視界の端でそれをとらえる。胸を押さえ、肩を上下しているところ、だいぶ驚いたようだが無事なようだ。
「なあ、世の中には、裏と表があるんだ」
まだ咳の残る声で、ケイは言った。
犬はまだ天音にのったまま、うなりごえをあげている。
「どうしたの? アキレス。私のことが分からないの?」
天音は困惑しているようだ。その声が震えていた。
荒い息をしながら、ケイは口を開いた。
「『開く』があったら『閉まる』がある。『明るい』があれば『暗い』がある。そうだろう?」
犬は、ちらちらとケイに目をむけている。今までの主人に襲い掛かる許しを待っているように。
天音は、視線で何を言っているのか聞いてくる。
「ねえ、不思議に思ったことはない? 『吸う』があれば『吐く』がある。なんて、『吸血鬼』がいて『吐血鬼』がいない?」
「え?」
全身で犬を抑えながら、面白いくらいに天音は目を見開いた。
犬は絶えずうめき声を漏らしている。
ケイは転がったままの銃を拾いあげる。
「ボクは吐血鬼なんだ。吸血鬼じゃなく。吸血鬼は血を吸った者を操るが、僕は、僕の血を飲んだ者を操ることができる」
「な……」
銃口を天音の額にむける。
「あんたの犬は、僕を噛んだ時に、僕の血を飲んだんだよ。さ、もう『年貢の納め時』って奴。観念して?」
天音は悔しそうに唇を噛み締めた。
ほんの少し、結衣香に視線をむけた。
今の状況が理解できない、というように、結衣香はただ呆然としていた。
(とうとう、結衣香に知られちゃったな)
なんで自分が今まで自分の能力を結衣香に隠していたのか、ようやくわかった。
結衣香が心配なのは間違いない。けれど、一番の理由はそれだけではなかった。
なんのことはない、嫌われるのが嫌だっただけだ。自分の正体が化け物だと知れたら。
ようやくたどり着いた本心が、そんな他愛もないことだったなんて。なんだか笑いたくなった。
ケイの視線に気づき、結衣香はかすかに微笑んだ。
そして、我に返ったように慌ただしくスマホを取り出す。
「そうだ、警察、警察呼ばなきゃ! よかった、ちょっと濡れたけど使えるみたい!」
あとは、このまま待てばいい。
気がぬけて、倒れそうになるのを、ケイは必死にこらえた。
目を開けると、辺りは薄暗い。
どうやらここは使われていない工場のようだ。
大きな円筒形のタンクがやぐらのような物に乗っていて、天井近くまで掲げられている。胴には『冷却水』と書いてあるから、中に入っているのは水だろう。
壁のそばに置かれた棚には、クモの巣とホコリがかかった道具や薬品が詰まっていた。
ベルトコンベアが大きな機械の中を通って続き部屋に伸びている。
足元に、結衣香のスマホがあった。
「ケイ!」
声の方を向くと、鉄製の柱に縛られた結衣香がいた。
「ケイ、どうしてここに。私の場所がどうしてわかったの?」
きょとんとしている結衣香は意外と元気そうで、まずはほっとした。
「待っていたわ、ケイさん」
立っていたのは、黒髪の美女だった。両端に、若い男二人を従えているのが、劇かドラマのようで、どこか滑稽(こっけい)に見える。
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(確か、結衣香は電話で天音とか言ってたか。たしか、どこかで見たことあるような……でもどこで?)
必死で記憶をたどって、ようやく思い出した。
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睨みつけるケイの視線にひるまず、女性は笑みをうかべた表情を動かさない。
ケイは続ける。
「けど、どうしてあんたがこんなことを? 感謝される覚えはあっても、恨まれる覚えはないんだけど?」
くすくすと天音は笑った。
「べつに、恨みがあるわけじゃないわ。むしろ、お友達になりたいの」
その言葉に、顔が怒りで熱くなるのを感じる。
「は? 修を操って結衣香をさらって……俺の友達になりたい奴にする仕打ちとは思えないんだけど?」
ケイの怒りを目の前にしても、天音は平然としている。
「ねえ、あなたの能力を教えて」
天音の両端にいる男二人が一歩前に進み出た。
一人は茶色い髪を逆立て、シルバーリングのイヤリングをつけている。
もう一人は、黒い短髪にサングラス。その目は、どこか遠くを見ているような、どこか考え事をしているような、虚ろな目をしていた。
明らかに操られている。
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「おい、やめろ!」
もちろん、二人がケイの言葉を聞くわけがない。
茶色い男のナイフが、空を切る小さな音がした。
「くそ!」
ケイは飛びのいた。
腕に火箸が押し付けられたような感覚が走る。
肘のあたりに赤い線が走った。そこからだらだらと血が垂れる。
その血がうっとうしいというように、ケイは腕を振り払う。飛び散った血が床にまだら模様をついた。
サングラスの男が、鉄パイプを振り上げる。
その先端が頭をとらえようとした瞬間、ケイの姿がかき消えた。
「なっ」
サングラスの男が左右を見回す。
その真後ろに、ケイの姿が現れる。
ケイは思い切りサングラス男を殴りつけた。
サングラスをふっとばし、男が床に倒れ込む。けたたましい音を立てて鉄パイプが転がった。
もう少しで頭をかち割られていたという恐怖で、ケイの呼吸は荒くなっていた。
その息のまま、天音を睨みつける。
「天音……お前、やっぱり人を操る力があるんだな」
「そうよ。私には吸血鬼の血が流れているの」
どこか得意げに天音が言った。
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「知っているでしょう? 吸血鬼の能力。血を吸った人物を操ることができる。棺桶から出てきた人間が、自分の血を吸った人間に仕えるって」
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飛び散っていたケイの血が、床をすべるナイフで刷毛(ハケ)で描かれた線のように引き延ばされていく。
茶髪の男は、奪われた得物に向かってかけだした。
ケイの姿がかき消え、ナイフの上に現れる。
ケイは血でぬめった鉄パイプを投げ捨て、足下にある銀色の刃を拾い上げた。
立ち上がりざま、正面に突っ込んでくる形になった茶髪の男の胸に、蹴りを食らわせる。げほっと胃の中をぶちまけて、茶髪の男は昏倒する。
男の手の甲についた、並んだ二つの小さい痕。
「なるほど。それから、血を吸ったわけか」
なにせ、天音の容姿だ。男女のじゃれ合いにみせかけ、手の甲や首に噛みつくことも簡単だろう。
そういえば、銀行強盗もバスジャック犯も全員が男で、結構整った顔をしていた。
「さて、残りはお前だけだな」
ケイは天音を見据えた。
「男を操って、罪を冒させて……一体、お前は何をしたかったんだ?」
この状態でも、天音は余裕な態度を崩していない。
「なにって……別に理由なんてないわよ」
ふふ、と天音は小さく笑った。魅力的な八重歯がのぞいている。
「だって、もったいないじゃない。能力があるのに、使わないなんて」
「そ、そんなことのために?」
呆れを通り越して怒りが湧いてくる。
「あなたも、分かるでしょう? 普通の人間が、不思議な能力を持っている者をどうあつかうか」
ふと、両親の顔が頭に浮かんだ。育ててはくれたが、つねにこっちの事に怯えていた両親。
「だから、少しいたずらしたいと思っちゃったのよ」
天音は、ゆっくりとポケットに手をつっこんだ。
そして引き出された手には銃が握られていた。
「……」
「それに、あなたに会ってみたかったの。だって、あなたは『吸血鬼』なんでしょう? 私と同じ。あなたは移動の能力が残っているみたいだけど、ネタは割れたわ。あなたがワープできるのは、自分の血のある所だけなのね」
(その通りだ)
ケイの能力は、煙になって窓や戸の隙間から入るといった便利な物ではない。入るには足掛かりとして血が必要なのだ。
バスジャックのときは、ペットボトルのラベルにちょっと血をつけておいた。そして、結衣香のスマホの人形には仕掛けがしてあった。一度ぬいぐるみを少しほどいて、その中に自分の血をつけて再び縫い直したものだ。
まあ、我ながら少し気味が悪いよな、とは思う。
天音は得意げに解説を続けた。
「さっき、あの男達の攻撃を避けたのもそう。床に散った血痕の痕に短いワープ――いや、距離が短いからリープというべきかしら――をしたってわけ」
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向けられた銃口から、虚ろな闇がのぞいていた。
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「くっ!」
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「チッ」
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犬は、ちらちらとケイに目をむけている。今までの主人に襲い掛かる許しを待っているように。
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「え?」
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ほんの少し、結衣香に視線をむけた。
今の状況が理解できない、というように、結衣香はただ呆然としていた。
(とうとう、結衣香に知られちゃったな)
なんで自分が今まで自分の能力を結衣香に隠していたのか、ようやくわかった。
結衣香が心配なのは間違いない。けれど、一番の理由はそれだけではなかった。
なんのことはない、嫌われるのが嫌だっただけだ。自分の正体が化け物だと知れたら。
ようやくたどり着いた本心が、そんな他愛もないことだったなんて。なんだか笑いたくなった。
ケイの視線に気づき、結衣香はかすかに微笑んだ。
そして、我に返ったように慌ただしくスマホを取り出す。
「そうだ、警察、警察呼ばなきゃ! よかった、ちょっと濡れたけど使えるみたい!」
あとは、このまま待てばいい。
気がぬけて、倒れそうになるのを、ケイは必死にこらえた。
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一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。
そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!
寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。
――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです
そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。
大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。
相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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主人公は男の娘です 基本主人公が自分を表す時は「私」と表現します
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