上 下
49 / 85

四十九、恵美ちゃん、やっと会えたね

しおりを挟む
翌日十時四十分、俺は、俺にとって後期最初の授業になる「教育原理」に出た。教職課程は、他に誰もとっていないから、教室にハ行トリオの姿はない。いきなり博美に会うことがなくて、少し気が楽だった。でもそうは言うものの、みんなの顔が見たくなる。授業後手早く昼食をすませ、俺は文芸部室に向かった。学生会館五階に上がり、いつもの無愛想な扉を開ける。中には、文香と博美、そして恵美ちゃんがもういた。
「あ、論理くん」
博美が俺に顔を向ける。無表情だった。合宿のとき以来なのに「久しぶり」の一言もないんだね…。しょげかける俺。でも気を取り直す。博美なんて、もう一文芸部員なんだ。
「ひーちゃん。ふーちゃんも。元気だった?」
「うん元気だもん」
無表情な博美とは好対照に、にこにこ微笑みかけてくれるふーちゃん。そんなふーちゃんと手を振りあう。
「ん?この子は?」
まるで初めて恵美ちゃんを見たような声を出す俺の演技。心中笑ってしまう。
「紹介するね。妹の恵美。メグ、こっちは太田論理くん」
俺を見る恵美ちゃんも、目が笑っている。
「はじめましてえ。ボク恵美い。よろしくう」
そう言って恵美ちゃんは俺に右手を差し出した。
「はじめまして。太田論理です。よろしく恵美ちゃん」
恵美ちゃんの手を握り返す。十手高校の芝生のときとかわらない、マシュマロハンドだった。
「あら、メグ珍しいこともあるね。いきなり男の人と握手?」
「あ、いやそのお…」
恵美ちゃんが慌てる。
「ロジ…ううん、論理さんー、あんまり男って感じしなくてえ」
「だよねぇーメグちゃん」
脇からふーちゃん。
「論理くん、かわいいから男の子って感じしないもんねぇー。髪型も耳たぶおかっぱだもん」
ふーちゃんがそう言ったとき、博美が俺の髪をちらりと見る。嫌悪感があった。俺、さっきもトイレで、耳たぶおかっぱカンペキにとかしてきたのに…。つらいけど、この人のことはもうしょうがない。
「それで、妹さんがどうしてここに?」
わかりきっていることを、しらばくれて博美にたずねる俺。
「訳あって振玉から出てきたんだよ。朝、私が大学行くって言ったら、寂しがってついてきちゃって」
博美がそう言ったとき、部室の扉が開く。部長と坂口が入ってきた。「博紀さん…」と博美が小さくつぶやくのを、俺は聞き逃さなかった。
「やあやあやあ」
相変わらずのうるさい声の坂口。確かに顔はきれいだけれど、もう見飽きた。
「おぅ、ひーにふーに論理。元気だったか」
しかしその呼び掛けにまともに答えない俺たち三人。この男と話をしようだなんて、誰が思うものか。だが坂口はそれも気にしない様子で、こんなことを言う。
「お。新顔だなお姉ちゃん。どこの何様だ?」
「あ、え、えとお…」
見る間に恵美ちゃんの顔が恐怖に包まれていく。
「坂口さん」
何も言えない恵美ちゃんに代わって、博美が冷たい声を出した。
「こっちは私の妹の恵美です。メグ、この人は坂口秀馬さん」
その名前を聞いた恵美ちゃんの小さな円い瞳が、「こいつが…」というように見開かれる。そうだよ恵美ちゃん、こいつが坂口秀馬だよ。
「そうか、ひーの妹か。そうすると、姉妹で同学年か」
「いえ…」
博美の顔に困惑が浮かぶ。
「妹は清心館(ここ)の学生じゃありません。私と一緒に来たいと言うので連れてきました」
「なに?」
坂口が表情を強ばらせ、恵美ちゃんを睨む。縮こまる恵美ちゃん。
「お前部外者か。それなら立ち入り禁止だ。そうですよね部長。出ていってもらいましょう」
「博紀さん!」
博美が部長の腕を取る。
「妹は極端に寂しがりで、いつも私と一緒にいないとたまらないんです。お願いします、妹をここに置いてくださいませんか」
「何を言っているんだひー。部外者立ち入り禁止は基本原則だぞ」
でも博美は坂口など一瞥もせずに、部長の腕を取り続ける。
「お願いします博紀さん、無理は承知です」
「いい加減にしろひー。そんな言い分が──」
「黙れ坂口」
重々しい声が響いた。部長の銀縁眼鏡と、カマキリのような相貌が、坂口を見据える。
「博美の妹だというなら、信用に値する。文芸部は古本恵美を準部員として受け入れる」
恵美ちゃんがパッと顔を上げる。表情が輝いていた。
「部長!そんなめちゃくちゃな。基本原則を──」
「坂口。お前に発言権はない」
「くっ…」
部長に切って捨てられた坂口は、憮然とした顔で部室を出ていった。そして東尾部長は、恵美ちゃんに向き直る。
「博美の妹なら、俺も親しめそうだな。部長の東尾博紀だ。よろしく頼む」
「は、はいー。お噂はあ、かねがねえ」
ちょっと緊張した素振りで、頭を下げる恵美ちゃん。そのとき扉が開いた。
「ちぃーっす」
あのベビーソプラノとともに、背中まである黒髪ロングヘアが部室に入ってきた。遥だ。
「あっ…ああっ…!」
恵美ちゃんの小さな叫び声。そのつぶらな垂れ目の瞳が、遥に釘付けだ。顔はもう、耳まで真っ赤に染まっている。恵美ちゃん、やっと会えたね。
「よぉ、みんな。元気だったか」
片手を上げる遥。でも文香はそっぽを向く。まだまだ遥を許してはいないようだ。
「……………」
そんな文香を遥は、悲しげな目をしてしばらく見つめていたが、やがて俺たちに向き直った。
「ん?お初な子だな。新入部員か」
黒髪輪っか三つ編みをのぞき込む遥。「きゃっ…」と首をすくめる恵美ちゃん。
「あ、はーちゃんも初対面だったね」
と、博美の声。
「私の妹の恵美だよ。メグ、こっちは佐伯遥ちゃん。はーちゃんだよ。ラインでも話したでしょう?」
「あ…あのお…」
小さく開いたその唇から、恵美ちゃんが熱い声を漏らす。円くて小さな瞳がきらきらと輝いている。はーちゃんに会えて嬉しいんだなきっと。
「はーちゃんさんー、古本…恵美ですう。よろしくお願いしますう」
「おぅ。あたし佐伯遥。よろしくな。んと、恵美でいいか?」
「はいー、もちろんですうー」
これ以上嬉しいことはない、というように顔を目一杯きらめかせる恵美ちゃん。
「それで、恵美も一年生か?学部はどこだ」
「あ、それがねはーちゃん」
博美が、恵美ちゃんのことを遥に話して聞かせる。
「そうか。ひーちゃん恋しくて、振玉からわざわざ出てきたんか」
「は、はいー。文芸部にい、紛れ込ませてもらいましたあ」
「それはよかったな。仲良くやろうぜ恵美」
そう言って遥は手を伸ばし、恵美ちゃんの結い上げられた頭をポンポンと撫でた。
「きゃっ」
また首をすくめる恵美ちゃん。その顔はもう茹で蛸みたいになっている。本当に嬉しそうだ。
「はーちゃんさんー、よろしくお願いしますう。お会いできてすごおく嬉しいですう」
恵美ちゃんの声が明るく弾む。感動のご対面シーンだ。でも、その脇で苛立たしげに立ち上がる人影がある。
「ごめん、屋上行ってくるもん」
ふーちゃんだった。俺たちをすり抜けて扉を開け、外に出て行ってしまう。
「ふーちゃん…」
閉じられた扉を、悲しげに見つめる遥。ふーちゃん、まだはーちゃんを許せないのかな。もう本島先輩というイケメンの彼氏だってできたんだから、いいじゃないかと思うけど、まだダメなんだろうか。
「あ、あのお…」
扉を見やる遥に、恵美ちゃんが声をかける。
「うん?何だ恵美」
くっきりとした二重まぶたが、恵美ちゃんに向き直る。
「あ…。えと、そのお…」
相変わらず真っ赤な顔の恵美ちゃん。でも、意を決したように口を大きく開き、「すはあああっ」と息を吸い込む。その小さな肩がふーちゃんみたいにぐっと上がった。
「お近づきのしるしにい、あのお…、お茶とかご一緒にい、いかがでしょうかあ…」
恵美ちゃん、さっそくアプローチか。ニヤつく俺。その隣で、そう言われた遥が、にっこり笑う。
「あたしとか。いいぜ。じゃあみんなで『yours』行くか。三限目空きコマだったろ」
「あ、私は」
博美が首を横に振る。
「博紀さんと一緒にここにいる。はーちゃんたち三人で行ってくるといい」
博美、さっそく部長とベタベタか。まあいい、好きにすれば。
「わかった。んじゃ論理、恵美、行くぞ」
「あ、ありがとうございますう」
そう言いつつ、遥のあとをちょこちょことついて行く小柄な恵美ちゃんがかわいい。俺たちは三人連れ立って「yours」に向かった。

夏の名残りを色濃く残す強めの日差しが差し込む中、三人でテーブルを囲む。俺と恵美ちゃんが隣どうし、恵美ちゃんの正面に遥が座った。頬を引き続き赤々と染めながら、恵美ちゃんは熱い瞳でじっと遥を見つめる。よかったな恵美ちゃん、会いたくてたまらなかった人にやっと会えて。
「ん?どうした恵美。あたしの顔になんか付いてるか?」
「うううん…」
うっとりと声を漏らす恵美ちゃん。
「はーちゃんさん、かあいいですう…。姉貴からあ、聞いてましたけどお、こんなにかあいいだなんてえ」
「かあいい?あたしがか」
遥は顔をニンマリさせ、「ふふん」と笑う。
「まあ、よく言われるな」
「そうですよねえそうですよねえ」
深々と何度もうなずく恵美ちゃん。赤い大リボンと輪っか三つ編みが揺れる。
「ううぅ…、はーちゃんさんかあいいですう。見惚れちゃいますう。AKB四八があ、一〇〇になったってえ、二〇〇になったってえ、こんなに見惚れちゃわないですう」
「恵美ちゃん、あんまりはーちゃんをその気にさせるな。はーちゃん単純だから」
「んだとぉ、かわいいあたしをかわいいって言って何が悪ぃんだ論理」
そう言って俺を小突く遥。確かに遥、かわいいと言えば、かなりかわいい部類に入るだろう。下手をすれば本当にアイドル声優になれる。ただ、俺にとってはちょっと目が大きすぎるんだよな。俺の好みはやっぱ、ふーちゃんの日本人形顔だ。
「あ、ちょっと待ってくれ」
そのとき遥がスマホを取り出し、画面に指を走らせ始める。
「ラインか?」
「ああ。秀馬さんに連絡をする時間だ」
秀馬という名前が、俺と恵美ちゃんの顔に陰を落とす。場はしばし無言。「ん…」と物憂げな息をつきながらラインの画面に向かう遥。
「坂口、何て?」
「リプが来ねぇ。既読にもならん。どうしたんだろう」
黒い大きな瞳に、不安が宿る。
「坂口、怒ってるな」
「え?何でだ」
俺は、遥が部室に来る直前の経緯を話して聞かせた。
「え…。秀馬さん、部長にメンツつぶされてるじゃねぇか」
そわそわし始める遥。
「ダメだ…。今夜またぶたれる。ケインだな、たぶん…」
「はーちゃんさんー」
恵美ちゃんが、いきなり遥の手を握る。
「恵美?」
「はーちゃんさんー、彼氏にい、ひどいことお、されるんですかあ?」
「あ、いやその…」
遥の顔に困惑が浮かぶ。初対面の恵美ちゃんの前でうっかり口を滑らせたな、という色があった。
「恵美ちゃん」
そこで俺は口を開く。胸と肩いっぱいに息を吸い込み、語りだす。
「坂口秀馬という男は、はーちゃんの彼氏を名乗りながら、はーちゃんに乱暴を働く人非人だ。殴る、蹴る、鞭や棒で打つ、何でもござれだ。はーちゃんはいつも傷だらけになって全身から血を──」
「やめてくれ論理」
遥が顔を歪ませる。はーちゃん、またそんなこと言って。傷めつけられてるの、事実だろ。
「やめてくれ…。あたしの気持ち、知らねぇなんて言わせねぇぞ」
「はーちゃんさんー」
遥の手を、力を込めて握る恵美ちゃん。
「いつも泣いてるんですよねえー。つらそうにい」
はーちゃんの泣き声は、たっぷり聞いた恵美ちゃんだった。
「まあ…。泣くことは、泣く。つらくねぇはずはねぇからな」
「はーちゃんさんー、目の前をー、彼氏でいっぱいにい、しないで下さいー」
遥の手を揺さぶる恵美ちゃん。
「はーちゃんさんのお、目に入らないとこでえ、はーちゃんさんをー、見つめてる子があ、いるかもお、しれないですう」
「え?あたしの目に入んねぇとこで?」
突然の恵美ちゃんの発言に、いぶかしげな顔を見せる遥。
「そんなやついんのか」
「いますう」
「なんでそんなことがわかるんだ恵美」
「そ、それはあ…」
言い淀む恵美ちゃん。さすがに「ボクが見つめてますう」とは言えないようだ。
「…はーちゃんさん、魅力的だからあ、いろんな人があ、見つめてると思いますう」
「まあ、それならそれでありがたいが」
遥はそう言いつつ、さりげに恵美ちゃんから手を離した。
「たとえ誰があたしを見つめていたって、あたしの気持ちは秀馬さんから動かねぇ。そんだけは確かだ」
「ううぅ…」
言い切る遥に、うめき声を出しながらうつむく恵美ちゃん。
「はーちゃん、坂口なんかより、はーちゃんをずっと幸せにできるやつなんて、五万といると思うぞ」
「論理」
遥の、大きすぎる黒い瞳が、じっと俺を見据えた。
「これ、もう論理の前で何度も言っただろ。秀馬さんは秀馬さんなりの形で、あたしを愛してくれてるんだ。たとえ人の目にはそれがただの暴力にしか見えなくても、あたしにとっちゃ愛のスキンシップなんだ」
「嘘ですうー!」
恵美ちゃんが叫ぶ。「すはあああ」っと、ふーちゃんに似たブレス音。
「一足す一が三っていうー、無理押しニキみたいなことお、言わないでくださいい。暴力はどこまでいっても暴力ですうー。愛とかなんとかあ、聞こえのいいこと言ってえ、ただ殴ったり蹴ったりしてるだけですうー」
「無理押しニキか。ふ…。まあ、恵美にはそう見えるだろうな」
低くかすれたベビーボイスが、寂しげにそう答えた。
「はーちゃん…。今夜も、血だらけになりに行くのか」
「あたしをぶつことで秀馬さんの怒りがおさまるんなら、安いもんだ」
「やめろよ!」
思わず大きな声を出す俺。そして俺は口を大きく開くと、胸と肩をふくらませ、「はああああっ」と思いきり息を吸い込んだ。その音が目立つ。遥に似た音だ。
「はーちゃん、坂口なんかにどこまで自分を安売りするんだ!坂口ははーちゃんを愛してなんかいない。ただ自分の思い通りになって、いいストレス発散になる存在が欲しいだけなんだ!文字通りの奴隷だ。そんなやつのために必死になるのはやめろ!はーちゃんは…はーちゃんはもっと、人間扱いされるべきなんだ!」
「はーちゃんさんー、傷つきにいくのはあ、やめてくださいー。自分を大事にしてくださいー」
恵美ちゃんも俺の後に続く。はーちゃんを見つめる俺と恵美ちゃん。でもはーちゃんは、そんな俺たちの目を見返してくれない。
「…ありがとうよ、論理、恵美」
胸元で手を合わせて見せる遥。
「あたしバカだな。お前らにここまで言ってもらってんのにな」
遥は顔を上げた。長い前髪の下の、くっきりした瞳が、少し潤んでいるように見えた。
「自分でもな…、おかしなことしてると思ってんだよ。傷だらけになって、痛くてつらくて、ベッド突っ伏したまま泣いてな…。何やってんだあたしって思う」
「なら思い直せよ!」
今度は俺がはーちゃんの手を握る。恵美ちゃんとは対照的な、ゴツゴツした、骨っぽいはーちゃんの手。
「誰がどう見ても、こんなのおかしいよ!」
「そうですう。傷つけられるのが愛されることなんてえ、あるはずないですう!そんなことあるんならあ、道歩いててえ、一億円拾うことだってザラですう」
「……………」
遥が言葉を出せずに、俺たちを見つめる。何か言いたげでたまらなさそうな表情だった。しばし、場を沈黙が支配する。
「結局な…」
沈黙を破る遥。
「この一言に尽きるんだよ。『好きでしょうがねえ』ってな」
はーちゃん…。それでもなお、それでもなお、坂口が好きでしょうがないのか。その頭ん中、どうなってるんだよ!
「はーちゃんさんー」
恵美ちゃんの円い瞳に、悲しげな色が宿る。
「どうあってもお、彼氏のことお、好きなんですかあ?」
遥は視線を俺たちから離し、目を伏せてうつむいた。溢れ出るほどの言葉を飲み込み続けているように見えた。でも、そのまま遥は小さくうなずいてしまう。
「ああ。好きだ。どうしようもねぇくれぇな」
そんな遥に、もはや言葉もない俺と恵美ちゃん。重苦しい沈黙。窓から差し込む日差しの明るさが虚しかった。
しおりを挟む

処理中です...