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六、ひーちゃんを見つめて

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地下の大教室に移る。入り口をくぐると、遥の甘々声が聞こえた。
「おーい、論理ぃ、ふーちゃあん」
遥と博美がすでに教室に入っている。文香が手を振って二人に呼びかける。
「はーちゃん、ひーちゃん、やっぱ来てたんだぁ」
「そりゃ来るぜ。必修だかんな」
そう言う遥の脇で、博美がにっこり微笑む。吊った目はやっぱり気丈な印象があるけれど、ふっくらしたお饅頭顔がとても優しげだ。そして何よりおかっぱがかわいい。俺も早く髪を伸ばしてこんな髪型にしたい。
「ふーちゃん、論理くん、三限目何か出てたの?」
博美の穏やかなふわふわアルト。
「ああ。二人で英会話出てた」
そう答えつつ、文香と俺は、博美たちの後ろの席に座った。遥の後ろが文香、博美の後ろが俺。ひーちゃんのおかっぱを目の前で見たくて、わざとそこにした。
「英会話か。面白かったか?」
遥にそう聞かれた俺が答える。
「なかなかよかったぞ。ふーちゃんと英語で話もできたし」
「どんな話したの?」
「俺たち出身地が一緒なんだ。同じ尾風。住んでる区まで一緒だった。実家ご近所さんだよ」
「へー、そりゃまた偶然っつうか何つうかだな」
「うん、偶然」
文香がそう言って、嬉しそうに身体を揺する。
「何かねぇ、論理くんとまた一つ仲良くなれたかなって感じだもん。ね、論理くん」
文香はにっこり──というより、ニヤリ、に近いか──笑って、指で俺の腕を突いた。いけない、ドキドキする。
「そ、そう言えばさ…、はーちゃんとひーちゃんはどこの出なんだ?はーちゃんは菜津宮って聞いたけど」
「ああ、菜津宮だぜ」
「近場だね」
遥にそう言う博美が、どことなく寂しげに見えた。
「ひーちゃんはどこぉ?遠いの?」
「私は…、振玉(ふりだま)だよ」
「振玉?」
俺は思わず聞き返した。振玉は、孤島・中穴島(なかあなじま)にある集落だ。玉都の港から船でたっぷり十時間はかかる。文字通り絶海の島だ。
「遠い…ね」
文香も呆気に取られる。
「あ~、」
寂しげな表情を消して、博美が明るい声を出した。
「みんな私が田舎者だって思ったでしょー。どーせ田舎ですよ。去年の島の高校の卒業生、私一人だったし」
中穴島の人口は千人もいないだろう。高校の卒業生が博美一人だったという話もうなずける。ん、でも「去年」って…?
「ひーちゃん、高校卒業したの去年なのか?じゃあ一浪?」
「うん、そうだよ」
博美はうなずくと、口を細く開けて息を吸った。オレンジ色の口紅を塗った、やや厚めの上唇と下唇の間に開いた黒い隙間に空気が吸い込まれていく。それが、俺をムラムラさせる。でもひーちゃん、肩は動かない。
「高校出て、浪人決まっちゃって、最初は香歌(こうか)で下宿しながら予備校通ったんだ。あっちのほうの大学行きたくて。でも、受かったの清心館だったから、玉都に引っ越してきた」
話すのにつれて、ひーちゃんの黒髪がゆらゆらと揺れ、天使の輪が動く。ふーちゃん同様、眉下できれいに揃えられた前髪と、かっちりと美しく切り整ったサイドから襟足にかけての髪が俺を刺激する。頬も顎もうなじも、ふっくらと真っ白だ。
「なんかひーちゃん、あっちこっちと大変だったな。実家には帰れてるのか」
遥にそう聞かれると、博美は吊り目の瞳を寂しげに伏せた。
「ううん、なかなか帰りにくい。去年はお盆に一度戻ったきり。距離が距離だし…。あっちにも会いたい友だちいるんだけどね」
博美がそこまで言ったとき、教室に教授が入ってきた。俺たちは話をやめ、前を向く。ひーちゃんのきれいな襟足が、俺の目にさっと入ってきた。背筋を伸ばして顎を引くひーちゃん。わずかに後ろ上がりに揃えたカットラインが、真白いうなじと一緒に俺の目を打つ。ひーちゃんの襟足のちょっと右のほうには、大きなほくろがある。カットラインの下一センチくらいのところだ。かわいいな。教壇に立った教授が、ぼそぼそと何か話し始めるが、そんなもの耳に入らない。
「……………」
吸い寄せられるように、俺は博美の後ろ姿を見つめ続けた。おかっぱ──。俺の憧れの髪型。女の子はやっぱり、おかっぱがいちばんかわいい。清楚さが違う。博美のこの、ぜんぜんギザつきもなく揃った襟足が、たまらなく魅力的だ。丁寧に剃られて、カットラインの下に愛らしい剃り跡ができている。職人の父親譲りか、「かっちりきれい」を生来好む俺。その俺の好みに、これほどずっぽりとハマる髪型はない。ノートを取るとき、ふっとうつむくひーちゃん。そのときの髪とうなじの動きがかわいらしくてならない。ほくろも俺の目を吸い寄せる。だめだ夢中になってしまう。
(ひー…ちゃん…)
授業時間の九十分が、夢見るように過ぎた。ふーちゃん、ひーちゃん。今日も俺は満ち足りる。俺の青春は、今、来た。
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