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五十三、論理くん、お母さんと頂上対決する

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冬休みの予定も決まって、そろそろ帰ろうかというとき、お店の電話が鳴った。優衣のお母さんが出る。会話をしながら、何かすごく困った顔をしている。幾度かのやりとりがあって、お母さんは電話を切った。そして、困惑を隠さない顔をして、私たちのほうへ来た。
「お母さんどうしたの?変な電話?」
「いやあ、いきなり困ったよ。論理くんのお母さんから」
「えーっ!」
一同みんな驚きの声を上げる。論理のお母さん⁉︎一体なに?どうして優衣のところに?
「一体、母が何を…」
論理が不安げに優衣のお母さんに聞いた。
「それがね、今日の夕方から、みんなを招いて、論理くんと文香ちゃんとの間柄を公式に認めて御披露目するクリスマスパーティーをやるから来てくださいって言うんだよ」
え?あの論理のお母さんが私たちを認める?どういう風の吹き回し?なんだか裏がありそうだけど…。
「えー?あのクソババアがなに言ってるの?それに私たち、今日の夜はそれぞれもう予定が入ってるんだよ。それを今更」
優衣が、不快感を隠さずに言う。
「うん。今日の夜は論理と二人で過ごす予定なのに…どうしよう、論理」
「ただのクリスマスパーティーだったら無条件で撥ね付けるんだが、お披露目とかなんとかぬかしているのが気になる」
「なんでもね、文香ちゃんところに電話しても誰も出なかったから、うちに電話したらしい。あと、義久くんのところにも、坂口くんのところにももう電話して了解をとったらしいよ」
「うちにもですか?」
秀馬くんが首を傾げる。
「俺、ちょっとお袋に電話してみる」
沢田くんはスマホを取り出して、家に電話をかけた。やっぱり、論理のお母さんから電話があったらしい。秀馬くんも同じように電話をして、同じような話だった。
「まったくおかしなことをやる。同じように招待するのなら、まず俺たちに直接話をしてもおかしくないだろう。それを、まず親に電話して、俺たちの身動きが取れないようにするとは。実にやつらしいというか…」
論理が腕組みをして、口をへの字に曲げる。
「何か企んでるのかな…論理のお母さんが私たちを認めるなんて、有り得ない話だよね…。それとも、気が変わったとか?」
もし本当に私たちを認めるパーティーをするんだったら、そりゃあ行かなくちゃいけないけど…。
「難しい人だから、いろんな場合が考えられるだろうな。…それで、みんなは行くのか?今夜はいろいろと予定があって、お前たちも楽しみにしていたんじゃないのか?」
秀馬くんがそう聞くと、優衣と沢田くんは顔を見合わせた。
「そりゃあ、今夜は優衣の家で楽しく過ごしたいさ、なあ」
「うん。でも、ぶんちゃんたちの一大事だから、論理ん家に行った方がいいのかな…」
優衣と沢田くんは困っていた。論理も膨れっ面をする。
「俺も、南志賀通りのイルミ、めちゃくちゃ見たいぞ、なぁ文香」
「でもさぁ論理、パーティーの名目が名目だから、出ないわけにはいかないと思う…。イルミは、明日見てもいいと思うよ?」
私たち五人は、しばらく黙って考え込んでいた。でも、とうとう論理が口を開く。
「よし、それならみんな行こう。あの白豚のことだ、どんな酷いことがあるかわからないが、俺たち二人は何があっても引き離されない。それをはっきりさせて、臨もうと思う」
論理は、毅然と言い張った。論理の目の奥には、お母さんの影が揺れていた。

私たちは優衣の家を出て、論理の家に向かった。しばらく行ったところで、背後からクラクションが鳴る。見れば、お母さんだった。お父さんも助手席に乗っている。
「みんなこんにちは。こんな大勢でどこ行くの?」
「それが…」
私は、経緯をお母さんとお父さんに話した。
「なんだって?」
お父さんが、あんぐりと口を開ける。
「それね、お姉ちゃん。絶対何かあるから」
お母さんは、確信を持って言った。
「何かあるとは思うけど、行かなくちゃいけない気がする」
「それもそうよね。よし、わかった。そのパーティー、お父さんとお母さんも行くわ。あのお母さんが、あなたたちに何をやるか大いに気になるからね。じゃあ、先に論理くん家に行ってるわ」
お母さんはそう言い残して車を出した。

二十四日の夕方。思わぬことで来ることになった論理の家。暮れなずむ夕闇の中にたたずむ姿は、いつ見てもおどろおどろしい。私にとってこの家は、地上の地獄だ。今日は一体、この建物の中で何があるというのだろう。家の脇にある駐車場を見ると、お母さんの車がある。お母さん、この中にいて大丈夫かな…。あのときのドロップキックが思い出される。
「じゃあ行くぞ」
論理がそう言って、玄関の扉を開ける。
「おほほほほほほ!」
この笑い声、誰?
「池田さん、優れたお家を営んでいらっしゃいますわ。私どもも参考にさせていただきませんと」
「はあ…?」
論理が顔を顰める。
「母親だ」
私たちは顔を見合わせた。そして、意せずして静々と、論理のお母さんがいる部屋の前まで行く。そこは、すでにきれいに飾り付けられ、食器が並べられている。
「こんにちは…」
私は、身を小さくして挨拶をした。すると論理のお母さんは、私の方を向き直り、なんと、笑顔を見せた。この人、こういう顔もするんだ。
「あらあ、文香さんじゃないの。今夜はよく来てくれてありがとう。文香さんと論理には、大切な夜になるから、ゆっくり過ごしていってね」
え?いきなりなに言ってるの?こんな論理のお母さん、私の知ってる人じゃない。論理のお母さんはニコニコしている。でも、その笑顔は、トランプのジョーカーに書かれているピエロのように見えた。
「お母さん、支度ができるまで俺たち、俺の部屋にいてもいいか?」
論理のお母さんは、猫なで声を出した。
「いいわよ、支度ができたら呼ぶからね。…あらあ、優衣さん、その節はどうも。お元気にしていらした?」
「………はい」
優衣が気味悪そうに答えた。そして私たちは、論理に導かれて二階の論理の部屋に入った。
「ちょっと、なに?なにあれ、別人?」
「そうだね、優衣…私もさすがに薄気味悪いよ。一体何があったっていうの?」
優衣と私は手を握り合って気持ち悪がる。なんだか鳥肌が立ってしまった。
「何か企んでいるのは間違いない。やつがこういう態度をとることは今までもよくあったが、大抵、俺には不利な事柄を意地になって通そうとしていることが多かった」
論理はそう言って腕を組む。
「ということは、やっぱり何か悪巧みをしてるってことなのか?」
心配げな沢田くん。
「多分そうだろうな。どういう悪巧みかは蓋を開けなければわからないが、俺と文香との交際にずっと反対してきたやつのことだから、今ここで手のひらをひっくり返したように俺たちを認めるということは、あまり考えにくい」
ああ、せっかくのクリスマスなのに、最悪のイブになりそうな予感…。
「文香、意志を強く持っていかなきゃ駄目だぞ。あの母親がどんな悪巧みをしても、ここにいるみんなは全員、文香たちのことを応援してるんだからな。気を強く持って臨め」
秀馬くんが応援してくれる。みんなが、私を心強く見つめてくれる。どんなことがあっても、私にはみんながいるんだ。私は、少し勇気が湧いてきた。
「ありがとう、秀馬くん、みんな。私たちがんばるね」

それからしばらくして、論理のお父さんが私たちを呼びにきてくれた。一階に降りると、お料理も机の上に出されていて、食べるばかりになっている。
「さあさあ、うちの絵美が腕によりをかけて作ったお料理ですよ。みなさん食べてやってください」
相変わらず猫なで声の論理のお母さんに促されて、私たちは順に席に着いた。論理のお父さんは、どことなく沈んだ顔。お姉さんは、口笛でも吹きそうなくらいわくわくした顔。その二人の顔がどんな意味を持つのか、私は考えていた。
「それじゃあ、みんないいですか?メリークリスマス!」
論理のお母さんの明るさが一人だけ浮いている。とにもかくにも、論理のお母さんに続いて私たちは料理に手をつけた。料理は、サラダと、春雨と海老を和えて炒めたものと、ピラフが盛ってあった。一口食べてみる。失礼だけどあまりおいしいとは言えなかったし、料理がおいしくなる雰囲気でもなかった。周りを見渡してみると、みんな同じのようで、明るい表情で食べている人は、論理のお母さんとお姉さんを除いて一人もいなかった。
「それで…」
優衣が、このお通夜のような雰囲気を破る口火を切った。
「お母様は、ぶんちゃんと論理の交際を認めてくれるんですか?」
「そうですよ」
論理のお母さんが、ニタっと笑って答える。その言葉の中には、不自然に大きなイントネーションがあって、とても素直に信じる気にはなれない。
「うちでもね、文香さんとのことに関しては、論理といろいろあったんです。その中で、そうですね…論理の、青春のパワーを感じまして、そのパワーは、何をさておいても親として大事にしてやりたい、と思ったんです」
その言葉を聞いて、私のお母さんが思わず吹き出した。
「でも太田さん、随分論理くんたちのことについては、反対しておいででしたよね。我が家にもお越しいただいたこともありましたし」
「池田さん、その節はご無礼を致しました。私も論理によく似ていて、一つのことに夢中になると、他のことが見えなくなってしまうものですから。平にお許しいただきたいものですわ」
あんなに謝ったら負けだって言ってた論理のお母さんが謝るなんて…ほんとに一体どうしちゃったんだろう…。人の心の中がわからないのって、こんなに怖いものだったの?地面から無数の幽霊の手が出てきて、私の体をまさぐる感覚。おかげで食事が喉を通らない。
「…ど、どうして、私たちの交際を認めてくれる気になったんですか?」
私は、今にも食事を吐きだしそうだったけれど、それをごくりと飲み込んで、恐る恐る聞く。
「そうですね文香さん、今までいろいろありましたけど、うちの論理が一つのことにここまでしがみつくということはなかったんです。その、ド性…いえ、性根を認めてあげたいという気持ちになったんです。それも親として、当然のことじゃありませんか」
論理のお母さんは、相変わらず笑っている。今にもその顔の皮膚が剥がれて、化け物が現れそうだ。
「お母さん、これまでの話、信じていいか?」
論理が重々しく問うと、論理のお母さんは、相変わらずの顔つきと声で答える。
「いいわよ。お母さん、あなたたちには負けたの。もうあなたたちは一人前よ」
でも、そう言われた論理の顔は、ピクリとも動かなかった。ここにいる人たちの中で、論理のお母さんの言うことを信じる人が一人でもいるだろうか。いや、いない。こうした重々しい雰囲気の中での夕食が、どれぐらい続いただろう。ふいに、お姉さんが声を上げた。
「さあさあ、みなさん、十分夢は見たかしら?茶番はこれくらいで終わり。これから本題に入るわよ」
「なんだと⁉︎」
論理が叫ぶ。その前で、お姉さんが楽しくてしかたがないというように言葉を継いだ。
「論理と文香ちゃんの間を認めるなんていう餌をやらないと、みんなこうして釣り上がってこないからね。おかげで、重大発表をやるには好都合な席ができたわ」
「やっぱり何か企んでいやがったな!」
論理は、両手の拳を握りしめた。
「さあ、お母さん、言ってあげなさい」
お姉さんの言葉を受けて、論理のお母さんが、残酷に笑う。
「結論から言う。今夜、この日を限りにして、論理には、私たち家族以外のここにいるすべての人との縁を切らせる。あなたたちは、論理のためにならない。もし論理がこれに反しようとするなら、論理はもう、この家の人間とは認められない。戸籍も家とは切り離します。それでもいいのなら、文香さんと付き合いなさい」
論理のお母さんのその言葉には、最後通牒を突きつけたものの自信が満ちていた。勝ったと思ったのだろう。やっぱり、私たちは騙された。まあ、騙されると思ってたけれど。でも、一縷の望みは、あったんだけどな。
「太田さん、あなた、やっぱり相変わらずね。そんなことで子どもを離縁するなんて、私たちの常識では考えられません」
私のお母さんが、腹立ちを隠さずにそう言うけれど、論理のお母さんは、傲然とそれを跳ね除ける。
「お前たちの常識なぞ関係ない。よく聞くがいい。私は常に正しいんだ!」
「その正しい人間のやることがこれか」
論理はそう言って、呼吸も荒くよろよろと立ち上がった。その全身の毛穴から激しく怒りが吹き出している。
「俺の大切な人たちを集めて、くだらない茶番をやって、下手くそなどんでん返しをしてみせる。恥ずかしいとは思わないのか。貴様なんか…貴様なんか…俺の親じゃなければよかった‼︎」
論理は、突然目の前のお皿ごと料理をつかむと、目の前のお母さんに向かって投げつけた。料理は、お母さんの顔に命中し、お母さんは、ピラフだらけになった。
「論理‼︎お前は!お前はこの期に及んで‼︎」
「この期に及んでとはお前のことだ!いいか、お前がどんな強い力を振るっても、俺の心の中まで変えることは絶対にできない。俺は、一人の独立した人間だ。お前の言うことなんか聞かなくても、人間として生きていくんだ!ぅわかったくわぁっっ‼︎」
論理は、魂の限り吠えた。どうして論理のお母さんはこんな人なんだろう。どうして論理とお母さんは分かり合えないんだろう。どうして論理はこんなつらい思いをしなくちゃいけないんだろう。どうして私は何もできないんだろう。どうして、どうして、どうして…。頭の中が『どうして』で埋まっていく。でもそんな私の『どうして』を、論理のお母さんの言葉が打ち砕く。
「随分威勢のいいことだけどね、論理、あんた私がいなくて何ができるの。何もできないでしょ。大人しく私の言うことをすべて聞いていなさい。私は常に正しいんだから!あなたは私の所有物でいい。独立した人間?十万年早い。あなたは私の所有物でいいんだっ‼︎ぅわかったくぁっっ‼︎」
吠え声には吠え声で返すお母さん。ああ、もう、これはどうしようもない。そのとき。
「お話を伺っていますと」
と、優衣が口元に薄笑いを浮かべながら、論理くんのお母さんを見た。
「お母さんは、いわゆる一つの、独占花子さんというわけでしょうか?」
「なんですって⁉︎」
気色ばむお母さんの前で、沢田くんがいきなり「ちゃらっちゃっちゃっちゃちゃっ♪」と、聞いたことのある懐かしいイントロを口ずさむ。すると優衣は、やにわに立ち上がり、お母さんを、変にくねくねした手で指差し、
「『あんた、論理のなんなのさ』」
沢田くんが、「じゃんっ♪」。そして優衣が声を張り上げる。
「♪港のろーんりろりろりろーんりーーっ!」
呆気に取られる私とみんなの前で、沢田くんはなおも「じゃらじゃらっちゃっちゃ、じゃらじゃらっちゃっちゃ♪」と伴奏。それに合わせて優衣が語りだす。
「『半年まえに付き合ったやつらさ。
母親のあたしにゃあ挨拶なしさ。
あたしの人形を取ったからさぁ、そりゃもう大騒ぎ。
身障者だなんて言っちゃあいられやしないよ……』」
もう一度沢田くんの「♪ちゃらっちゃっちゃっちゃちゃっ!」。優衣が、またお母さんに指を突きつける。
「『あんた、論理のなんなのさ』」
「やかましいっ‼︎ 小娘っ‼︎黙っていればいい気になって‼︎」
怒髪天を突くなんて言葉通りに、お母さんは、髪を逆立てそうな怒りを優衣に向けた。
「向坂、あんたここまで私を弄んで、ただで済むと思うなよっ‼︎二度と学校に行けないようにしてやる」
優衣は、顎先を上げてお母さんに接した。
「あらあら、お母さん、中学は義務教育ですよ。私たちは学校に行く権利があるんです。リウマチって、頭の中までおかしくなるんですか?」
思わずお姉さんが大笑いした。優衣…上手い…。優衣に一本取られたお母さんは、もう何も言えず、ものすごい息をしている。
「それでお母さん、お母さんは論理のなんなんです?」
優衣に聞かれ、お母さんは荒い息をつきながら答える。
「何って?母親に決まってるじゃないか!ふざけたことをお言いでないよ」
「いやぁ、それは違いますね」
優衣が、右手の人差し指を、唇の前にかざしながら、ちっちっちっと舌打ちをして見せた。
「私が訂正して差し上げます。お母さんは論理の人形使いですよ」
「なんだとっ!」
「聞こえませんでしたか。リウマチって耳にも来るんですね。もう一度言います。に・ん・ぎ・ょ・う・つ・か・い!おわかりですかぁー?」
人形使いと呼ばれた論理のお母さんは、目を赤く充血させて、ただ優衣を睨んでいた。その場にいる人は誰も、何も言わない。親友の優衣だけど、私も嫌いなお母さんだけど、これはちょっと酷い。どうして、みんな、何も言わないの?どうして、お母さんがここまで侮辱されているのに、論理も、お父さんも、お姉さんも、何もしてあげないの?お姉さん、さっき大笑いしたよね。私は、息を上げているお母さんを見て、なんだか、すごく悲しくなった。
「あらぁー、お言葉まで失われましたかぁー、リウマチって──」
「もうやめて優衣っ!」
私は叫んだ。涙が溢れてくる。
「どうして…どうして優衣も、みんなも、そうなんですか!誰も、お互いに仲良くしようとは思わないんですか!お互いに歩み寄れば、解決する問題だってあると思います‼︎」
「黙れっ‼︎小賢しいっ!あんたのようなバカ娘が説教垂れようなど、十万年早いわっ!」
お母さんが、叫ぶ。私の思いは誰にも通じない。
「文香、将来論理の妻になるのなら、この人が姑になるんだぞ。こんな人が姑とは、文香がかわいそうすぎる。やっぱり俺と結婚しよう」
えっ…こんな所で秀馬くんにプロポーズされちゃった…確かに論理のお母さんが姑になるのは怖いけど、でも…。
「秀馬くん、ありがとう、でも私は、論理と結婚したい…」
私は、涙を拭きながらつぶやく。論理は、私の肩を優しく抱いてくれる。
「やめなさい論理‼︎論理と結婚する人は私が決める!あんたなんかには絶対に論理をくれてやらないからね!」
お母さんが血眼になって私を睨みながら、そう叫ぶ。そんなぁ…でも、私には、論理と結婚するっていう絶対の意志がここにあるんだ!絶対にお母さんに認めてもらうんだから!
「そうか……それでも文香が論理を選ぶのなら、俺は応援しよう」
そして、秀馬くんは、お母さんに向き直り、一言。
「お母様、貴方は才能に長けていると思う。息子を不幸にするという才能がな」
「なにぃ‼︎知ったような口を聞いて!あんたに私の何がわかる!」
そしてお母さんは、スイッチを切り替えたように表情を変え、泣きそうな調子で論理に言った。
「論理……。今、お母さんの両肩には、凄まじい辱めがのしかかっているの。論理、お母さんを助けてくれるわね」
「………………」
論理は、長い沈黙のあと、こう言った。
「俺は、辱められているあなたが悲しい。それだけだ」
「論理くん!お母さんはいじめられてるのよ」
そう言ってすがるお母さん。
「辱められたり、いじめられる理由があるからだろ」
論理は、冷たく言い放つ。お母さんは、しばらくポカンと口を開けていた。その顔が、論理以上に、虐待されている子どものように見えて、私はまた悲しかった。そしてやがてお母さんの顔に、般若の面のような、ものすごい憎しみが浮かぶ。
「わかったわ」
今までのどれよりも、恐ろしい迫力のある声。
「それならお母さん、ここで死ぬから‼︎」
それは!と、私のお母さんとお父さんが膝を乗り出す。でもそれを論理は、片手を軽く上げて制した。
「今までリウマチを背負って必死に生きて、懸命に論理を育てて、その結果がこの辱めだと言うのなら、もう私はこの世にいたくない!」
お母さんはそう叫んで、傍らの手文庫を開けると、千枚通しを取り出した。そしてそれを喉元に突き立てる。
「太田さん!」
叫んで助けようとする私のお母さんに、論理くんは再び手を上げる。
「お母様、いいんです。動かないでください」
「いいんですだってっ!」
お母さんが、怒鳴り尽くして枯れた声で言う。
「論理くん、お母さん死ぬよ。もうお母さんいいの、論理くんにも、そこにいるバカどもにも、私の気持ちなんてわからないでしょう⁉︎だから死ぬよっ!」
論理は何も言わない。動かない。誰も動かさない。お母さんの千枚通しは、喉の皮膚を突き通して、血が滴ってきている。それでも論理は動かない。何も言わない。ただ、悲しげな目で、お母さんを見つめるだけ。お父さんとお姉さんが、そんな論理を、じっと見つめている。お母さんの気持ち…私は、そんなお母さんの気持ちを、わかってあげたい。少しでも、お母さんが、私に心を開いてくれれば、お母さんの苦悩やつらさを、私に話してくれれば、私も、お母さんの傍に寄り添うことができたのに…でも、それも同情なのかな。お母さん、他に相談できる人とか、いるのかな…いるなら、いいんだけど、もう、こんなことにまでなっちゃったら…お母さん…この上もなくつらいだろうな…。でも、それより何よりつらいのは…。
「くっ…論理くん、お母さん死ぬよ、いいの?お母さん死んじゃうよ?」
お母さんは、痛みを堪える表情で、なおも論理に縋る。リウマチで痛むはずの両手に力をこめ、千枚通しをさらに突き立てる。新しい血が、また滲んできた。論理は、それでも何も言わない。悲しげな表情は、動かない。論理、本当にお母さん死んじゃうよ?まさか、死んじゃっても、何も言わないの?でも、論理、実のお母さんが目の前で死のうとするところを目の前で見せられて、論理、今、どんな気持ちなんだろう…私だったら、泣き叫ぶのに、論理は、そんな顔をして、ただ黙っている。論理…。論理のつらさを、私はどうわかってあげればいいの?どうして、この人たちには、つらい選択肢しか、ないんだろう。
「論理…っ、お母さんを……っ、助けて…っ」
お母さんが、そう声を絞り出し、また力をこめようとしたとき、千枚通しが、畳に…落ちた。
「う…、う、ううっ…うわあああああああああっっ‼︎」
死に切れなかったお母さん。緊張の糸が切れたのだろう、熱湯をかぶった幼児のように泣き叫び始めた。リウマチの両手は、顔を覆うことさえできない。そして論理は、徹底して無言、無表情で、その様子を最後まで見つめ続けていた。論理は、迷路の中にいるように見えた。真っ暗闇で何も見えない、出口のない迷路。それが、この家だ。論理は、ただ歩き続ける。靴が擦り切れて、足の裏が痛くなっても、歩き続ける。そのうち論理は、疲れ果てて、死んでしまうだろう。そんな恐怖から逃れるように、私は、思わず論理から目を背けた。

午後九時。水銀の海に覆われたような重苦しさから逃れようと、私たちは帰途についた。いつものように、論理のお父さんが穏やかに見送ってくれたのだけが救いだった。家の前でみんなと別れて、論理と私は、朝にいつも待ち合わせをする公園に向かった。夜遅く、寒さも厳しい公園で、二人ブランコを漕ぐ。かつて、こうしてブランコを漕ぎながら論理が泣いたのを覚えている。でも今夜の論理は、淡々とした穏やかな表情でブランコの上にいる。
「ねえ、論理…泣かないの?」
私は、ブランコを漕ぐ足を止めて、ボソッと言った。すると論理も、ブランコを漕ぐ足を止めた。
「もう、あの白豚に対して、やることは全部やった。戸籍がどうこうと言っていたが、あの千枚通しを無視することで、戸籍以上の絆が切れたと思う。多分、これで俺は、自由になれただろうな。だから、泣く必要なんかない」
論理は泣かないみたいだけれど、その代わりに、私の目に涙が浮かんできた。親子の絆が切れて、平気でいられる論理が、私にはわからない。論理は、きっと悲しいはずなのに、それもわからなくなってる。どうにもできないことが漠然と私にのしかかって、心が潰れそう。
「そっか…じゃあ、私が論理の分まで泣くね…。ひっく、ひいいっく…ええええ…ええん…」
私は、泣くことしかできない。ごめんね、論理…。そんな私の「えええん」をバックに、論理が静かに語る。
「やつは、俺がいうことを聞かないと、よくああいう真似をしたもんだ。温泉に行ってもう帰ってこないと言ってみたり、車椅子に乗ってどこか遠いところへ行くと言ってみたり。そんなことをされるたび、俺は怖くて悲しくて泣き叫んだものだ。だけどそのうち俺は気付いた。やつは、俺がやつを必要としていることを必要としている。だから、事あるごとに俺がやつをどれだけ必要としているか確かめようとせずにはいられないのだろう。そんな性根の曲がった人間に、押し潰されてはたまらない」
相変わらずの、論理の淡々とした穏やかな口調。とても、十数分前に実のお母さんが自殺しようとした人には思えない。空っ風が私の体に突き刺さる。寒い。でも、目から溢れる涙は温かいのが、おかしかった。
「ひっく…うう…そっか…、す、すはあああっ、ううう…寒い…」
論理は、黙って立ち上がり、私の後ろに立つと、学ランの両腕を、私のセーラーの胸に回して抱きしめてくれた。私も、両腕を論理の腕に添える。
「文香、こんなのおかしいよな。俺は、やつに依存していた。やつもまた、やつに依存する俺に依存していた。お互いがお互いに依存しあってるわけだ。秀馬と佐伯を見てもわかるが、どちらか片一方が依存するだけでも不自然な関係なのに、お互いがお互いに依存するなんて、あり得る話じゃない。こんな関係は、いずれ断ち切らなければいけない関係なんだ」
「うっ…うう…じゃあ、それを…すはあああっ、直せばいいだけの話じゃん…別に…すはあああっ、全部切らなくたって…ひっく…いいじゃん…」
論理は、ふぅ、と、ため息をついて、改めて私を抱く腕に力を込めた。
「やつはね、ああいう体になったことで、誰かに依存しないと生きていけない身になったんだよ。自立した人間になると言ったって、自分の手足すら自分でまともに動かせない人間に、何ができる」
「でも、でも…悲しすぎるよぉ…っ‼︎す、すはあああっ‼︎ええええええ…ええええんっ‼︎すはっ、すはああああっ‼︎ええええええええええんっ‼︎」
冬の切るような寒さの中に「すはあああっ」と私独特のブレス音を響かせて、私は一層号泣した。息を激しく吸い込むたび大きくふくらむ私の背中に、論理は(こんなときも私の呼吸に萌えてくれる?)両手をそっと当ててくれる。
「確かに悲しい。文香の家や、向坂さんの家や、沢田の家や、秀馬の家を見ると、どうして俺の家はと思わざるをえない。だけど、文香の家の人たちは俺のことを認めてくれて、家族同然に扱ってくれる。俺にとって文香の家は、第二の、いや、第一の、家だ。だから救われている。例え俺の家がどうなろうと、文香の家が俺を待っていてくれるから、俺は生きていけるんだ。ありがとう文香」
論理は、再び私の胸を抱いて、固く抱きしめてくれた。それは温かくて、さらに泣けてきた。
「寒いし、そろそろ帰ろう。立てるか?」
今日はクリスマスイブなのに…こんなの嫌だよぉ…。私は振り向いて論理を見た。
「うっく…明日は、二人でクリスマス…ひ、ひいいっ、できる…よね?」
「もちろんだ。今日は魔物にやられてぶち壊しになったからな。一晩遅れるが、明日の夜、イルミを見に行こう」
「じゃあ、明日…お昼に…私の、ひいいっ、家…来てくれる?」
「わかった。お邪魔する。それじゃあ、ここではもう冷えてしまうから、早く帰ろう。家まで送るよ」
「ううっ…ひいいっく…」
泣きじゃくりながら私は、論理の体に身を委ねた。冷たい空っ風が私たちの背後から吹いてくる。私の短いおかっぱの、剃ったばかりのうなじが冷たい。お互いに温め合いながら、私たちは夜更けの街を歩いて行った。
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