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八十三、愛してるよ、大好きだよ、ずっと一緒だよ

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十二月二十四日、朝十時。俺はベッドで目を覚ます。今日は後期最後の日だ。明日からは冬休み。年明けからは後期試験で、その後二月、三月は長い春休みだ。大学って、半年授業で半年休みなんだよな。高校とは大違いだ。いいんだろうかこれで。
前日、「ブラックハウス美容室」で耳の穴おかっぱを揃えてもらってきた。今朝も念入りに髭と襟足を剃り、すべすべにして、歯磨き洗顔、そしてヘアブロー。シャンプーもする。毎度洗いにくいけど、今日は授業後、文香と二人きりでイヴを過ごすんだ。カンペキな俺で行きたい。切りたて耳の穴おかっぱのカットラインを、いつも以上にしっかりと形作る。これなら文香の前でも恥ずかしくない、というほどに精確にできたラインを合わせ鏡で確認する。いつものように後ろ上がりに少し湾曲し、その下に逆富士山型の剃り跡が広がる。サイドは耳の穴の上、前髪も眉上四センチで寸分のギザつきもない。寿美さんさすがだな。よし、かわいい。そして俺はクリーニングから戻ってきたばかりの紫セーラーを着る。鞄を手に、外に出た。今日も穏やかな冬晴れ。風も無い。日差しもあって、小春の名が似合う日になっていた。

今日の授業は、午後一時からの「英会話」、午後二時四十分からの「国文学概論」の二つ。どちらも文香と一緒だ。エレベーターで五階に上がり、英会話の教室に入る。
「あ、ちゃまー」
柔らかくて落ち着いたいつもの少年声が俺を迎えてくれる。文香が立ち上がって俺を見つめている。今日は六月一日に着ていた赤白ドレッシーワンピ姿。これも、黄土色花柄セーラーワンピと同じくらいお気に入りだという。
「あれ…?」
ふと気づく。文香、髪…。
「文香、ひょっとして髪、短くなってない、かなり?」
「えへへぇ」
ニヤニヤ笑いながら、身体をくねらせる文香。握りこぶしに立てた親指で、自分をぐいぐいと差して言う。
「誰かさんがあんまり『おかっぱおかっぱ』って言うから、この文香様が特別に特別にとくべ~つに、切ってきてあげたぞよ」
やっぱり!文香、サイドと後ろが、今までより五センチは短くなって、顎より上のラインで揃えられてる。ヤバい、立派におかっぱにしてきてくれてる。でも…前髪は眉下のままだな。だけどずいぶんイメージ変わった。めちゃかわいくなってる!
「文香…。切ってきてくれたんだ…」
「これが私の精一杯だからね!これより短いのは絶対NGだもんっ」
勢いこむ文香だけど、それでも俺はやっぱ、ちょっぴり不満を隠せない。
「前髪は変わってないね…。もうちょっと切ってもよかったんじゃない?」
「ダメぇー」
そう言って文香は大袈裟に両手を振る。
「デカ顔デブ顔発現は、ぜえったいに阻止するのじゃああ!」
「わかったわかった。後ろも見せて」
「うん」
ひらりと後ろを向く文香。切りたての黒髪が舞う。白い切り替えの中を通る、赤い背中ファスナー。そのファスナーの後ろ姿。それは…レースのスタンドカラーから五センチ上を通る、襟足のカットラインだった。
「やった!文香襟足かわいい。ねえ、ちょっとうつむいて」
「ん」
文香がピッと下を向く。後ろ上がりに湾曲した、ギザつき一つない精確なカットライン。その下から、真っ白いうなじ(できものも何もない。雪肌という言葉そのものだ)が見える。その両脇には、逆富士山型と言うほど大きくはないけれど、三センチくらいの剃り跡もあった。これはいい。耳の穴おかっぱと比べれば長いけど、これはこれでおかっぱの端正さがある。生まれて初めて見る、文香の襟足。こんな白くてきれいだったんだ…。さすがだよ文香、やればできるじゃん!
「かわいい…。かわいいよ文香」
「ほんとう?ほんとにそう思ってるぅ?」
うつむいた文香の襟足が、疑り深い声を出す。
「『どうせ切るんなら耳の穴おかっぱにしやがれ、前髪も切らねぇし、使えねぇやつだな』って思ってるんでしょぉ」
「えー、そんな!そんなこと思ってないよ。俺のために五センチも切ってきてくれて、めちゃ嬉しいよ!」
「うふふ、そう?」
文香は顔を上げて振り向いた。
「まあこの長さならやってあげてもいいかって思うもん。ミディアムおかっぱっていうのかな。これならそれほどデカ顔目立たないし。ちゃま気に入ったぁ?」
「うん!」
俺は深々とうなずいた。文香、このミディアムおかっぱでいい。十分かわいい。デカ顔デブ顔と言いながら、結局は俺のために五センチも切ってきてくれた文香が愛おしい。
「そか。ならいいね。ねぇ、ちゃまもカットしたよね」
文香は俺の耳の穴おかっぱを見つめた。
「後ろ見せてちゃま」
「うん」
俺は文香に背中を見せて、軽くうつむいた。
「うんうん。今回もきれいに揃ってるし、襟足も剃ってあるもん。ねえ、ちゃまの美容室って、剃刀で襟剃るの?」
「そうだよ。シャボンつけて剃ってくれる」
「サービスいいねぇ。私んとこ、バリカンをジャーッと当てるだけだもん」
ぐっとうつむいた文香の襟足を、美容師さんのバリカンが走る様子を想像した。勃ってくる。
「でも文香の襟足、今見たけど真っ白できれいになってたよ」
「そう?ならよかったもん。私、色白なのにちょっと毛深いでしょぉ、襟足とかうぶ毛目立たないかなって思って」
「じゃあこれからはお風呂で、お股に加えて襟足も剃らないとね」
「そうそう」
俺たちがそこまで言うと、時間が来て、教室に龍堀先生が現れた。席に着く俺。すると文香が、俺の隣の席にするするっと座る。あれ?いつも俺の前に座るのに。
「文香?」
「ちゃま、今年度最後の英会話だもん。今日は並んで座って、手ぇ繋いで授業受けるもん」
そう言って文香は、にっこり笑って俺に手を差し出す。
「うん。そうだな、手繋ごう」
そして俺たちは、固く手を繋いだ。文香の熱さが、脈打つように伝わってくる。文香…。やがて授業冒頭の発音練習が始まる。ぎゅっとうつむいて集中する文香。今日は俺もその真似をして、紫セーラーの背中金属ジッパーを伸ばしつつ深く下を向く。文香と俺の切りたて襟足、きれいに見えてるかな。龍堀先生の凛然とした声が響く。
「『All lovers in the earth is guided by God for happiness(地球上すべての恋人たちは神によって幸福へと導かれます)』」
瞬時に大きく口を開く文香と俺。思いきり息を吸い込む。
「すはあああっ!」
「はああああっ!」
二人並んだドレッシーワンピと紫セーラーの肩が、揃ってぐうっと上がる。その肩に連れて、繋いだ手も上がる。そんな俺たちの後ろ姿を想像した。
「All lovers in the earth is guided by God for happiness」
人一倍大きな声で練習に励む文香と俺。先生の練習はさらに続く。姿勢を正し、うつむいて集中しながら、その練習についていく。文香と二人、熱く固く手を繋ぎながら、声と胸式呼吸を揃える。気持ちいい。
「All right. You did good practice(よろしい。よく練習しました)」
発音練習が終わり、龍堀先生が表情を和らげる。その先生、手を繋ぎあう俺たちを見てニヤリと笑い、こう言った。
「Ronlie, Elizabeth, you have been nice couple in this year. You have the happiest time now, dont you?(ロンリ、エリザベス、この一年仲のいいカップルでしたね。今いちばん幸せなときじゃないですか)」
すかさず俺たちは、声を揃えて答える。
「Of course!(もちろんです!)」
『Hahaha. Its good answer!(ははは、いい答えです!)』
龍堀先生が笑い、クラス中も笑った。互いに少し頬を赤く染めて、微笑みあう文香と俺。そうです龍堀先生、俺たち、幸せです!

その次の国文学概論では、「切りたてちゃまの襟足見たい」という文香の求めに応じて、いつぞやの英会話に続き、また文香の前に座る。ほんとは文香の後ろミディアムおかっぱを見つめたい気持ちもあったけれど、ここはまあ文香を優先してやる。授業が始まり、俺は背中金属ジッパーを真っ直ぐ伸ばして顎を引き、姿勢を正した。襟足をピンとする。その襟足にムラムラとした熱さ。文香の視線だ。思わず振り向く。
「文香…」
顔を赤くした文香が、指で前を指しながら言う。
「ダメ。ちゃま前向いてて。ちゃまの襟足見つめてるんだから」
「うぅ…」
俺も顔が染まってくるけど、言われるままに前を向く。でもそのうち、俺の襟足に、温かい感触が走る。文香が俺の剃り跡に触れている。あ、あう…。
「あ…、あ、あん…」
背後から文香の少年声が、押し殺した小さな喘ぎを漏らす。俺の剃り跡に、じわ、じわ、と文香の指が触れていく。う…。文香、そんなことするなよ、俺も感じるだろ。でもそう思いつつも、俺はうつむいて文香に襟足を見せる。その襟足をさらに触ってくる文香。
「ちゃま…」
「文香…」
いけない、さっきから俺のが猛然と勃ってきてる。文香も濡れてるよね。もう授業どころじゃない。お互い感じあいながら一時間半が過ぎた。

そんな一日を過ごして、文芸部にもちょっと顔を出してから、俺たちは手を繋いで駅前に出た。夕闇が迫る街。街角に流れるキャロル。見上げれば星空にオリオンが昇ってくる。クリスマスムードは最高潮だ。
「うふふ、ちゃま、クリスマスだねぇ」
文香が俺の手をぎゅっと握る。相変わらず熱い手だ。文香の平熱は三十七度三分だと聞いたことがある。
「そうだな文香。いい雰囲気になってきた」
「うんっ」
繋いだ手をぶんぶんと振り、お互い顔を見あわせて微笑みあいながら、街を行く。すると行く手に、ちょっと洒落た感じのイタリアンレストランが見えてきた。「Cero」という看板がある。
「お腹空かないか文香。ここよさそうじゃん。食べてかない?」
「うん、いいね」
二人して「Cero」の入り口をくぐる。イヴということもあって店内は混雑していたけれど、運よくテーブル一卓が空いていた。
「よかったもんちゃま。空いてたよ」
「うんよかった。ゆっくり食べよう。まずはお酒からだな」
店員さんに頼んで、お酒を持ってきてもらう。文香も俺もワインだ。俺は赤、文香は白。二人でワイングラスを手にする。
「ちゃま、メリークリスマス」
「メリークリスマス、文香」
軽くグラスを交わす俺たち。そしてワインを口にする。俺の赤ワインは少し辛口の、大人っぽい味がした。
「じゃあさあちゃま、プレゼント交換式するもん」
「そうだな!」
お互い鞄から、あのレポートの日に買ったプレゼントを取り出す。俺の万年筆、文香気に入ってくれたらいいけど…。
「それではプレゼント交換式でーす!ぱちぱちぱちぃ~」
楽しげな文香の声とともに、俺たちはプレゼントの包みを交換した。
「やったぁ!ちゃまのプレゼントだもん!ねね、開けていい?」
「ああ、もちろん」
「ありがとぉー」
嬉しさを満面に表しながら、文香が俺の包みを開けてゆく。
「わああ…、ちゃまぁ、これぇ…」
ついに中身を手にした文香、ぱーっと顔を輝かせつつ、うっとりとプレゼントを見つめる。
「万年筆じゃんー。臙脂色できれい…。しかも十八金だもん。高級感ばっちりじゃん!高かったでしょぉ?」
小鳥がさえずるような、弾みきった声で喜びを表現してくれる文香。小さな瞳が、嬉しさできらめいている。
「まあ、さ、大事な文香に贈るものだもの、少しは奮発したよ」
「ありがとぉ…」
文香は万年筆を、大切そうに手の中で転がす。
「臙脂色の、セーラー万年筆なんだね」
「うん」
俺は微笑ってうなずくと、口を開いて「はあああっ」と息を吸った。紫のセーラー襟が上がる。
「文香はセーラーワンピが似合うからね。その文香が使うんだから、やっぱ銘柄もセーラーじゃなきゃ。色は…俺にとって、文香の思い出がいちばん深い色にした。時間割決めたときとか、テスト勉強したときとか、深夜ドライブしたときとか」
「あー、そだねぇ」
文香は、しみじみと手の中の万年筆を見やる。
「そのときみんな私、この色着てたもんねぇ。ちゃま、覚えててくれたんだぁ」
「もちろん覚えてるさ。あの臙脂色ワンピ、文香の胸式呼吸がしみついてるもの」
「えへへ」
照れくさそうに笑う文香が、たまらなくかわいい。
「私の呼吸、ちゃまに感じてもらえて嬉しいもん。じゃあこの万年筆の色、私の胸式呼吸のイメージカラーなんだね」
「そうそう。セーラー+臙脂色で、まさに『文香の万年筆』って感じになった」
俺のその言葉を聞くと、文香は「嬉しいっ!」と叫びつつ、身体を愛らしく揺すった。
「まあ、気に入ったらぼつぼつ使ってくれ」
「もちろんバリバリに使うもん!後期試験、これ使って、全科目Aとる答案書くもん!ちゃまありがとぉー」
この万年筆を手に、背中ファスナーを真っ直ぐに伸ばし、ミディアムおかっぱの切り整った襟足を見せながら、深くうつむいて懸命に答案に向かっている文香を想像し、胸がときめく俺。プレゼントは大成功のようだ。さあ、それじゃあ文香のプレゼントは何だろう。
「じゃあ文香、包み、開けていい?」
「いいよぉ。うう…どきどきだもん。ちゃま、気に入ってくれるかなぁ…」
胸を両手で押さえながら、頬を赤くする文香。そんな文香の前で、俺は小さな包みを開けてゆく。リボンと包装を外す。中箱が見えてきた。その箱の表に「G―SHOCK」のロゴ。G―SHOCK?ということは…。俺は蓋を開けた。やっぱり!中には一本の腕時計。
「わあ…」
嘆息を漏らす俺。
「G―SHOCKじゃん!めちゃカッコいい!」
「どうかなぁ、ちゃま…」
文香が心配げな上目遣いで俺を見ながら言う。
「どれどれ…。よく見せてね」
俺は箱からG―SHOCKを取り出し、手に取った。外装はポリウレタンだけど、このモデルらしい重厚感に溢れていて、手にずっしりと重みを感じる。文字盤の外周は青く彩られていて、G―SHOCKの文字がその青の中に黒く刻まれているのがカッコいい。略字も針もどっしり太くて見やすい。三時・六時・九時の各位置に液晶表示部があり、三時に曜日、六時に秒、九時に日付が表れている。一目で、月・日・曜日・時・分・秒が読み取れる。これは便利だ。
「文香…。これカッコいい!すんげえ見やすいし。俺腕時計って一つも持ってなかったんだけど、これなら便利に使えそうだよ!」
「そう?よかったぁ」
俺の言葉を聞いた文香が、顔を輝かす。
「最近のG―SHOCKはみんなソーラー電波だけど、これもそう?」
「うんそうだよ」
そう答えて文香は、「すはああっ」と大きく肩を上げて息を吸い込む。
「窓際に置いて光に当てて電波受信させれば、電池交換も時刻合わせもいらないもん。それにこれね、液晶の部分切り替えて、世界時計にも、タイマーにも、ストップウォッチにも使えるんだもん。説明書読んで、いろいろ試してみて」
ケースには左右二つずつボタンが設けてある。これを使って、機能を切り替えるんだろう。なかなか面白そうだ。
「うん…。いいのもらったよ…」
俺はしみじみとG―SHOCKを眺めた。全体が黒でまとめられているのも精悍でいい。
「はめてみるね」
「うんっ」
落とさないように注意しながら、俺はG―SHOCKを腕にはめる。そうか…、時計をするって、こういう感覚だったんだ。今までスマホの時計で時刻を知ってたから、腕時計って新鮮だな。
「どう文香。似合うかな」
「似合うよちゃま。カッコいい。ちゃまがしてるとこ一生懸命想像して選んだもん」
「ありがとう!ずっと大事にするよ!」
左手首につけたG―SHOCKの重みが快い。その重みが、文香の想いの丈そのものに感じられる。いいものを贈り、贈られた。文香、俺たち幸せだね。

「Cero」で夕食とおしゃべりを二人で楽しんだ後、文香と俺は夜のイヴの街に出た。しばらく歩いて、南河原(みなみかわはら)通りにやってくる。ここはイルミネーションの名所だ。南北二キロにわたる街路樹が、青いイルミをまとい、幻想的な雰囲気を醸し出す。そんな中、文香の熱い手を握りつつ、肩を並べてゆっくりと、北から南へ俺たちは歩いてゆく。
「ちゃまぁ」
「文香…」
微笑みあう俺たち。
「ちゃま、青くて妖しいもん」
「文香も真っ青だ」
イルミの青い光が、文香と俺を淡く照らし出している。その光の中、文香の切りたてミディアムおかっぱが薄く輝く。
「ねえ文香」
「うん?」
「いつも思うんだけどさ、文香って常に髪揃ってるよね、前もサイドも後ろも。どれくらいおきに切ってるの?」
俺にそう聞かれた文香は「むふふぅ」と、ちょっと得意げに笑った。
「三、四週に一度だもん」
「えーそんな短い間隔なの。かなりマメじゃない?」
「そうだね。いつもかわいらしくしてたいって思って、もう小学生の頃からこんな間隔で揃えてるもん。ミディアムにしたんなら、余計にマメに揃えなきゃね。ちゃま、私の髪揃ってるって思う?」
「うん」
俺がうなずくと、文香は青い光の中でパッと顔を綻ばせた。
「よかった!誰に髪褒められるよりも、ちゃまに褒められるのが、いちばん嬉しいもん!」
文香の髪。このクリスマスイヴの聖なる闇よりも深い黒髪。豊かな脂質感を湛え、光沢を放っている。坂口は「不潔だ」などとほざいたけれど、俺は文香と出会った頃から、この髪が大好きだった。
「ちゃま…。そうやって私を見つめてくれるちゃまが、大好きだもん!」
「文香…」
改めて、固く手を握りあう俺たち。
「ねえ、文香って、いつ頃から俺のことを好きでいてくれたの?」
「そうだねぇ…」
急ぎ足で街路を行く人々に追い越されて行く。何もイヴの夜にそんなに急がなくてもいいのに。雑踏の中、文香はお人形顔の小さな口を開き、ゆっくり「すはあああっ」と息を吸う。独特のブレス音とともに、赤い蝶ネクタイが飾られた、切り替えの白い胸がふくらむ。その胸式呼吸にどれだけ魅せられたことか。
「あのドライブの夜に、ちゃまにあったかく支えてもらったときに、『ちゃまならいい』って思えたもん。んで、ちゃまがはーちゃんに恋してるときは、私ちゃまに片想いしてたもん。でも、はーちゃんが自分の夢に色気出し始めたから『もらった』って思ったけどね」
「そういえば…、文香、空港で『論理くんのことは、私に任せてだもん』って言ってたよね。なんか、いきなりそんなこと言うから、俺も遥もびっくりした」
「んふふぅ」
文香いつものニヤーッ笑い。かわいい。
「あのときはもう、かなり自信あったもん。はーちゃんは東京行ったらもうちゃまのほう向かないって見えてたしぃ、それならちゃまをもらうのは私しかいないからね。だからはーちゃんにもそう言ったもん」
自信あったもん、の後と、見えてたしぃ、の後と、いないからね、の後で、文香は緩やかに息継ぎした。うつむいて、地面を見つめて歩いている。これまでよりも五センチ短く切り揃えた(返す返すも、これはヒットだよ文香)襟足と、愛らしい小さな剃り跡、そして切り替えの白い肩がゆっくり上がる様子が、かわいらしく調和している。
「そか…。そんな頃から…」
「そだもん」
文香は顔を上げて、俺を見つめた。イルミの青い光が、文香の細い瞳の中に宿っている。
「はーちゃんがちゃまとおそろの耳たぶおかっぱにしたときは『同じ子に二度負けるのかな』って思ってしゅんとなったけど、ちゃまを待っててよかったもん」
俺が遥に浮かれている間に、文香は一途に俺を待っていてくれたんだ。この子は…!俺は文香の手を固く握りしめた。
「ありがとう文香。待たせたな」
「いいもん。ちゃまはこうして私を見つめてくれたんだから」
聖夜の青い光の中を、こんな会話をしながら歩く。静かな晩だったけれど、北風が思い出したように吹き、俺の耳の穴おかっぱと、文香のミディアムおかっぱを揺らす。
「寒くない文香?上着なしで」
「寒いよ。ちゃまだって、紫セーラー一枚で寒いでしょぉ」
「そうだね。けっこう寒い」
お互い寒いのガマンしてたのか。ちょっと苦笑いする俺。
「夏も冬も文香、お気に入りのワンピ着てるよね。夏は暑いし冬は寒いと思うんだけど」
「うんその通りだもん」
こくこくと文香がうなずく。
「でもねぇ、どんな季節でも、いつも自分が納得する格好でいたいんだもん。そのためには暑い寒いもガマンだもん。ちゃまだってそうじゃないのぉ?」
「そうそう俺も」
俺もうなずいた。
「耳の穴おかっぱと、俺の胸式呼吸には、この紫セーラーがいちばん似合う。だから、その姿を見てほしい。特に…文香に」
嫌だよ耳たぶまで赤くなる。でも文香は「だよね!」と元気に応じてくれた。
「私も、セーラーワンピとか、このドレッシーワンピ着て、肩と胸と背中ふくらませて大きく息吸い込んでる自分、納得してるもん。ちゃまに、そんな姿見てもらえたら、嬉しいなぁ」
「そうだね。上着で隠すなんてもったいないよね」
「うん!」
イルミの中で見つめあい、微笑みあう俺たち。そのとき、俺の左手首から「ピッピッ」と音。
「八時だ。このG―SHOCK、時報鳴らしてくれるんだよ」
「へえ、そうなんだぁ」
俺は(特に今時刻を確認する必要もなかったけど)腕のG―SHOCKを見た。文字盤がパッと光り、時刻を照らし出す。
「文字盤光るのぉ?」
「うん。こうやって腕を構えると、それに反応して光るみたい。それもカッコいい。いい時計持つことができたよ。ありがとう文香。ずっと大事に使う」
「よかったぁ。選んだかいがあったもん」
にっこりと微笑ってくれる文香。ああ、その顔がほんとうにかわいいんだ!
「文香。俺、このG―SHOCKで刻まれる時を、文香と二人で幸せいっぱいなものにしたい」
「そうだね!私も、あの臙脂色のセーラー万年筆で、ちゃまに感動してもらえるような詩、いっぱい書くもん」
「最高のプレゼントができたね、お互い」
「うんっ」
左腕に文香のG―SHOCKを感じながら、俺は文香の手をぎゅっと握った。文香も熱く握り返してくれる。そのとき文香が、意味深に微笑んだ。
「どうかした?」
「あのさぁちゃま。私ね、ちゃまに一つだけ嘘ついてたもん」
「嘘?どんな?」
「私ねぇ、三月に駅前のバスターミナルでちゃまとぶつかったこと、実は覚えてるもん」
「え?」
でも、文芸部室で文香と最初に顔を合わせたとき、俺が「ぶつかってごめん」って言ったら文香、「そんなことあったっけ」なんて言ってなかった?
「あのこと、覚えてたの?」
「うん」
「なんで忘れたふり…」
「あのときはねぇ、ちゃまとまだ仲良くなった感じがしてなかったもん。だから、そんな印象的な出会いをしたなんて話には、したくなかったんだもん」
「そっかぁ…」
「でもね!はっきり覚えてるもん。あのバスターミナル」
ブルーイルミの中で、文香が愛らしく微笑む。
「ねえちゃま、今からあそこ、行ってみない?初めて逢った思い出、たぐりたいもん」

南河原通りから十五分歩いて、文香と俺は駅前のバスターミナルにやってきた。高速バスの降り場に来る。
「そうそう、ここだもん」
感慨深げに、赤白ドレッシーワンピがゆっくりと辺りを見渡す。紫セーラーの俺がそれに応える。
「そうだね。でもまだ、あれから九ヶ月しか経ってない」
「その九ヶ月がいろいろ濃かったもん」
「確かに」
俺にとっての博美、遥。文香にとっての坂口、本島先輩。お互いに苦い飲み物をいっぱい飲んだ。そんな過去を思い返しながら、俺たちはしばし言葉もなく、降り場にたたずむ。
「ねえ文香。あのときなんで俺にぶつかっちゃったの?」
「わくわくしてたんだもん。この清心館で、この玉都で、何に出会うんだろうって、頭の中それだけで歩いてたら、ちゃまに気づかなくてぶつかったもん」
「そか。お互い期待で胸が躍ってたよな」
「うん」
文香はそう答えて、「すはあああっ、はあーっ」と大きく深呼吸した。かわいい肩と胸と背中が大きく動く。抱きしめたい。
「ちゃま。私たち、このバスターミナルから始まったもんね」
「うん。ここから、いろいろあった。そして、ここまで来た」
「ちゃま…」
文香が俺に、そっと寄り添ってくる。俺はその身体──ふっくらして、白くて、豊かで、俺を一途に愛してくれる身体──を抱き寄せる。
「六月一日の夜…、ぼろぼろになったときに、ちゃまのとこに行こうって思ったのは、やっぱりちゃま、特別な子だったからだもん」
「あのときも、そのワンピ着てたよね」
「うん。このお気に入り着て、あの日はちゃまに抱かれて思いっきり泣いたもん。…それから、いろいろあったね」
ターミナルにはまだぽつぽつと人影がある。抱きあう俺たちの脇を、何人もの人が通り過ぎていく。ちょっと奇異の視線を感じるけど、構わない。
「うん。いろいろあった。これからもあるだろう」
「ちゃま…」
文香が俺に背を向けてピッとうつむく。きびきびした動作が愛しい。ミディアムおかっぱの、襟上五センチで精確に、少しのギザつきもなく切り揃えられた襟足。降ったばかりの雪のように真っ白で、ほくろ一つないうなじ。サイドのカットラインからのぞく、ふわりとした顎。それを見つめつつ、俺は文香を固く後ろ抱っこした。かわいらしい胸式呼吸が、俺の腕の中で深く息づく。春からずっと、その呼吸に魅せられてきた。
「でも、乗り越えていけるよね。だってちゃまとだもん」
「うん。文香と俺の間には、絆がある。だからきっと乗り越えていける」
「ちゃま…」
文香が首を俺に向ける。瞳を閉じ、唇をすぼめてキスをねだる。そんな文香と口づけ。すぐさま文香の熱く肉感溢れる舌が、俺の口をこじ開け、中にぐいぐいと入ってくる。その舌についていく俺。長く舌を絡める。文香の舌。大きく口を開いて「すはあああっ」と息を吸い込んだ後、この舌がきびきびと動いて、あるときは歌い、あるときはしゃぶり、あるときは発音練習し、あるときは語る。そんな愛しい舌が、俺に激しく絡んでくれる。文香の熱情が、その舌ごしにどっと流れ込んでくる。なおも熱く唇を交わす俺たち。でもやがて、どろりと唾液の糸を引きながら、唇を離す。
「文香」
「ちゃま」
再度、軽く口づけ。イヴの冷え込む大気が文香と俺を包むけど、俺たちの身も心も熱く沸ききっている。改めて文香を抱きしめる俺。その俺の腕を、文香もぎゅっと握ってくれる。その手が熱い。その熱さが好きだ。
「文香、愛してるよ」
「ちゃま、愛してる」
「大好きだよ」
「大好き」
「ずっと一緒だよ」
「うんっ!ずっと一緒っ!」
九ヶ月、長い旅をしてきたと思う。その途中で、いっぱい涙を流した。でも最後に、この人のもとへと導かれた。俺はまた、文香の白くてふっくらしたお人形顔を見つめる。このかわいい顔が、俺を愛してくれてるんだ。俺がどうなっていても、いつも俺の中にいてくれるんだ。
「文香──。もう俺には、文香しかいない」
「私もだもん。ちゃま…」
そして再び、俺たちは口づける。何度でもキスしよう、文香。どこでも、いつでも。それが俺たちの愛なんだから。

主よ私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人すべての先祖のように寄留の者なのです。
詩篇 三十九篇十二節

あの子のおかっぱ その子のロリボイス この子の胸式呼吸

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