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十三、「yours」で

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翌日、四月二十八日。連休前最後の日になった。今日は朝一限目から授業がある。一般教養の「経済学」だ。ハ行トリオ三人も取っている。五階の大教室に出ると、文香と遥がいた。
「おはようふーちゃん、はーちゃん」
「おはようだよ論理くん」
「おはっ」
三人で挨拶を交わす。遥の隣に座った。斜め前が文香。今朝の遥は白黒チェック柄のワンピース。フリルのついた丸くて大きな襟がまあまあかわいい。長い黒髪の向こうには背中ファスナーも見えた。文香は、あのお気に入りの花柄黄土色のセーラーワンピ。胸の襟元に飾られた赤いリボンが愛らしい。もちろん背中ファスナーも見逃さない俺。初めてふーちゃんと出会ったときの、思い出の服だ。
「朝イチ、大変だよねぇー。私昨日遅くまで起きてたから眠いもん」
そう言う文香の瞼は重そうで、細い目が一層細く見えている。
「俺も。昨夜は寝る前にラインしちまって」
遥のほうをちらりと見る俺。視線を泳がせる遥。
「そ、そうか。それは寝る前だっちゅうのに、災難だったな」
とぼけやがって遥のやつ。昨夜のラインは秘密にしたいらしい。
「えー、論理くん、誰とラインしてたのぉ?」
「ふふふ、ちょっとな」
「あー、もったいつけるんだもん。いいじゃん教えてよぉ」
そんなことを言い合ううちに、入り口に博美の姿が見えた。「あ…」と、口をつぐむ俺たち。
「おはよう」
灰色の地味なブレザーに、落ち着いた赤色のリボンタイを喉元にしめた博美が、俺の前に座る。
「ひーちゃん…」
ようように博美に声をかける俺。
「……………」
博美は、硬い表情で、そんな俺たちの顔を見る。気の強そうなその瞳。でもやがて、厚い唇の隅に、微かな笑みが浮かんだ。
「ねえ、みんな二限目、空いてるでしょう?」
うなずく俺たち。
「じゃあ、『yours』でお茶しない?おごるよ。八つ当たりしたおわび」

そして俺たち四人は、二限目に『yours』にやってきた。窓際に四人で座る。晩春、というより、もう初夏の陽光が、窓から燦々と差し込んで俺たちを照らしていた。
「昨日はごめん」
博美が俺たちに両手を合わせる。リボンタイが高校生っぽくてかわいい。
「大人げなかった。ふーちゃんにもはーちゃんにも論理くんにも、思いっきり八つ当たりした」
ということは、たぶん博美と文香の間にも、似たようなことがあったんだろう。
「ううん、私こそごめんねぇ…。友だちならあそこでひーちゃんのこと、かばってあげるべきだったよね」
花柄ワンピの文香がうつむく。
「あたしも。秀馬さんの前じゃ、何も言えなくって」
文香に続いて、白黒チェックもうなだれる。
「俺もごめん。ひーちゃんのことかわいいかわいいって言っといて、坂口先輩の前では黙んまりで…」
口々に謝る俺たちに、博美は微笑みかけてくれた。
「いいよ、もう。目上の人前にして、なかなか言いにくいと思うし。おかっぱけなされたのは、悔しかったし悲しかったけど」
「なんでそんなかわいい髪型、ヘンだって言うんだろう」
今更ながら、坂口先輩への怒りを込めて、俺は言った。
「ひーちゃん、その耳たぶおかっぱ、誰が何と言っても、かわいい」
「耳たぶおかっぱ?ふふふ」
俺の言葉を聞いた博美が笑う。
「いいネーミングだね論理くん。耳たぶ見せてるの、自分でも気に入ってるし。よし、じゃあこれ、今日から『耳たぶおかっぱ』と呼ぼう」
博美はそう言って、胸元で小さく拍手する真似をした。
「うん。気分よくなってきた」
博美の顔に明るさが戻ってくる。
「論理くん、私の後ろ姿見たい?今なら見ても触ってもいいよ」
「えっ、いいの?」
驚く俺の前で、博美はにこにこと微笑む。
「昨日はいきなりだったからちょっとびっくりしたけど、今ならいい」
「わ…、わかった」
ひーちゃん…。見ていいの?触っていいの?俺は吸い寄せられるように席を立ち、ひーちゃんの後ろに回った。ひーちゃんがうつむいて、うなじを俺に見せてくれるのが嬉しい。誰が切り揃えたんだろう、少しだけ内巻きに、ほんのちょっとのギザつきもなく精確に整えられた襟足。剃り跡の黒い点々も愛らしい。そして二つの大きなほくろ。右はカットラインの下六センチ。左は一センチ。うなじが真っ白なだけに、黒くかわいらしく咲いている感じがある。
「触って…いいの、ひーちゃん」
「うんいいよ」
手が震える。いいの?いいの?でも触りたい。俺は腕を動かす。指を立てる。そして、とうとうひーちゃんの襟足に触れた。ふわっとした感触。それが柔らかくてかわいい。ふーちゃんの熱い後ろ頭と比べると、少し控え目な温かさを感じる。
「ひーちゃん…、襟足、すべすべだね」
俺はひーちゃんの剃り跡を撫でた。いけない、俺の股間が…。
「うん。三日に一度は剃ってる。昨日もお風呂で剃ったよ」
お風呂の中で、うつむきながら丁寧にうなじを剃っているひーちゃんが心に浮かんだ。そしてほくろに指が行く。少しだけ盛り上がっているその様子が、俺のをドクドクと猛く刺激する。
「この二つのほくろ、かわいいよね…」
「そう?私としてはそれ、気にしてるんだけどな」
「気にするだなんて…。これもチャームポイントだよ」
俺はひーちゃんの襟足になおも指を遊ばせつつ、その後ろ耳たぶおかっぱを見つめた。丁寧にブラシが入れられ、水の面のようにつやを放っている。きれいだ…。おかっぱって、なんでこんなにかわいくてきれいなんだろう。そしてそれを、ひーちゃんがしているだなんて。俺は我を忘れる。清楚だ…。この清楚さこそが、おかっぱの魅力!あぁ、おかっぱ萌えでよかった。
「おい論理!いつまで触ってんだ、変態」
「論理くん、テレテレな顔してぇ、スケベなんだからぁ」
はーちゃんとふーちゃんの声で我に返る。あわててひーちゃんの襟足から手を放し、席に戻る俺。
「うふふ」
俺の正面でひーちゃんが笑っている。そんな顔を見せてくれるのが嬉しい。
「どうだった論理くん」
「え…、う、うん…」
ひーちゃん…。胸がはち切れそうに高鳴る。手が熱い。俺のも沸騰している。
「きれい…だった。すごく整ってて」
「ありがと。耳たぶおかっぱ、自分でも気に入ってるから、そう言われると嬉しいよ」
ひーちゃん…。その美しい髪に包まれた脳の中に俺は、どれくらい割合で存在してるんだろう。改めて、ひーちゃんのことが胸に熱く宿っているのを感じる。
「それでひーちゃん、合評会の原稿はこれからか?」
遥に聞かれた博美が、「うん」とうなずいた。
「もう出来てるよ。というか、以前に書いたものだしね」
「どんなのー?小説ぅ?」
「ううん、詩だよ。今持ってきてるんだ。よかったら見て」
博美はそう言って、鞄からB5の用紙を二枚取り出した。そこには、真っ白なページに、博美の愛らしい文字で、こんな詩が書かれていた。

たんぽぽ
古本博美

ふわり ふわり
窓の下を子どもたちが歩いていく
黄色い通学帽をかぶって
ランドセルにも黄色いカバー
桜の花びらが降りかかる
春の日差しがさんさんと
元気のいい子どもたち
何も悩みなんかないかのように

ぼうやたち
まるでたんぽぽみたいだね

「どうかな」
博美が俺たちの顔を見渡して尋ねる。
「うーん、そうだなぁ」
遥が腕組みをして唸った。
「情景がはっきり描かれていていいと思うぜ。ちょうど今ぐらいの時季だし」
「確かにたんぽぽみたいだよねぇ。通学帽もランドセルも黄色くてさぁ。かわいくていいもん」
文香がうなずきながら言う。
「論理くんどう思う?」
博美に聞かれて、俺は少し考えた。正直なところ、あまり印象的な作品じゃなかった。でも何かいいこと言わないと…。
「春らしい作品だよな。確かに、子どもたちの元気よさって、何の悩みもないかのように見える」
「そうなんだよ。それがちょっと妬ましかった」
そう言って博美は少し顔を伏せた。
「去年の春にね、浪人決まっちゃって、これからどうなるんだろうって悩んでたんだよ。そうやって悩みながら窓の下ぼうっと見てたら、子どもたちの姿があってね。それ眺めながら書いた」
「そうなんだぁ。じゃあこの詩、ひーちゃんにはかなり思い入れあるんだねぇ」
文香にそう言われた博美が、こくこくとうなずく。
「うん。あの頃の自分が出てる詩になったと思ってる」
そうか…。書かれた事情を知ると、印象も深くなってくる。「何も悩みなんかないかのように」という一行に、ひーちゃんの思いが込められてるんだな。知ることのなかったひーちゃんの過去がうかがえて嬉しい。ひーちゃんに、もっと近づきたい。
「合評で、どんなふうに言われるかなー」
と、遥。文香がその後に続く。
「ひーちゃんは、どうしてこの詩を合評に出そうって思ったのぉ?」
「そうだね」
博美の表情が硬く引きしまった。
「言われるだけ言われたでしょう。あのまま黙ってたらなんか、負けたみたいじゃない。そのままでいるもんかって思った」
「だよなぁ」
俺は首を横に振って言う。昨日の坂口先輩のひどい言葉が、また思い出されてきた。ひーちゃん、負けん気が強いな。その瞳の力強さに見合っている。
「自分の詩がどこまで評価されるかわからないけど、言われたままじゃ悔しい。合評に参加して、一筋入ってるんだってとこ示したい」
「ひーちゃん、強いなぁ」
うめく文香の前で、博美が軽く胸を張る。
「島の女してるなって自分でも思う。不便なところだからね、気が強くなきゃやっていけない」
孤島・中穴島での生活は厳しいんだろうな。そんなとこでがんばってた小中高時代のひーちゃんが想像された。
「ねぇねぇみんな、明日から連休だけど、どうやって過ごすぅ?私は特にこれといってやることもないから、下宿にいるもん」
文香に聞かれて、俺たちは顔を見合わせた。
「俺んとこ、また親父来るんだよ。連休明けまで居座るらしい」
親父、掃除とか料理とかいろいろしてくれるんだろう。それは助かる。でもやっぱ俺、部屋で一人でオナニー…。
「ひーちゃんはどうするのー。実家帰るぅ?」
「まさか」
博美は軽く苦笑いした。
「行って帰るだけで二日がかりだからね。気軽には帰れないよ。帰省は夏休みだね。ゴールデンウィークは下宿でのんびりしてる。はーちゃんはどうする?」
「あたしか。あたしはなぁ…」
遥がニンマリと笑う。
「五月になったら、養成所に通い始めるつもりなんだ」
「養成所?何の?」
俺に聞かれた遥がこう答える。
「声優の養成所。玉都に大きなのが一つ見つかったから、通ってみることにしたんだ」
「へぇー」
俺たちは口々に嘆息する。
「はーちゃん、養成所って…。『目指してみてもいいかもな』とは言ってたけど、まさかほんとに…」
遥の思い切った行動に、驚きを隠せない俺。
「へへへ、驚いたか」
うなずく俺たち。
「入学式のとき声ほめられたり、『ハルマゲドン』でふーちゃんに『アイドル声優になれそう』って書いてもらったりしたら、あたしなんだかその気になってきてさぁ。どこまでできるか、トライしてみようって思った」
遥のやつ、本気でアイドル声優になるつもりか。そうすると…、ひょっとしたら俺、ゲーノージンの友だちができる?それはすげえぞ。
「ねぇねぇ、それじゃあさぁ。四月中にさぁ、はーちゃんの壮行会やろうよぉ。カラオケとかいいじゃん」
「うん、それいい」
文香の言葉に、博美もうなずいた。
「私カラオケ久しぶりだな。大学入ってまだ一度も行ってない。ぱーっと歌ってはーちゃん盛り立てよう」
「俺も久々だ。みんなで歌おうじゃないか」
「ありがとうみんな」
遥が微笑みながら俺たちの顔を見る。俺の好みはふーちゃんひーちゃんだけど、はーちゃんもこうやって微笑うと、まあまあかわいい。アイドルにはなれるだろう。それにしても遥、坂口先輩に恋しながら、声優の夢も追って、大学生活も満喫するのか。なんか青春してるな。俺だって負けていられない。もっと輝くんだ。
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