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後日談

獣の鎖 8

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 あの時も……彼の方に看病されながら、私は逃げる機会を窺っていました……。
 多少保つ食料は懐や寝具に忍ばせて、逃げる際に役立てようと思っておりました。
 抵抗しないと信じさせるために、あえて従順に接しました。
 それにまんまと騙された彼の方は、元から無かった警戒心を、更に緩めていった……。

「随分と良くなったね。もうそろそろ、寝台から出ても良さそうだ」

「まずは庭を少し散歩してみようか」と、そんな風に話していた彼の方が、こんこんと叩かれた扉に、視線を向けました。
 聞き慣れない低い声がし、あの方が少しだけ腰を浮かせた瞬間、私は咄嗟に動いていました。
 盗み、枕下に隠していた短剣を掴み出し、引き抜き、体当たりするようにして、全身でぶつかった。

 肉に沈み込む刃の感触が腕に伝わり、現れた男の叫び声と、耳元で「ハイン……」という、勝手に付けられた名を呼ばれ、慄いて身を引きましたら、腰に刺さった短剣を握った彼の方は、しばらく呆然と、それを見下ろしておりました。
 部屋に駆け込んできた男が彼の方を抱きとめ、何か叫んでいましたが、その声は私の耳を素通りしていき、ただ手の感触……肉に分け入る感触ばかりが、脳裏を占めていました。
 刺した。死ぬ。殺す。ただひたすら私を侵食しようとしてきたこの人を。今まで与えられなかった、私には与えられないはずのものを、押し付けてくるこの子供を。
 叫ぶ男の言葉に頷いていたその方は、そのうち視線を、私に。

 身が竦みました。

 殺せと、その口が動くだろうと思ったのです。なのに……。

「大丈夫だよ」

 微笑みすら浮かべて、そう……。
 あの瞬間に、私は解き放たれ、そして新たな鎖に繋がれました。

 ボタボタと血が落ちる床。短剣を突き立てたまま運ばれる彼の方は、自分を抱き抱える大人に私のことを「怒らないでやって」と、そう言っていて。
 この方が、私のこんな仕打ちを身に受けて尚、私の命を救おうとしていることに、愕然としました……。

 結局私は殺されることも、役人に突き出されることもなく、快適とすら言える小屋に放り込まれて数日過ごしました。
 意味が分からない処置でした……。雨風を凌げる場所で、食事まで与えられ、拳一つ振るわれない時間と空間。
 そこに居続けるだけの数日間は、今までの人生で最も生きやすく、最も辛い拷問でした。

 彼の方の優しさの裏には何も潜んでいなかった。ただ本当に優しいだけだった。そんな存在を、私は傷付けてしまった。
 今どうしているだろうか……痛みに泣いているのだろうか……それとももう、来世へ……。
 そう考えることは恐ろしいことでした。あれは失われてはならないものなのに、なんということをしてしまったのだろうと、ひたすら悔やみました。
 会いたい……無事かどうか、確認したい。

 だけどそれは、もう叶わぬ望みでした。
 私は彼を害したのです。
 今後待っているのは、死か、断罪か、運が良くて贖罪……。どちらにしても、もう彼の方に触れることも、名を呼ばれることも、近づくことすら許されないでしょう。

 そう考えることは、身を引き裂かれるような苦しさと、悲しみを伴いました。
 けれど、妥当な罰だとも思いました。
 主を害したという、本能の苦痛。
 そう、あの瞬間……大丈夫だよと、許されてしまったあの瞬間に私は、彼の方を我が主に相応しい方だと、そう認識してしまっていたのです……。

 獣人という種は、主に従う本能があります。
 群れで生活し、狩猟を行い生きていた頃の名残りだと、後にマルに聞きましたが、そんな理屈などより先に、そうだということは理解していました。
 私が死を意識した瞬間に、彼の方は私を許した。それによって私は、彼の方に心の一部を縛られました。

 私は、古巣でも、同じものに縛られていました。
 それから解き放たれた瞬間に私は、自らの手で、新たなそれを台無しにしてしまった……。

 けれど……私のしたことは、私が考えていたよりもずっと、ずっと、罪深いものでした。
 その後、訪れた男に殴り飛ばされ、あの子供が、生涯完治しない傷を負ったと聞かされたのです……。

 普段なら、殴られれば、それ以上に殴り返していたでしょう。
 けれどその時は、そんな気持ちにはなれなかった。
 私は殴られて当然でした。友を傷つけた私を、この男は殴ったのです……己の欲望のためではなく、友のための拳で、涙でした。
 彼の方の生きてきた境遇を、涙をこぼしながら男は語りました。
 この男の言うことが嘘でないことは理解しておりました。私の古巣も、似たような場所でしたから……。
 他人のために涙を流す。こんな関係があるのだと……その様子をただただ、眩しく思いました。
 ですが私には、縁のないものだと理解しておりました。獣人の私は人の世に紛れても、所詮獣人ですから……。

 本来なら何も言わず、姿を消すべきだと、分かっていました。もう彼の方を煩わせないことが、せめてもの罪滅ぼしだと。
 けれど本能が主を求め、彼の方をもう一目だけと望みました。せめてちゃんと生きている姿を、確認したかった。
 気付けば会わせてほしいと告げてしまっていました。
 そして到底叶えられまいと思っていた私のその願いは、何故か聞き届けられ……。
 小屋を出され、そのまま連れて行かれた先。

 その部屋の寝台で彼の方は……包帯で固定された手を文鎮のように使い、膝の上に大きな本を広げていました。
 訪れた私たちに朗らかに笑いかけ、男の病の快復を喜び、私に……。

「元気そうで良かった」

 そう言って、笑い掛けたのです……。
 白い布で覆われた手。深く抉られた腹の傷だって、未だに痛みを伝えているに、違いないのに……。

 心臓に杭を撃ち込まれた心地でした。今すぐこれを胸から抉って、差し出したかった。
 けれど私の心臓如きでは、この方の不自由になった手を贖うことなどできない。腹の傷を塞ぐことも、できないのです。
 こんな無垢な方に、私は一生の傷を負わせてしまった。
 孤児にとって、身を欠損するということは、近い将来の死を約束されると同義でした。
 そんなことは許されない。この天使は失われてはならない方だ。

 まず、何をすれば良いのだろうと、必死で考えました。
 そして隣の男に小突かれ、謝罪だろうがと促され、急いで膝をつき、頭を床に打ちつけ、償わせてほしいと訴えました。
 なのに、あろうことかこの方は。

「気にしてない」

 そう言ったのです。

「ちょっと不幸な行き違いがあったけれど、それだけのことだよ。僕は気にしてないから、ハインも気にしないで。
 それに、不安になって当然のことだったと思うんだよ……。
 急に知らない場所に連れてこられて、部屋からも出さなかった。その事情だって、きちんと説明していなかったしね……」

 それが私を守るための判断だったのだということは、容易に想像できました。
 この方はずっと、私のために……私のためだけに、動いていた。

「だからハインは、気に病まないで。怪我が癒えたなら、君は自由にして良い。好きにして良いんだよ」

 鎖が絶たれた瞬間でした……。
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