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七十六、二つの別れ

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それから一週間後。玉都空港出発ロビー。スーツケースを床に置いて立つはーちゃんを、文香と恵美ちゃん、俺の三人で囲む。東京では、社員寮のような場所をすでに当てがわれていて、引っ越しの荷物も送り、赤一プロでの生活開始準備は万端のはーちゃんだった。
空港内に、羽田行きの搭乗受付中の放送が流れる。別れが迫ってきていた。言葉もなく見つめあう俺たち三人だったけれど、やがてはーちゃんが低い声を出す。
「じゃ…。そろそろ行くよ」
「はーちゃんさんー…」
恵美ちゃんの小さな瞳から、今日何度目かの涙が溢れ出す。今朝空港に向かう頃から、ほとんど泣きっぱなしの恵美ちゃんだった。トレードマークの毒舌を出すゆとりもない。恵美ちゃん、すっかり泣き虫になっちゃったな。こんなに涙見せる子じゃなかったのに。
「行っちゃうんー…ですかあ…」
「ああ。もう行かないと。そんなに泣くな恵美」
はーちゃんの骨っぽい手が、恵美ちゃんの結い上げた頭をなでる。
「ううう…ひっく…はーちゃん、さんー!」
たまらなくなった恵美ちゃんが、はーちゃんの胸に飛び込む。
「すはあああっ!嫌だあ…行っちゃうなんてえ、すはあああっ!嫌ですうっ、ひっく…ひいいっく…、ひいいいいいいいんっ…‼︎すはっ、すはああああっ‼︎ひいいいいいいいいいいんっ‼︎」
目立つブレスで恵美ちゃんが息を吸い込むたびに、小さな丸い肩が大きく上がる。そんな肩を、困惑と悲しみを満たした表情で抱くはーちゃん。
「恵美…。笑って送り出してくれよ」
けれど恵美ちゃんは泣き止まない。その泣き声に重ねて、ふーちゃんがはーちゃんに言う。
「はーちゃん。何もかも押し退けて、東京行くんだね」
その声ははーちゃんを責めている。ふーちゃんの日本人形の瞳を、はーちゃんはまともに見返せない。
「…応援してくれ」
「まあ、心おきなく好きなだけやってこればいいもん」
そしてふーちゃんの顔が、ニヤーッと笑う。え?こんなときなのに?そしてその表情のまま、ふーちゃんはこう言った。
「論理くんのことは、私に任せてだもん」
「えっ…」
はーちゃんも俺も驚いて声を漏らす。でもふーちゃん、ニヤニヤ笑いをやめない。
「どういう…意味だ、ふーちゃん」
少し声を震わせてそう尋ねるはーちゃんに、ふーちゃんは微かに「ふん」と鼻を鳴らして答えた。
「言葉通りだもん。さ、もう時間じゃない?行ってらっしゃいだもんはーちゃん」
「あ、ああ…」
戸惑いを隠せない顔のまま、はーちゃんが俺に向き直る。ワンレンの茶髪はどうしても見慣れない。せめて…別れる時くらい、耳たぶおかっぱでいてほしかった。
「論理」
「はーちゃん」
見つめあうはーちゃんと俺。恵美ちゃんはずっとはーちゃんの胸で悲しげに泣き尽くしている。
「いろいろ、すまねぇ」
「いいよ。気にしないで。存分にやってくるといいよ」
何言ってるんだ俺。「行くな!そんなウィッグ脱げ!」って言いたいのに。
「論理。あたし、何もかも捧げて、必ず夢をつかむ。見守っていてくれ!」
「うん」
はーちゃんが、手を恵美ちゃんの背中から離して、俺に差し出す。その手を握る。ごつごつした、骨っぽいはーちゃんの手。
「はーちゃん…。行って、らっしゃい」
嫌だ。はーちゃん行かないで!
「論理。ありがとう…」
俺たちの手が離れる。はーちゃんは、スーツケースを手にした。
「じゃあ、行ってくるよ。みんな」
「嫌だあ…っ!すはあああっ!はーちゃん、さあああんっ!」
恵美ちゃんの泣き声を振り払うように、はーちゃんは俺たちに背を向け、出発ゲートに歩き出す。
「はーちゃん、すはあああっ!さあああんっ!」
でもはーちゃんは、振り返ることなく、搭乗口に消えていった。

送迎デッキに、文香と恵美ちゃんとともに出る。はーちゃんを乗せた羽田行きジェット機が、エプロンを離れ、ゆっくりと滑走路に向かう。それを三人で言葉もなく見送る。恵美ちゃんは泣きじゃくりが止まらない。
ジェット機が滑走路に就く。一瞬の静寂の後、エンジンが全開になり、見る間にスピードを上げていくジェット機。
「すはっ、すはあああああっ‼︎はーちゃんさあああああんっ‼︎」
胸と肩いっぱいの息で、恵美ちゃんが声の限りに叫ぶ。その叫びを受けながら、ジェット機が飛び立った。あっという間にその姿が小さくなり、青空に消えていく。
「うっ…うう…ひっく…はーちゃん…さんー…」
泣きじゃくる恵美ちゃんの声を聞きながら、ふーちゃんと俺は、飛行機が飛び去った空を眺めた。
「とうとう行っちゃったもん、はーちゃん」
「そうだな…」
そしてまた、しばし言葉もなくたたずむ。そうするうち、恵美ちゃんがやっと泣き止んだ。
「メグちゃん、大丈夫?」
「うううん…」
ハンカチで目元を拭う恵美ちゃん。愛らしい輪っか三つ編みと、丁寧にピン留めされたうなじが悲しい。
「ボク…」
ぐずっ、と恵美ちゃんは大きく鼻をすする。そしてその口から、こんな言葉を漏らした。
「島にい、帰るう」
「えっ!」
二人して驚きの声を上げるふーちゃんと俺。
「メグちゃん…、帰っちゃうのぉ?中穴島に」
「うんー」
力なくうなずき、口を開いて「すはっ、すはあっ」と、泣いて乱れた息を吸う恵美ちゃん。
「姉貴も戻って来ないしい、はーちゃんさんもお、いなくなっちゃったしい…、ボク、ここにいても寂しいだけだよお…」
またそのつぶらな瞳から涙が流れる。泣き過ぎた一重まぶたが腫れあがっているのが痛々しい。
「ぐずっ…、どうせえ、寂しいならあ…、すはあああっ、住み慣れたとこにい、すはあっ、いるのがあ、いいー…す、すはああっ、ひいいいいいん…」
恵美ちゃんの小さな肩が、またぐうっと上がって泣き始める。そうか…。そうだよな。もう恵美ちゃんの元には、はーちゃんも博美もいない。下宿にいてもずっと一人ぼっちだ。それなら、かわせみ荘でお父さんお母さんのそばにいるほうが、幸せだろう。
「すはあああっ!ひいいいい…いい…いいん…っ!」
十一月も下旬。冷たい木枯らしが送迎デッキに吹き抜ける中、恵美ちゃんが泣き続ける。そんな恵美ちゃんを、俺もふーちゃんも、見守ることしかできなかった。

その夜。沈んだ気持ちで下宿のベッドに横たわる。はーちゃん、もう東京に着いたかな。俺は起き上がってスマホを開け、はーちゃんにラインした。
『はーちゃん、もう着いた?今通話していい?』
気持ちがはやる。はーちゃん!声が、聞きたい。でも…、既読が付かない。五分待つ。十分待つ。でも付かない。はーちゃん、どうしたの…。がまんできなくなって俺は、再び指を画面に走らせる。
『はーちゃん?何かあった?』
だけどやっぱり、いつまで待っても既読にならない。はーちゃん…。不安が押し寄せる。たまらなくて、とうとう俺ははーちゃんに電話した。呼び出し音一回、二回…、はーちゃん出て。五回、六回…、はーちゃん声聞かせてよ。十回、十一回…、はーちゃんったら!二十回、二十一回…。
「……………」
俺は呆然としつつ電話を切った。はーちゃん…。どうして電話もラインも繋がらないの?もう寮に着いてるでしょ?それともどっか他のとこにいるの?でもどこにいたってラインくらい既読にできるよね。募る不安をどうしようもないまま、孤独な夜が過ぎる。その後も通話はおろか、既読すら付かない。まともに眠れない俺だった。

翌朝、寝不足の目を覚ますと、枕元のスマホに通知が来ていた。はーちゃんだろうか。触れてみる。大きな白い吹き出しが画面に現れた。
『論理。ゆうべはラインも電話もできなくてごめん。寮には無事に着いた。到着早々、かなり立て込んでる。初めての場所で、右も左もわからないうちに、やらなきゃいけないことがすごく多い。あたしも論理と話したいけど、電話もラインもしている暇がなさそうだ。悪いけど、こっちから連絡するまでは電話もラインもやめといてくれないか。どこにいたって論理のこと忘れないから。信じててくれ』
そんな…。俺、はーちゃんに電話もラインもできないの?確かにはーちゃんのこと信じてるけど、今日どこで何をしてるかぐらい知りたい。そんなこともできないほど忙しいの。俺、千キロも離れた玉都から、黙ってはーちゃんを見守るしかないの…。

はーちゃんと一切連絡が取れないまま数日が過ぎる。寂しくて不安でつらい。そんな俺を、毎日大学でふーちゃんが元気づけてくれる。はーちゃんの話はわざとしないで、テレビのこととか、大学のこととか、部活のこととかを、明るく話してくれるふーちゃんの優しさが、痛み続ける俺の心にしみた。そうやって過ごすうち、恵美ちゃんが中穴島に帰る日が来た。

十二月の二日。どんよりと鉛色に曇った空から、北風に乗って風花が舞う。そんな天気の中、玉都港の乗船口に恵美ちゃん・ふーちゃん・俺の三人が立つ。博美の姿はない。「秀哉のとこにいたい。メグ、用意ができたらいつでも行っていいよ」と、恵美ちゃん博美からラインで言われたそうだ。どこまで薄情で身勝手な姉なんだろう。
「中穴島方面、一種島(いちたねじま)大涼(だいりょう)行きフェリー、まもなく出港となります。ご乗船のお客様はお急ぎください」
淡々とアナウンスが流れる。恵美ちゃんが顔を上げた。
「ロジックう、ふーちゃんー」
恵美ちゃんの、響きのあるアルト。次に直接聴けるのは、いつなんだろう。そんなことを思う俺の気持ちを見通したように、恵美ちゃんがこう言う。
「また会えるよねえ。二人でえ、島あ、遊びに来てねえ」
「うん」
にっこり笑って、ふーちゃんがうなずく。
「きっと行くよぉ。メグちゃん、寂しいけど、元気で過ごすんだよぉ」
「ありがとおふーちゃんー」
手を握り合う恵美ちゃんとふーちゃん。そして、愛らしい輪っか三つ編みが、俺を見つめる。
「ロジックう、島でロジックに出会ってからあ、いろいろあったけどお、一緒にいっぱい楽しんでやったぞお。ありがたく思いなあ」
いつもながらの、ちょっと面憎いくらいの、恵美ちゃんの毒舌。「バカみたいにヘンな名前だねえ」だなんて言われたこともあったっけ。
「恵美ちゃん…」
俺も恵美ちゃんを見つめた。中穴島で恵美ちゃんから受けた優しさ、俺決して忘れない。
「うん楽しかった。でも恵美ちゃん、一人で帰るの怖いし寂しいよな…」
「うううん、だけどお、大丈夫だよお。はーちゃんさんにい、前髪切ってえ、もらったものお。ボクう、胸張れるう」
恵美ちゃんの眉の上三センチで、前髪が今もきれいに揃っている。はーちゃんに切ってもらったの、嬉しかったんだろうな。
「それにい」
恵美ちゃんが、俺の手を取る。ふわりとしたマシュマロのような、いつもの恵美ちゃんの手。
「ロジックにい、言ってもらったもんねえ。ボクをー、見つめる人お、きっと現れるってえ」
「うん!恵美ちゃん、優しいしかわいいから、きっと出会いがあるよ」
恵美ちゃんが微笑む。今日は泣いてない。よかった…。恵美ちゃん、前を向いてね。寂しさに負けないで。
「ありがとおロジックう。ロジックのおかげでえ、ボクう、前よりちょっとお、男も怖くなくなったあ。そこらへんのお、雑魚男なんてえ、うんこ漏らしてえ、べそかいてればいいんだあ」
「ふふ、そこまで言えるなら大丈夫だな」
固く手を握りあう恵美ちゃんと俺。恵美ちゃんの笑顔がまぶしい。中穴島でも感じたけれど、この子と巡り会って本当によかったと思う。
「ロジックもお、はーちゃんさん東京行っちゃってえ、寂しいだろうけどお、負けちゃダメだぞお」
「ああ」
俺の脳裏にはーちゃんがよぎる。依然、連絡は取れていない。待つしかできない俺…。でも、恵美ちゃんに力づけてもらっている。うつむいてばかりいられない。
「それじゃあ、そろそろお、行くねえ。ロジックとお、ふーちゃんにい、見送ってもらえてえ、よかったよお」
恵美ちゃんが足元の荷物を手にした。本当は、博美もはーちゃんもいなくなって寂しいだろうに、健気な子だな…。俺は今一度、恵美ちゃんを見つめる。短く揃った前髪、左右の大きな赤いリボン、輪っか三つ編み、目鼻立ちが小さく整った(でも口元は最後まで気になった)かわいらしい顔。今度会う日まで忘れないように、しっかりと頭に焼き付ける。
「メグちゃん、元気でねぇ。道中気をつけて」
「恵美ちゃん、お互い明るくやろう」
「うんー!」
笑顔を弾けさせて、こっくりとうなずいてくれる恵美ちゃん。そして俺たちに背を向けて歩き出す。船に乗り込む直前、恵美ちゃんは振り返って大きく手を振った。
「ロジックうー、ふーちゃーん、ばいばああい!」
「バイバイメグちゃーん!」
「またなー!」
そして恵美ちゃんは、フェリーの中に消えて行った。まもなく汽笛が鳴り、船が岸壁をゆっくりと離れる。恵美ちゃんを乗せたフェリーが、初冬の海に進んでいくのを見送る、ふーちゃんと俺。
「メグちゃんも行っちゃったもんねぇ」
海を見つめながら、ふーちゃんがぽつりと言う。
「そうだな…」
一陣の海風が、ふーちゃんの艶やかなセミロングを揺らした。相変わらず脂質感のある、深い黒髪だ。
「はーちゃんも恵美ちゃんもいなくなって、やっぱり、ちょっと寂しいな…」
気落ちしてはいけないと思いつつ、うつむいてしまう俺。
「こら論理くん」
そんな俺の腕を、いたずらっぽく突っつく文香。小さくて細いその瞳が、優しく微笑っている。
「元気出しなさい。ふーちゃんさまは、どこにも行かないゾ」
「ふーちゃん…」
「もぉ論理くんったらぁ、そんなに元気のない顔ばっかしてちゃダメダメなんだもん」
「うん…」
思えば文芸部も、これで六人減った。本島先輩、村上、博美、坂口、はーちゃん、恵美ちゃん。一年生で残ったのは、もうふーちゃんと俺だけだ。村上と博美と坂口は、消えるべくして消えたのだから別にいいけれど、それでもかつて「ハ行トリオ+論理くん」でやっていた頃が懐かしい。
「論理くん、そう言えばさぁ」
ふーちゃんはそう言って手を伸ばし、俺のサイドの髪に触れた。
「耳たぶ、もうかなり隠れちゃってるもん。最近髪切ってないでしょぉ」
「だけどさ、ふーちゃん…」
暗い俺の顔が、一層暗くなってしまう。
「次に髪切るときも、その次に切るときも、ずっと、はーちゃんと一緒に切るって、約束してるんだよ」
「そうだねぇ」
文香は指先で、俺の髪をこね回しながら、こう言った。
「でもさぁ論理くん、そんな約束押し退けて、はーちゃん行っちゃったんだもん」
「……………」
黙り込む俺の横顔を見つめる文香。やがて「すはああっ」といきなり息を吸い込むと、歌い出した。
「さーくーらー、さーくーらー、すはああっ、いーつーまーでーまーってーもー、こーぬひーとーとー、すはああっ、しーんーだーひーととーはー、おーなじーこーとー」
「そんな…、ふーちゃん…」
「でもそんなようなもんじゃん。はーちゃん、もういつまで待っても来ないもん」
「だからって、『死んだ人とは同じこと』だなんて…」
「つまりはさぁ論理くん」
ふーちゃんはにこにこ微笑みながら、俺のお腹に右手を伸ばした。ふっくらとした温かみを、脇腹に感じる。
「それくらい思い切ることも必要ってことだもん。私、論理くんの切り立て耳たぶおかっぱ、そろそろ見たいなぁ」
前髪に触れてみる。もう眉上一センチくらいまで伸びてきている。はーちゃんと一緒に「ブラックハウス美容室」に行ってから、四週間くらいになる。確かに、もう揃えてもらわないと、伸びすぎな印象が拭えない状態だった。はーちゃん…。今度も一緒に耳たぶおかっぱになりたかったけど…。
「わかった。この後美容室行ってくるよ」
「うんうん」
ふーちゃんの右手が、俺の脇をぽんぽんとたたく。
「どうせだからさぁ論理くん、いつもよりちょっと短くしてもらいなよぉ。気合い入っていいかもだもん」
「そうだな…。そうするか」
いつまでもしょげた顔ではいけない。はーちゃんも夢に向かって脇目も振らずにがんばってるんだ。俺もシャキッとしよう。温かく励ましてくれるふーちゃんと、俺は手を振りあって別れ、「ブラックハウス美容室」に向かった。
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