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七十七、耳の穴おかっぱ

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一人で店に来た俺に寿美さんは「今日は佐伯さんはご一緒じゃないんですか」と言った無粋な事は一切言わず、いつも通りに俺を迎え入れてくれた。
ふーちゃんに言ってもらった通り、長さはいつもよりぐっと短くする。前髪は眉上四センチ、サイドは耳の穴の上、そこから後ろ上がりに襟足につなげる。もう耳たぶおかっぱじゃなくて、耳の穴おかっぱだ。襟足を剃ってもらうとき、いつもよりずっと上の方から剃刀が当たって、ゾリッといっぱい剃られる。気持ちいい。前髪もサイドも襟足も、一気に短くなった。仕上がって寿美さんに「いかがですか?」と聞かれながら、鏡の中の俺を見つめる。うん、少し生まれ変わったぞ。短くきれいに揃って、かわいいじゃないか俺。ちょっと微笑えてきた。鏡の中の俺とうなずきあう。やっぱりこういうおかっぱじゃなきゃな。ありがとうふーちゃん、俺の背中を押してくれて。

翌日、十二月三日。たぶんこういう雨を「氷雨」と言うんだろう、凍りつく一歩寸前の冷たい雨粒が、朝から休みなく降り続いている。俺はそんな天気も構わず、紫セーラーとスラックスを着ると、大学へ向かった。もちろん、ヘアブローを含め、身支度はばっちりだ。
今日の授業は三限目の英会話から。文学部校舎のトイレの鏡と手鏡を合わせ、丁寧にブラッシングする。切り立て耳の穴おかっぱの前髪もサイドも襟足も、まったく精確に揃っていることを確かめてから、俺は教室へ入る。案の定、既にふーちゃんが座っていた。
「あ、論理くぅん!」
「ふーちゃん!」
立ち上がって俺を迎えてくれるふーちゃん。
「あー、論理くん切ってきたぁ」
ふーちゃんが嬉しそうに俺を見つめる。
「うん。ちょっとだけ思い切ってみた」
「いいねいいねぇ。前髪、眉上四センチ?」
「うんうん。サイドも襟足も短くしたよ」
「耳の穴見えてるもん。もう『耳の穴おかっぱ』だねぇ」
俺の考えていることと同じことを言ってくれるふーちゃんが嬉しい。
「ねえねえ、後ろもみせてだもん」
「いいよ」
俺はふーちゃんに背を向ける。襟足にふーちゃんの視線を感じる。ちょっと熱い…。
「相変わらずきれいに揃っててかわいいもん…。襟足も丁寧に剃ってあるしぃ」
「これくらいかっちり仕上げてもらうと、気持ちにも張りが出るよ」
「だよねぇ。やっぱ、論理くんはこうでなくっちゃだもん」
文香はそう言って、両手を俺の両肩にぽんと置いた。ふーちゃんの温かさが、肩からじわりと滲みとおっていく。
「ありがとうふーちゃん。おかげで元気になった」
「ありがたく思うんだゾ」
うふふ、と笑って、ふーちゃんは俺の顔をのぞき込む。
「ねえ論理くん。今日の英会話さぁ、私の前に座ってくれないかなぁ?」
「え?前に?」
いつも英会話では、俺が文香の後ろに座って、ふーちゃんの熱い脳や、上がる肩を見つめ、時にこれらに触るのが例だった。
「切り立て論理くん見てたらさぁ、今日は一時間半ずっと、論理くんの襟足と、セーラーの肩見つめて過ごしたくなっちゃったもん」
「う、うん、いいよ」
言われた通り、俺はふーちゃんの前に座る。龍堀先生が入ってきた。俺は背中の金属ジッパーを伸ばし、顎を引いてうなじをピンとする。いつもよりずっと短いところで、後ろ上がりに湾曲して切り揃えられたカットライン。その下に広がる、ゾリッとたくさん剃られた剃り跡。そこに文香の視線を感じて、襟足がむずむずした。でもふーちゃんが見ててくれるんだ。集中しなきゃ。今日の練習が始まる。発音練習だ。口を大きく開き、肩を上げて思いきり息を吸い込む俺。「はあああっ」と俺のブレス音。ふーちゃん、見ててくれてる?でも…、こうして見つめてくれるのが、はーちゃんだったら…。ダメだ!弱気になりかける俺を、一層大きな発音練習で寄り切る。はーちゃんはもうここにはいない。俺は遠くからはーちゃんを見守る。俺は俺としてがんばりながら。発音練習が続く。俺はもう一度口を大きく開いてぐっと肩を上げ、胸式呼吸の胸に、いっぱい息を吸い込んだ。
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