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八十二、セーラー文香のセーラー万年筆

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それから数日後、文香と俺は文学部の学生談話室で、明日提出期限の「国文学研究入門」のレポートを清書していた。この科目は後期試験が行われず、このレポートで単位認定が決まる。一年生必修だけに落とせないので、文香も俺も真剣だった。
ふと顔を上げ、テーブル向かいにいる文香を見る。いつぞやの英会話のときにも着ていた黒灰色セーラーワンピ姿だ。相変わらずの姿勢の良さで、上体を真っ直ぐ起こし、深くうつむいて原稿用紙に向かっている。胸元にまで垂れたセーラー襟と、喉元をほのかに彩る小襟、胸に二列×三個ついた銅ボタン、前に流れたサイドの黒髪。かわいいな…。この人が、俺の彼女──。見惚れてしまう。
「ん?ちゃま、どうしたかな」
視線に気づいた文香が、俺を見る。
「う、うん…。文香のこと、見つめてた。かわいいから…」
俺がそう言うと、文香は頬を染めながら手を横に振る。
「あーもー、そんなこといいから、早く清書しちゃいなさい」
文香、照れてる。そんな顔も、またかわいい。文香の中で、かわいくないところなんてない。
「清書はあと三十分もすれば終わるよ。今は文香を見つめてたい。ほら、書いて。背中ファスナーまっすぐにしてぎゅっとうつむいて書いてる文香かわいいんだから」
文香はますます顔を赤くした。
「そんなこと言われたら恥ずかしくってたまんないもん!もう、ちゃまったらぁ。うふふ」
「あはは」
二人して笑いあう。
「ねぇ、ちゃまのレポートのテーマ、なかなか凝ってるもんね。確か『枕草子における助動詞『む』の用法について』でしょぉ?」
「うん。特に『仮定』と『婉曲』用法について詳しく調べてみたよ」
枕草子の中の『む』をしらみつぶしに見つけ、考察していく作業はかなり手間取ったけれど、これなら平野教授もいい判定をくれるのではないかと思う。
「文香は、西脇順三郎だったっけ?」
「うん。萩原朔太郎が順三郎に及ぼした影響について調べたもん」
「かなり影響あったんでしょ?」
「えっとねぇ…」
文香は、手元の原稿用紙をめくると、口を開いて「すはああっ」と呼吸した。胸のボタンが息づくのが愛らしい。
「『萩原朔太郎という詩人は私にとって一つの光明であった。その内容(主としてその詩的情緒)もその言葉のスタイルも全面的に私をよろこばせた』って書いてる。それまで順三郎は日本語の詩に拒否反応持ってたからね。大きな方向転換になったみたい」
相変わらず、台詞の途中の「すはっ」と、吸おうと開いた口と、素早く上がるセーラーの肩に目がいく。西脇順三郎にはあまり興味がない。ごめんよ文香。
「おぉ、面白い内容だね。なかなか興味深い」
と、思ってもいないことを言ってしまう俺。でも文香は嬉しそうにうなずく。
「でしょぉ。友野(ともの)先生、Aくれないかなぁ」
友野教授は、文香たちB組の担当教員だ。目つきの悪い平野教授とは対照的な、犬顔の穏やかな先生で、学生からは「ドルーピー」と呼ばれている。
「必修はAもらいたいよね」
「うんうん」
文香はそう言うと、再びペンを取って姿勢を正した。
「じゃあちゃま、続きやろっか」
「おう。仕上げちゃおう」
俺も紫セーラーの背中ジッパーを伸ばして脇を締め、ぎゅっとうつむいて原稿に向かう。俺の耳の穴おかっぱの襟足、今朝も一生懸命ブローしてきた。きれいに揃ってるのを意識する。そうして二十分くらいが経つ。大方清書し終えた頃、背後からどこかで聞いた声が聞こえた。
「論理くん?」
ん?顔を上げて振り向く俺。そこにいたのはオリターの佐古木さんだった。
「あ、佐古木さん。ご無沙汰してます」
俺が頭を下げると、佐古木さんは控え目な微笑を浮かべて、右手を軽く上げた。
「久しぶりだね論理くん。時間割びっしりだったけど、履修は大丈夫だった?」
「はい。おかげさまで首尾よくいってます」
元気よく答える俺の向かいで、文香が怪訝そうな顔。
「ちゃまぁ、この人はぁ?」
「あ、文香初対面か。こちらはA組オリターの佐古木雪子さん。佐古木さん、こっちはB組の池田文香です」
互いに挨拶を交わす文香と佐古木さん。
「二人揃ってレポートだなんて、仲良さげだね。ひょっとしてカレカノさんかな?」
佐古木さんにそう問われて、俺たちは顔を見合わせて微笑む。
「はい、二人で仲良くやってます」
「そう…。よかったね論理くん」
表情をあまり動かさない佐古木さんには珍しく、にっこりと笑いかけてくれる。
「私もね、今交際中なんだ。部活で知り合った人と」
「へえ、そうなんですか」
俺は目を丸くした。
「部活って、佐古木さん、何やってるんです?」
「『若人』だよ」
若人は、清心館大学にある三つの合唱団の中の一つを占める、混声合唱団だ。
「佐古木さん、合唱団してたんですね」
「うん。そこで彼氏と出会った」
ちょっとうつむく佐古木さんの頬が、うっすら朱く染まる。
「彼氏ね、指揮者なの。だから…、歌ってる間じゅう、ずっと顔見つめていられる。それが嬉しい」
そう言って佐古木さんが微笑う。無垢なその表情が、すごくかわいい。佐古木さん、こんな顔もするんだ。
「いいですね!佐古木さんアツアツじゃないですか。もうすぐクリスマスですけど、どう過ごされるんですか?」
俺に聞かれた佐古木さん、微笑んだ顔を一層輝かせる。
「メトロポリタンパレスっていうホテルで二十四日の夜にディナーする予約したよ。クリスマスプレゼントももう買ったし、そのとき交換するよ。何もらえるか楽しみだな」
佐古木さん、すっかりかわいくなってる。これは、クリスマスは彼氏さんと二人で睦まじく過ごすんだろうな。赤い顔をした佐古木さんとさらに少し話す。
「そっかぁ、プレゼントかー」
自治会室に消えていく佐古木さんの背中を見送った後、文香が思いついたように声を出す。
「ちゃまぁ、私たちはどうする?」
「プレゼント?」
「うん」
さっきの佐古木さんよりも、もっとかわいい微笑みが、文香の顔に浮かぶ。
「私さぁ、考えてるものがあるもん。ちゃまはぁ?」
文香、クリスマスプレゼント、さっそく考えてくれてるのか。かく言う俺も、候補は絞り込んである。
「俺もだいたい決まってる」
「そか。じゃあさぁ、レポート終わったら二人で買いに行かない?」
「いいね。駅前にでも行くか」
「うんうん。それじゃ終わらせちゃうもん」
文香はそう言って身体を起こし、ペンを手にした。お腹をテーブルの端に付け、脇を締め、ぐっとうつむく理想的な姿勢。いつもながらきれいに切り揃えられた前髪がお人形顔を覆う。そんな文香を一しきり眺めてから、俺も背中ジッパーを伸ばして深く下を向き、少しもギザつかずに揃った耳の穴おかっぱの襟足を意識しつつ作業を始めた。

「ちゃまー」
「文香ぁ」
名前を呼びあいながら、冬の駅前を歩く。天気は冬晴れで、日差しもあるけれど、やはり気温は低い。でもそんな中、しっかりと手をつなぎあう。文香の手の熱さが、ぐいぐいと伝わってきて、寒さも感じなくなる。
「プレゼント、何にしてくれるのかなぁ」
文香が、つないだ手をぶんぶんと振る。
「いろいろ想像しちゃうもん」
「文香こそ、何くれるんだろ」
「えへへぇ」
いたずらっぽく笑う文香。
「お楽しみだもん」
そんな会話を交わしながら、百貨店の前にやってくる。玄関前で見つめあう俺たち。
「じゃあさぁちゃま、ここから別行動だよ。お互いプレゼント買って、そうだなぁ…、一時間後にこの玄関前で落ち合うってのはどう?」
「うん、それでいいね。なら買ってくるよ」
「わかった。じゃ後でねぇ」
文香と手を振りあい、俺は一人でエスカレーターに乗った。目指すのは四階、文具売り場だ。広い売り場に、高級筆記具がずらりと並べてあるのを見渡してから、俺は店員さんに声をかける。
「すみません、万年筆見せていただけますか」
「かしこまりました。銘柄は、何に致しましょう?」
「セーラーで」
パイロットとかプラチナとかモンブランとか、万年筆の銘柄にはいろいろあるけれど、文香に贈るならセーラー万年筆だ。セーラーワンピの似合う文香だからこそ、この銘柄を使ってほしい。
「セーラーですと、こちらになります」
店員さんが、トレイの上に何本も並べて見せてくれる。
「筆圧が強くて、くっきりした、太い筆跡の字を書く人なんですよね。どんなものがお勧めですか?」
俺がそう聞くと、店員さんはしばらく考えてから、黒い軸の一本を俺の前に置いた。
「それでしたら、こちらでいかがでしょう。中細字になるんですけれど、鮮やかな筆跡が残せると思います。ペン先も十八金で気品もありますし」
「なるほど」
俺はその一本を手に取った。軸も太くて握りやすそうだ。文香、使ってくれるかな。あ、でも色が黒か。もうちょっと文香らしい色ないかな。
「このモデルで、色目違いのものはありますか?」
「今ですと、この黒と…」
店員さんがショーケースから、さらに二本取り出す。
「この紺と、こちらの臙脂色になります」
「おぉ…」
臙脂色の一本に目が行く。文香の、あの思い出深い臙脂色ワンピと同じ色だった。うん、これなら文香のイメージとよく合う。
「わかりました。じゃあこの臙脂色のでお願いします。クリスマスプレゼントですので、ラッピングお願いできますか」
「かしこまりました。ではお会計よろしいでしょうか。税込で二万八千円ちょうどになります」
う…。俺にとってはちょっと痛い出費だ。とはいえ今着ている紫セーラーと比べればまだ安いけど。何にしても、この万年筆で文香が、素敵な詩を書き、いい成績のレポートや答案も書いてくれるなら、それでいい。俺は、きれいに包装された臙脂色セーラー万年筆が入った紙袋を手に、足取りも軽く売り場を出た。

待ち合わせの玄関前に行くと、文香がすでにいた。
「ごめんごめん、待った?」
「ううん、私も今着いたとこだもん」
駆け寄る俺に、文香がにこにこ笑いながら応えてくれる。
「ちゃま、何買ってくれたかなぁー」
文香が、俺の紙袋をのぞき込む。
「その大きさかぁ…。何かなぁ。筆記具?」
どきりとした。見透かされてるじゃないか。
「ま、まあお楽しみだよ」
動揺を悟られまいと、努めて平常を装う。
「文香は何を買ったかな」
俺の紙袋より二回りくらい小さい袋の中を見ると、かわいくラッピングされた十センチ四方くらいの包みが入っている。ん、小さいな。
「かわいい包みだな。えー、何だろう」
「むふふぅ」
文香が、あのニヤーッ笑いを見せる。この笑い、春以来何度も見てるけど、いつも意味深で、俺もちょっと身構えてたものだ。でも、それもまた文香らしくてかわいい。
「イヴの夜に見せてあげるねぇ。楽しみにしててだもん」
「そだな。俺のも期待しててくれ」
「うんっ」
文香の熱い手が、俺の手をぎゅっと握る。そうして俺たちは歩き出した。冬の早い夕暮れが空を覆っていて、薄暗くなった街にはイルミネーションが光る。百貨店のショーウィンドウにも、サンタクロースの姿。そんな中を、黒灰色セーラーワンピと紫セーラーで抜けていく。冷たい季節風が、俺の耳の穴おかっぱと、文香のしっとりセミロングを揺らした。でもお互い寒くない。温めあっているから。
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