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五十五、こんなおかっぱ、全然萌えない

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英会話でふーちゃんを存分に感じてから、俺とふーちゃんは地下一階の国文学概論の教室に向かった。入り口をくぐると、すでに遥と博美と恵美ちゃんが並んで座っている。
「はあーい」
陽気な声で三人に声をかけながら、遥たちの後ろに座る文香。その後に続く俺。博美の真後ろになった。
「は・あ・ちゃん!」
そう言って、ふーちゃんがはーちゃんの肩をポンとたたく。
「ふーちゃん…」
遥が文香を見つめる。まだ、信じられないといった表情がその顔にあった。
「ほんとに、あたしと…」
「うんっ、なっかなおりっ」
「ふーちゃん…。ありがとう…。ぐずっ」
はーちゃんの黒くて大きな瞳が、また潤む。
「よかったよお。これではーちゃんさんとふーちゃんー、またお友だちなんだねえ」
隣で恵美ちゃんも嬉しそうだ。だけど、博美はそんな様子を見向きもしない。正面を向いたまま、ぼうっとしている。見れば、耳たぶおかっぱがボサボサだ。髪全体が脂ぎり、毛先もハネて、カットラインが派手に崩れている。こんな博美、初めて見た。
「はーちゃん、顔の腫れ、引いてないねぇ」
「ああ…」
薄青く腫れた頬をなでる遥。唇も内出血して、紫色になっている。
「かなり殴られたからな。身体中痣だらけだ」
「くっそお」
小さな身体を怒りに震わせる恵美ちゃん。
「姉貴い、坂口い、ひどいよねえー」
恵美ちゃんが博美にそう声をかける。でも博美は首をこちらに向けようともせず、ぼうっと無言だった。
「姉貴い?」
「え?」
やっとこちらを向く博美。
「何か、言った?」
博美がぼんやりと応える。その顔に表情がない。口角からは力が抜け、だらりと下がっている。
「……………」
そんな姉を、言葉もなく悲しげな顔で見やる恵美ちゃん。
「ひーちゃん、どうしたのぉ?」
文香も心配げに声をかける。
「う、うん…。なんでもない」
その応えに元気がまるでない。瞳にも焦点がなかった。博美には冷めたけれど、さすがにちょっと気がかりだ。そして教室に教授が入ってくる。俺の前で姿勢を正す博美。襟足の剃り跡も伸びていて、その中に左のほくろが埋まっている。カットラインはやっぱりボサボサだ。「耳たぶおかっぱはカットラインが命じゃないの。ちゃんとドライヤー当てなくてどうするの」って、俺をどやしつけた博美だとは思えない。どうしたんだろう…。そうだ恵美ちゃん何か知ってるかもしれない。俺は机の下でこっそりスマホを開け、恵美ちゃんにラインした。
『恵美ちゃん、ひーちゃん元気ないね。どうしたのか知ってる?』
恵美ちゃんがラインに気づく。俺の方をちらりと見た後、うつむいて、やっぱり机の下でラインを打ち始める。ぎゅっと結い上げられた襟足と、後ろ頭にきれいに真っ直ぐ通った分け目、丁寧にピン留めされた後れ毛と、真っ白なうなじが、恵美ちゃんらしいかわいらしさを湛えている。それに今日、恵美ちゃんセーラーだ。W字の黄色い後ろ襟が愛らしい。
『ロジック…。姉貴ゆうべ、お風呂にも入っていないんだよ。服も着替えてない。ごはんも食べてない』
『ええ?』
『昨日出港間際まで姉貴、博紀さんと目一杯抱き合ってて、お別れするのすごくつらそうだった』
それは、直前日まであそこまでベタベタしていれば、そうもなるだろう。
『それに、博紀さんが心憎いことやるし』
『どんなことしたの?』
『船ってさ、出港するときに乗客がデッキに出て、岸壁の見送りの人に紙テープ投げるじゃん。んで、船が出港して動き始めて、テープが切れるまで乗客と見送りの人が繋がってるっていう』
『ああ、そんなしきたりあったな』
『あれを博紀さんと姉貴もやったんだよ。博紀さん、黄色い紙テープを岸壁の姉貴に投げてきた。そしたらそのテープの端にさあ』
『端に、どうしてあったの?』
『爪で『まってろよ』って文字が刻んであった。姉貴、それ見てこらえきれなくなって泣き出しちゃって』
なんだそのクサい演出。俺たちの前では面憎いほど落ち着いて、声には威圧感たっぷりの部長。その部長が「まってろよ」?笑わせるんじゃない。
『ひーちゃん、それで泣いちゃったのか』
『うん。出港してだんだんテープが伸びていくでしょ、そうなってくと『博紀さん、博紀さあん…』って泣き叫んでさあ。船が遠くに行って、テープが切れちゃってからも、切れ端を握ったまんま立ち尽くしてた。んでその後『一人になりたい』って言って、どっか行っちゃった』
なるほど…。いくら博美自身が選んだ道とはいえ、ちょっとかわいそうかもしれない。
『それでひーちゃん、家ではどうだった?』
俺のラインを受けて、恵美ちゃんがリプを書いてくれる。うつむいた赤い大リボンと、前に垂れる輪っか三つ編みがかわいい。その三つ編みの向こうに見える、白くてふっくらした頬と、愛らしい二重顎。恵美ちゃん、なかなか萌える。呼吸は普段は目立たないけど、たまに大きく口を開いて息を吸い込むと、ふーちゃんみたいな「すはあああっ」て音がするし、肩もぐっと上がる。そんな恵美ちゃんが、リプにこう書く。
『帰ってくるなりリビングに倒れ込んじゃって、動かなくなっちゃった。ごはんも食べずに、お風呂にも入らずに、そのまま朝まで』
『部長と通話とかラインとかできなかったのかな』
『よくわからないけど、もしできるんなら、夢中になってしてるはずだから、なんかの理由があってできなかったのかも』
そうか。博美、部長と別れたばかりでいちばん寂しい夜に、連絡取れずじまいで夜を明かしたか。俺は今一度、博美のボサボサおかっぱを眺めた。多少、気の毒な感じはした。
『ひーちゃんがそんなになって、恵美ちゃんもつらかったろ?』
『うん…。ゆうべは姉貴のそばについてたよ。姉貴の気持ちが流れ込んできて、ボクも泣いた』
恵美ちゃんの優しい共感力。中穴島での俺も、恵美ちゃんに温かく共感してもらった。でも、恵美ちゃんはこんなことを書く。
『だけどボク、姉貴にウザがられた』
『えっ?』
『『なんでメグがめそめそしてるの、メグが泣いたからって何も変わるわけじゃないのに。メグのそういうとこ嫌い』って。しょーもないねボク。台所の三角コーナーにたまった生ゴミみたいなやつだよ』
そう書き送った恵美ちゃんが、俺に振り返る。寂しげで悲しそうな表情が浮かんでいた。そんな…博美、そんな言い草はないだろ!恵美ちゃんの優しさを踏みにじってる。
『博美ひどい。恵美ちゃんが泣いてくれてるのに』
人前でひーちゃんと呼ぶ気も失せた。博美には冷めていたけれど、これで心底いやになった。
『いいよもう。姉貴に八つ当たりされるの、慣れてるしさ』
そう書く恵美ちゃん、言葉に反してつらそうだ。
『そんな人間性しか持ってないやつに恋して、遠路はるばる中穴島にまで行った自分が情けないよ』
『姉貴を嫌わないでいてあげてロジック。姉貴、芯からつらくて寂しいんだから。だからボク、ウザがられても姉貴のそばにいるもの。明かりにまとわりつく蛾みたいにね』
恵美ちゃん…。遥に対しても、博美に対しても、一途で優しいな。しみじみ、いい子だと思う。それに引きかえ博美は…。俺は博美の乱れきった後ろおかっぱを睨んだ。なんだ、こんなおかっぱ、全然萌えない。これなら俺自身の耳たぶおかっぱのほうが、よほど(自分自身に萌えるなんてことも異例かもだけど)萌える。授業中だけど俺は手鏡とブラシを取り出し、耳たぶおかっぱに丁寧にブラシを入れた。もう一枚の手鏡と合わせて後ろも見る。カットラインも襟足の剃り跡もかわいくきまっている。うん、博美なんかよりずっと気持ちいいおかっぱだ。なんなら一度、鏡に映った自分自身でちょっとオナニーしてみよかな。ひょっとして博美でオナニーするより成功したりして。まあ、自分では勃たないから無理だろうけど、そこまでやりたい気持ちだ。
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