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068・山口荒生

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 山口荒生やまぐちあらきは、スター選手であった。

 小柄で、俊敏で、創造力があり、その描いた想像を実現する確固とした技術も備えていた。自分自身も、将来日本代表を背負って立つと気負っていたし、それは客観的にも事実であった。
 そんな中、自分より上であると認めざるを得ない存在に出会う。

 向島博。

 自分よりもより技術があり、なによりスピード、パワーといったフィジカルに恵まれている。尊敬せざるを得ない。
 彼がいれば。彼と自分がいれば、日本代表はどこまでも突き進んでいける。
 日本代表は、自分たちの存在によってワールドカップにおいて最高の成績を修めるであろう。それは過信ではなく、現実となるべきである。
 
 トップ下の山口が創造性あふれるパスを出し、フォワードの向島博がそれに反応しゴールを決める。それは日本代表のホットラインを越えて、ライフラインとなろうとしていた。

 とあるブラジル人が、すべてを変えたことから事は始まった。
 歴代最高の選手とも言われるブラジル人のバロンドール受賞者、リバウジーニョ・ガウショという存在がいた。圧倒的なテクニックと、バネとも言い換えれそうなスピードとパワーを併せ持ったブラジルの真珠、黒い宝石と呼ばれた真のサッカー界の偉人。

 マッチアップするのは向島博。
 得点源を失ってでも、勝つためにはリバウジーニョを抑えることが必須であった。

 人を翻弄するリバウジーニョのフェイント。
 それはスタジアムの観客どころか、テレビで観戦しているもの、解説者や実況者すべてを欺いていた。実際に対応する向島博が戸惑うのも無理はない。
 何度目かのフェイントの後、向島博の脚はあってはならない方向に曲がっていた。向島博はブラジル人との騙し合いによって再起不能となってしまった。

 正確に言うと再起不能ではない。再起自体はしたのだ。

「俺はもう、ボールの声を聞こえなくなってしまったよ……」

 そう言って、向島博は創造性あふれるプレーを捨てて、いやできなくなってしまった。

 そしてそれと同時に山口も創造力を失ってしまった。なんのことはない、自らが創造力を持っていたのではなく、向島博の発するイメージに自分が同期シンクロしていただけだったのだ。

 それから先の山口のキャリアは悲惨だった。
 出し手と受け手との意図が違うため、パスが繋がらない。元々フィジカルを活かしたプレースタイルではないため、体を当てられるだけで簡単にボールロストし、それが失点に繋がってしまうことが多くなった。

 積み重ねられる自分へのブーイング。それが精神を蝕み、サッカーという競技をプレーしながらもどこか冷めた眼で俯瞰している自分がいた。

『日本サッカー界は向島博と同時に、山口荒生も失ってしまった』

 それはおそらく正しくない。
 山口荒生は向島博の亜流であるにすぎなかった。向島博という恒星の光を反射する惑星であるにすぎなかったのだ。

『向島博と山口荒生。ふたりはひとつ。ゴールとアシスト。光と闇。彼らが引退した後、日本サッカーに何が残るのであろう』

 それを否定しようと思うと、楽しかったはずのサッカーというものも、俗なものに思えてくる。不要なものを省いて行けば、勝てるはずのゲームではないか。
 リバウジーニョは確かに世界屈指の存在だ。だが、リバウジーニョが引退した後、ブラジルは暗黒期に乗り上げた。
 ファンタジスタの閃きというのは、不安定。より勝つ可能性というのを求めるのであれば、確実性を求めるべきなのだ。

(自分が感じた感覚というのは嘘っぱちであったのだ。同じ実力、同じ技量、同じ環境であれば、身体が大きいほうが勝つ。これは自明の理ではないのか)

 その自分の理論を信じ、山口は指導者ライセンスを取るためにドイツへと渡った。
 ドイツのスター選手も受講する授業の中で、山口は表情を消すことと口数を減らすことでチーム内に安心感を与えることを覚え、そして自分の考えを分かち合う仲間を見つけた。

創造性というのは意外性であり、足でボールを扱うフットボールの中の不確実性をより大きくするだけの要素に過ぎない。それは意外性に富んだミスキックであっても、点に繋がるフットボールという競技では、毎試合勝ち抜くだけには根拠が薄すぎる

 山口は確かな技術を持つものであれば、フィジカルが勝るようになるという信奉に確信を得て帰国した。



 ドイツ帰りであるという理由だけではもちろん、監督の仕事はやってこない。
 だが、舶来ものを大事にする文化はサッカー界にも残っていて、山口はほどなくJ2の監督という職を得た。

 初年度は散々であった。ろくにボールも繋げないうえに、フィジカルでことごとく競り負ける。『希望する選手を獲ってくれ!』と言っても、もちろんそんな予算はない。

(では、安価に取れる大卒新人と、ユース上がりでフィジカルを売りにした選手を獲得し続けていくことにしよう)
 
 それを4、5年も続けるとチームの成績は鰻登りであり、ついにJ1へと昇格を果たす。しかしJ1の壁は厚く、1年でJ2へと押し戻される。

(これはJ1の選手の方がより技術的に優れ、そしてよりフィジカルに優れているからだ)

 山口はそう認識した。



 そんな折に、日本サッカー協会から技術顧問としての打診を受ける。

(自分の理論が認められたのだ)

 山口はフィジカル、そして身長が『同じ技量』であるなら重要である、という理論を展開する。それは過去の自分のプレースタイルを捨てることと同義であるが、山口は自分をも失敗作であると定義づけていた。

 だが、同時に向島博という恒星に導かれたあのときの感覚を完全に失っていたわけではない。
『ボールの声』が聴こえるファンタジスタという存在に引き寄せられたスリップ・ストリーム。それは完全に嘘であったのか? 幻であっただろうか?





 ナショナルトレセンに11歳で168cmの少年が来ていた。

「大きいですよね。技術的にもしっかりしてるんじゃないかな。だってほら、名字がムコウジマ!」

(向島博の息子! その兄も14歳で180cmを越えている! これは……)

向島博の子供であるのであれば、あの感覚・・・・も持っているのやもしれない。高身長に技術、そしてあの感覚を息子も持っているのであれば……

 山口の胸は久しぶりに、そして急激に高鳴る。やはり、技術を越えたあの感覚がないよりはあったほうが良いのでは……

「あれ、この子、身長伸びてないですね。それも1ミリも……」

 正確に1年後に、山口は落胆を味わってしまう。

あの感覚を持っていても、世界で日本が勝つには、この子は不安要素でしかない。1対1のデュエルを貧弱な日本人が元ドイツ代表のラームのように勝てるであろうか

 書類選考の段階で、山口荒生は無情にも向島大吾に×を付ける。





 6年後、向島大吾はド派手なデビューを果たす。
 フリーキック4連発。1ミリも変わらない身長に、努力を重ねて圧倒的な技術を伴って彼は表舞台に帰ってきた。

 そしてムラがありながらも、Jリーグで新人王を獲得する。

「山口さん、向島大吾ですけど代表に呼んでみませんか?」

 そういう糸山浩二の声を山口は無視する。

「今度はイタリアに行くそうですよ」

 山口は少し考えを改める。

(自分はフットボールを3Dで考えている。だが、向島大吾は2Dで考えるのであれば……)

 試しに代表に呼んでみると、そこそこ活躍をする。そして両足のフリーキックという飛び道具も持っている。メンタルは若干弱い。

(ジョーカーとしては持ち駒にしても良いのかもしれない。レギュラーとしては使えないが、スーパーサブとしてなら使いどころがあるかもしれない)



 そしてイタリア代表、ストゥラーロの弱点を見抜く!

『高いところからの視点は、そりゃ必要でしょう。ですけど、目を代えて見るってのもやっぱり必要だとは思いますよ』

 技術委員会のレポートでも『左足とヘディングでのシュートは強烈である一方、右足は苦手』としか書かれていなかったが、『右足シュートが極端に絶無・・・・・である。マークがいなければ逆に調子を崩す』とまでは描かれていなかった。

フットボールをよく知っている。

 そう思わざるを得ない。

(ボールの声を聴こえるのか? やはりあの感覚を持っているのか? 自分チビの果たせなかった夢を、託しても良いのではないだろうか?)

『チビが大男を倒すジャイアントキリング、それに期待しないものもいないとは思いますね』

 山口荒生がこれまで信念にしてきた信条が揺らぎ始める

『「強いものが勝つんじゃない、勝ったものが強いんだ」というフランツ・ベッケンバウアーの言葉がありますよね。彼らはみんな勝者です。監督はどうお思いですか?』

(勝てる……のか?)

『ペレ、マラドーナ、メッシの3トップを見たくない観客なんていないと思いますが』

(確かにフットボールの英雄はいつもチビだ……)



『君はサッカーを辞めようと思ったことはないのか?』

『ありますよ。でも楽しいですからね、サッカー!』

 いつの日かの自分を、山口荒生は向島大吾に重ねる。

(日本のサッカー界は、自分や向島博を遥かに超える英雄を手に入れた、のか???)

 ファンタジスタ、そしてそれを超える……



【眼の眩むような光】



 かつて憧れた、向島博の残滓。
 儚くも、自分に夢を見させた恒星の残光。
 そのDNAを受け継いだ存在が、山口荒生の失っていた感情を、沈黙している魂を再び揺らそうとしている。


 もしかすると、自分は選手時代の自分を肯定し、指導者となってからの自分を否定してもらいたい気持ちがあったのかもしれない。
 心の底から好きだったサッカーを、今では生きていく上での糧としか考えていない。
 諦観していた固まった心を、揺り動かして激しく燃え上がらせる。

 そういう存在に、今、出会えたのだとしたら……


「糸山、もしかしたらフオリクラッセ超一流ってのが日本に現れた、と言ったら信じるか?」
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