上 下
50 / 85

五十、お前に原稿を渡したい

しおりを挟む
九月に入り、文芸部はいよいよ、年一回発行の部誌「業火」の編集発行に向けて動き出した。機関誌局の出番が来る。まずは部員のみんなに原稿を出してもらわねばならない。締切は部長が上海に発つ、九月の十五日だった。
原稿は、部の最重要書類なので、機関誌局員が必ず、部員から手渡しで受け取る。この原稿受け取りが、一年生機関雑誌局員の博美と俺の仕事だった。毎日夜七時半まで部室に残り、部員が原稿を持ってくるのを待つ。締め切りまで一週間を切ったこの日の夕方も、俺は部室で原稿を待っていた。博美はというと、「原稿を待つ」という名目にかこつけて、部長と並んで座り、その肩に顔を埋めている。時折何かささやきあっているけれど、聞く気にもならなかった。その隣には恵美ちゃん、もう一つ隣には文香がいる。部誌に掲載する詩の原稿を清書しているところだった。
「ねえ論理くぅん」
原稿用紙に慎重にペンを走らせながら、文香がいつもの少年声を出す。お気に入りの黄土色花柄セーラーワンピの背中ファスナーを真っ直ぐ伸ばし、ぎゅっと深くうつむいた理想的な姿勢で紙に向かっているふーちゃん。丁寧に切り揃えられたセミロングも相変わらずかわいい。
「うん?どうしたふーちゃん」
「論理くんはさぁ、『業火』に作品載せないのぉ?」
「ああ、そうだな…」
歌詞を載せたいとか、俺ブログで書いてたっけな。夏休みの終わり頃になったら、一編練ってみようかとも思っていた。でも、ひーちゃんに失恋して、感傷旅行もして、なんてしてるうちに、そんなこと忘れ果てていた。
「今年はいいかな。思いつかないし」
俺がそう言うと、ふーちゃんは驚いて顔を上げた。
「えー、論理くん出さないのぉー。そんなぁ。もったいないもん」
「まあ、せっかく自分の作品活字にできるチャンスだけどな。でも思いつかないものはしょうがないよ。今年は見送る」
「うーん、寂しいんだもん」
口をへの字に曲げるふーちゃん。その脇では、部長と博美が、引き続きベタベタとささやきあっている。うっとうしいな。原稿受け取りは俺一人でやるから、どっか別の場所に行っててくれないかな。
「メグちゃんはどぉ?もう私たちの仲間なんだしぃ、作品載せてもいいと思うもん」
「ボクう?まさかあ」
恵美ちゃんが笑って手を振る。
「学校の作文だってえ、苦手だったものお。詩とか小説だなんてえ、遠く及ばないー。チラシの裏にい、くだらないこと書く程度だよお」
確かに恵美ちゃん、文芸創作って感じはしないよな。
「よし、書けたあ」
文香がペンを置き、「うーん」と伸びをする。そして原稿を手に取り、俺に渡した。
「はい論理くん。よろしくねー」
「了解。確かに受け取った」
原稿用紙には、あのふーちゃんの文字。筆圧が強くて濃くて角張った、男の子っぽい文字が並んでいた。
「詩だね。ねえ、読んでいい?」
「やだもん!」
ふーちゃんはあわてて、原稿を隠すように、その上に両手を突き出した。
「今はやだぁ。恥ずかしいもん」
「えー、どうせ読まれるもんじゃん」
「そーだけど今は恥ずかしいもんー」
そんなことを言いながらふーちゃんとじゃれあう。やっぱふーちゃん、かわいいし楽しい。脇で博美が部長といちゃついているだけに、一層そう思う。
「……………」
そのとき、ガチャリと扉が開き、部員が一人無言で入ってきた。村上だった。その手に、厚みのある紙束を握っている。原稿か。
「古本。原稿だ」
博美につかつかと歩み寄った村上。相変わらずの無愛想な声でそう言うと、博美に原稿を突き出す。でも博美は部長の胸に顔を埋めたまま動かない。
「論理くんに、渡して」
「古本。俺は機関誌局員に原稿を渡しに来たんだぞ」
村上の声が苛立ちを帯びる。村上、博美はご多忙だぞ。原稿は俺が受け取ればいいじゃないか。
「だから論理くんに渡してと言ってるでしょう」
部長の胸から顔を上げないまま、博美が答える。
「いい加減にしろ古本。お前は部員から原稿を受け取るのが仕事だろう。くだらんいちゃつきをしている暇があったら、文芸部員らしくしろ」
うん。確かにそうかもしれない。ムカつく村上だけれど、このときばかりは正論を言ったと思った。
「なら文芸部員らしくなくていい」
「古本!俺はお前に原稿を渡したいんだ!」
いきなり村上が大きな声を出す。こいつ…、何言ってるんだ?
「村上くん?」
さすがに部長の胸から顔を上げ、博美は村上を見た。そんな博美に、村上は原稿を突きつける。その顔が赤く上気している。どうしたんだ一体?
「ほらよ!」
「う、うん…」
勢いに負かされて、村上から原稿を受け取る博美。その瞬間、村上は踵を返し、さっと外に出て行ってしまった。あっけに取られて後に残される俺たち。何だ村上のやつ。訳がわからんな…。
しおりを挟む

処理中です...