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光の影 5
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バート商会に戻れば、帰郷準備も女中頭たちが滞りなく進めてくれており、もう離れの中はきっちり、掃除まで済まされていた。
夕食を食べて、ハインに本日の報告を聞き、ギルに明日、リヴィ様方がいらっしゃることを伝えたら、本日の業務は終了。
就寝準備を済ませ、後はもう寝台に向かうだけ。
「じゃぁ、おやすみ」
「おやすみなさいませ」
支度を終えてハインが退室し、俺も寝台へと足を向けた。
でもまぁ……寝れる気分じゃなく、思考はどうしても、あのことに向いてしまう。
アレクセイ殿と別れる前の、最後のやり取り……。
◆
俺が彼の方の秘密に気付いてしまったことにより、それまでのどこか曖昧な距離感が、変わった。
アレクセイ殿には、何かの拍子に、急に踏み込んでくる躊躇の無さがあったのだけど、あの瞬間から、俺に対する警戒心が強まった。
まぁ、知られたくない秘密を知っていると言ったようなものだから、それは仕方がないことだったろう……。
結局会話は弾むことなく、お互いそろそろ職務に戻りましょうと、会議室に足を向けたのだけど……。
「そうそう。ひとつ、是非ともお聞きしておきたいと思うことが、あったんです」
三階に上り、ではここで……。と、お互い違う方向へと、足を進めようとした時。
笑顔を貼り付かせたままのアレクセイ殿が、そう言った。
それまでの柔和な笑顔となんら変わらないというのに、空気が違うと感じたのは、一瞬だけ見えてしまった、彼の心のせいだったのだろうか……。
「なんでしょう……」
覚悟を決めてそう問うと、一層口角を引き上げた彼は、「知っていらっしゃったんですか?」と、言葉を続けた。
「……何をでしょう」
「王家の病。貴方はそれを、前から知っておられたのですか?」
「……知っていたわけ、ないでしょう? 下位貴族でしかない私が、王家に関わる機会など、持っているはずがない」
「おや、それは異な事をおっしゃいます。
その関わりのない王家のために、貴方は秘匿権を二つも手放すと? 王家の公的事業まで手がけると?」
まるで困ってしまったというように、顔が苦笑に歪んだ。
そんなこと、あるわけないではないかと。
まぁ……確かに、そこだけ聞けば、そう思うよな。
だけど言い訳はちゃんと用意してある。
「……順序が逆なんです。
交易路計画が、セイバーンの氾濫対策から派生したんです」
そう言うと、不思議そうに首を傾げるアレクセイ殿。
「元々の交易路計画は、セイバーンからアギーまでの、短いもので企画されていました。それも、交易路が目的だったのではなく、氾濫の抑止が目的だったんです。
土嚢を使うこと自体が、初めての試みで、しかも雨季直前、待った無しの時期でしたからね……領内からの資金調達は金額的にも難しくて、苦肉の策で出資を募った。
それが、運良く上位貴族の方から、王家へと伝わり、大きく取り上げられ、今の私の役割が与えられた。
だから、交易路計画に関してならば、事前に知っていた……と、言えます。
ブンカケンも、元々その交易路計画費用を捻出するための事業……。多少は組み替えましたが、元から、然程変わらぬ利用法と目的で、準備を進めていた。それを利用したにすぎません」
俺のその言葉に、アレクセイ殿は視線を彷徨わせた。
俺の主張に違和感は無いか……おかしな部分は無いか、吟味するように……。
「そうでしたか……。
では本当に、貴方の運命の歯車は、昨年の今頃から、急に回り始めたのですね」
その言葉に、思いがけず心臓が跳ねた。
そうだ。昨年の今頃、サヤと出会った。
彼の言葉に、彼女をこの世界に引き入れた瞬間から、俺の歯車は回り始めていたのだと、そう強く実感した。
そんな俺を、アレクセイ殿はただじっと、仮面の笑顔のまま見つめている。
何か、言わなきゃ……怪しまれる?
だけど、何を?
「あぁ、そう言われてみればそうですよねぇ。
それまでの準備が実りを結んだに過ぎないのですけど、確かに運命的なものを感じます」
のほほんとした、マルの相槌。
アレクセイ殿の視線が、それでマルに移った。
「セイバーンに呼び戻されて、十六歳から領主代行……年齢的にも無茶振り過ぎて、始めのうちはほんと、振り回されましたよね。日々の色々に。
三年目でやっと慣れてきて、研究に割く時間も少しだけできて……ってなった頃合で、僕がいらないこと言っちゃったものだから。
いやぁ、でもあれは良い機会だった。それこそ頃合いだったんだと、今なら主張できるんですけど!」
えへへと笑うマルに、オブシズが問う。
「何を言ったんだ?」
「いえね、アギーの大火災とセイバーンの氾濫が関係しているのじゃないかって与太話なんですよ」
「…………本当に与太話だな。意味が分からない……」
「やぁもう、二年延々とあてにならない数字の検証を続けて、僕も頭が逝っちゃいかけてたんですかね」
あぁ、確かにあった。そんなことが。
「アギーで大火災があった年は、氾濫が起きる確率が他より少し高かったんですよ。
ほんとあれ、なんであの数字が出たのか未だに謎なんですが……今思えばあれが、神の思し召しだったんですかねぇ」
「それは確かに……。だけど何故アギーの火災とセイバーンの水害を比べようと思ったんだって部分から謎すぎだろ……」
「それはですねぇ、氾濫原因の追求も三年目に入ってまして、大概のことを検証し尽くして、可能性のしらみ潰しの限界だったんですよ。
だからあの頃は、半ばヤケクソ入ってまして、適当に目に付いたものを比べていっててね。そしたらまさかの展開です」
「あの時はほんと、慌てたなぁ……」
サヤと出会って、生活を整えるためにメバックへ買い出しに出ただけのつもりだったのに。
行ってみたら危険かもよって、軽い口調でそんな話をされて、慌ててセイバーンに戻って麦の穫り入れ。
そこからはもう駆け足のように、必死の日々だった。
「土嚢壁も、計算上は成果が出るとなってましたけど、検証してる間がなくて、ぶっつけ本番でしたからねぇ……。
まぁおかげで今があると思えば、あの時の苦労も楽しく思い返せます」
「そうだな」
気を利かせてくれたマルに感謝を込めて相槌を打つ。
それとなく、研究の成果だと挟んでくれたことも。
「だから、アレクセイ様のご意見には僕も同意です。アミに感謝を捧げたい気分ですね!」
「でしたら是非神殿へお越しください」
にこりと笑ったアレクセイ殿が、では私はそろそろ……。と、背を向けた。
内心ではホッと胸をなでおろした。だけど……。
「あの、アレクセイ殿! また、カタリーナのことなど、手紙でご報告いたします!
その…………どうか、あまりご無理をなさらず……」
そう言うと、振り返ったアレクセイ殿。
「ありがとうございます。
レイシール様も、ご健勝をお祈りいたしております」
線を引かれたと感じた。
これ以上踏み込むなと、そんな風に言われた気がした。
気付くべきじゃなかった……。気づいても、口にすべきではなかったんだ。あれはあの方にとって、絶対誰にも、知られてはいけないことだった。
俺は彼の方の矜持を、土足で踏みにじってしまった。分かっている。だけど…………っ!
それでも俺は、知ってしまった。見なかったことには、できない…………したくなかった。
だって俺は…………!
俺は、知っているんです。
表情を、全て作り物にしてしまうのは……そうしなければ、苦しいからだってこと…………。
◆
「レイ……」
背後から首に回された腕。
その温もりに、沈み込み浮上出来ずにいた思考が、引き上げられた。
視線を上げると、鏡ごしのサヤが、心配そうに俺を見下ろしている。
そういえば、先ほどサヤが来て、寝る前にすこしだけ……と、髪を梳いてもらっていたのだった。
三つ編みでゆるく癖のついていた髪は、元通りするりとまっすぐになっている。
もしかして、もう随分前に、終わっていた? そう思ったのだけど……。
「アレクセイ様のこと、考えてはったん?」
「う…………うん……。どうしても、頭から離れなくて……」
そう言うと、鏡越しのサヤが困ったように眉を下げた。
少し迷うように、唇が微かに動いて、だけど言葉が出てこず、キュッと結ばれた。
そのかわりに、頭を引き寄せられ、抱きしめられる。
俺を慰めようとしてくれているんだな…………。
冷えていた心が、温もりで満たされていく。
あぁ、幸せだ。
何も持ってはいけなかったはずの俺が、もう、両手では抱えられないくらいに沢山のものを、持っている。
「……本当は、関わるべきじゃないのかもしれない……」
「…………」
「グラヴィスハイド様にだって忠告された。彼の方の読みは本当に当たるから……」
「…………」
「神殿関係者。しかも司教……拠点村の秘密を、まだ知られるわけにもいかないし……」
「…………」
「関わろうとしたって、あちらはもう、俺を疎んでいると、思うし……」
「…………」
サヤの手が、俺の頬に触れた。
鏡越しに視線が絡まり、仕方ないなというふうに笑ったサヤが、俺の頬を撫でる。
「でも、放っておきたくない……」
「うん」
知った以上は、知らなかったことにしたくない。
何ができるわけでもないだろう。だけど、俺がそうしてもらったように、可能性を、残しておくことくらい、しておきたかった。
「ごめん……」
「謝るようなことやあらへん。……私が好きやって思うのは、そういうレイやし……」
誰にかて優しい。そういうレイやし……。
そう言ったサヤが、肩から覗き込むようにして微笑む。それがあまりにも眩しい笑顔で、愛しさがこみ上げてきた。
「サヤ……」
頬に手を添えると、求められるものを悟って、戸惑うように視線が彷徨うから、頬の手をそのまま頭に回してサヤを引き寄せた。
「んっ…………」
何か言おうとしたサヤの唇を甘噛みして、そのまま中へ。舌を絡め合っていくうちに、サヤの瞳が、まるで熱に蕩けてくるみたいに潤みだす。
あぁ、この顔がたまらない。
もっと深く繋がりたい。もっと沢山。もっと全身で、肌同士で直接、温もりを確かめたい……。
だけど、それができないことは分かってる。だから、せめて。舐めて、絡めて、サヤの吐息一つ残さず、全て貪り食らった。
サヤがもう無理と、胸を押してくるまで。
「や、やりすぎ!」
「……ごめん……」
そう言うものの、蕩けてしまっているサヤは可愛いしかない。
だいぶんふわふわとしているみたいだから、サヤの部屋まで送ろうか? と言ったら、怒らせてしまったけど。
じゃあせめてと扉まで送って、最後に額へ啄ばむ口づけを贈ると、バタン! と、勢いよく扉が閉められる。
その慌てっぷりにクスクス笑って寝室に戻り、あの様子なら、大司教のことはもう吹っ切れていると考えて問題無さそうだと、胸を撫で下ろした。
あぁ、俺は幸せだ。
辛い時、苦しい時、仲間がいてくれて、愛する人がいてくれて、俺を一人きりにしないでくれる。
前はそれが、怖かった。
一人じゃなければならないのだと、思っていた。
巻き込みたくない、失いたくない。だから、持たない……。そう考えていた。
だけどそんな俺を、みんなは見捨てないでいてくれた……手を取る勇気が持てるまで、ずっと、背中を押してくれた。手を差し伸べ続けていてくれた。
だから、今がある。この幸せがある。
でも……。
アレクセイ殿は、きっと俺とは違う……。
あの人は要らないと思っている……あの瞳から溢れたものは、何もかもを憎み、嫌っている。
彼の方は、拒んでいた。踏み込んでくるものを、全て初めから……。
何より、あの凄まじい、澱みきった負の感情。
あれに似たものを、俺は、知ってる……。
「…………兄上……」
もうとっくにふさがった足の傷から、鈍い痛みが這い上がってくる……。
俺に執着して、だけど嫉妬して、憎悪して……酒に溺れて、最後は呆気なく、窓から飛び立ってしまった兄上。
炎の中、俺を見下ろしていた兄上の瞳……。
あれに似てたんだ、アレクセイ殿の瞳から、溢れたものは……。
「……もう、あんなのは、ごめんだ……」
あんな風に、何もできずに終わるのは嫌だ。
アレクセイ殿が、心配だった。
彼の方には、あるのだろうか。ギルや、ハインのような存在が。差し伸べられる手が。
あんな凄まじい感情を、ああして制御できている心理が、分からない……。どうしてそこまでできるのか。
ああまでして地位を掴み、得たいものとは、なんだろう。
あの感情は、いったい誰に向けられている?
なんでもしてきたと言ったあの人。
自らの肉体すら、雑に扱うあの行動が、どうしても胸に引っかかる。
真っ黒に塗り固め、制御なんてとてもできる状態じゃないはずの感情を、更に虐めて……。表面だけは、完璧に取り繕って……。
「関わる、べきじゃない…………」
グラヴィスハイド様が、わざわざ警戒するように忠告してきた方。
分かってる。だけど…………関わらないと言う選択は、選べない……。
兄上みたいには、したくない…………。
だから俺は、踏み込まなければいけないと思う。
疎まれても、憎まれても、関わり続けるしかないと思う。
それが拠点村を危険に晒すのだとしても……。
それは、兄上に対する懺悔の気持ちもあったのだろう。
たった一人で、苦しみ抜いて、逝ってしまった兄上と、アレクセイ殿が、どうしても重なった。
だから…………。
ずっと胸の奥から、関わるな。危険だと訴える俺自身の心を、俺は無視した。
夕食を食べて、ハインに本日の報告を聞き、ギルに明日、リヴィ様方がいらっしゃることを伝えたら、本日の業務は終了。
就寝準備を済ませ、後はもう寝台に向かうだけ。
「じゃぁ、おやすみ」
「おやすみなさいませ」
支度を終えてハインが退室し、俺も寝台へと足を向けた。
でもまぁ……寝れる気分じゃなく、思考はどうしても、あのことに向いてしまう。
アレクセイ殿と別れる前の、最後のやり取り……。
◆
俺が彼の方の秘密に気付いてしまったことにより、それまでのどこか曖昧な距離感が、変わった。
アレクセイ殿には、何かの拍子に、急に踏み込んでくる躊躇の無さがあったのだけど、あの瞬間から、俺に対する警戒心が強まった。
まぁ、知られたくない秘密を知っていると言ったようなものだから、それは仕方がないことだったろう……。
結局会話は弾むことなく、お互いそろそろ職務に戻りましょうと、会議室に足を向けたのだけど……。
「そうそう。ひとつ、是非ともお聞きしておきたいと思うことが、あったんです」
三階に上り、ではここで……。と、お互い違う方向へと、足を進めようとした時。
笑顔を貼り付かせたままのアレクセイ殿が、そう言った。
それまでの柔和な笑顔となんら変わらないというのに、空気が違うと感じたのは、一瞬だけ見えてしまった、彼の心のせいだったのだろうか……。
「なんでしょう……」
覚悟を決めてそう問うと、一層口角を引き上げた彼は、「知っていらっしゃったんですか?」と、言葉を続けた。
「……何をでしょう」
「王家の病。貴方はそれを、前から知っておられたのですか?」
「……知っていたわけ、ないでしょう? 下位貴族でしかない私が、王家に関わる機会など、持っているはずがない」
「おや、それは異な事をおっしゃいます。
その関わりのない王家のために、貴方は秘匿権を二つも手放すと? 王家の公的事業まで手がけると?」
まるで困ってしまったというように、顔が苦笑に歪んだ。
そんなこと、あるわけないではないかと。
まぁ……確かに、そこだけ聞けば、そう思うよな。
だけど言い訳はちゃんと用意してある。
「……順序が逆なんです。
交易路計画が、セイバーンの氾濫対策から派生したんです」
そう言うと、不思議そうに首を傾げるアレクセイ殿。
「元々の交易路計画は、セイバーンからアギーまでの、短いもので企画されていました。それも、交易路が目的だったのではなく、氾濫の抑止が目的だったんです。
土嚢を使うこと自体が、初めての試みで、しかも雨季直前、待った無しの時期でしたからね……領内からの資金調達は金額的にも難しくて、苦肉の策で出資を募った。
それが、運良く上位貴族の方から、王家へと伝わり、大きく取り上げられ、今の私の役割が与えられた。
だから、交易路計画に関してならば、事前に知っていた……と、言えます。
ブンカケンも、元々その交易路計画費用を捻出するための事業……。多少は組み替えましたが、元から、然程変わらぬ利用法と目的で、準備を進めていた。それを利用したにすぎません」
俺のその言葉に、アレクセイ殿は視線を彷徨わせた。
俺の主張に違和感は無いか……おかしな部分は無いか、吟味するように……。
「そうでしたか……。
では本当に、貴方の運命の歯車は、昨年の今頃から、急に回り始めたのですね」
その言葉に、思いがけず心臓が跳ねた。
そうだ。昨年の今頃、サヤと出会った。
彼の言葉に、彼女をこの世界に引き入れた瞬間から、俺の歯車は回り始めていたのだと、そう強く実感した。
そんな俺を、アレクセイ殿はただじっと、仮面の笑顔のまま見つめている。
何か、言わなきゃ……怪しまれる?
だけど、何を?
「あぁ、そう言われてみればそうですよねぇ。
それまでの準備が実りを結んだに過ぎないのですけど、確かに運命的なものを感じます」
のほほんとした、マルの相槌。
アレクセイ殿の視線が、それでマルに移った。
「セイバーンに呼び戻されて、十六歳から領主代行……年齢的にも無茶振り過ぎて、始めのうちはほんと、振り回されましたよね。日々の色々に。
三年目でやっと慣れてきて、研究に割く時間も少しだけできて……ってなった頃合で、僕がいらないこと言っちゃったものだから。
いやぁ、でもあれは良い機会だった。それこそ頃合いだったんだと、今なら主張できるんですけど!」
えへへと笑うマルに、オブシズが問う。
「何を言ったんだ?」
「いえね、アギーの大火災とセイバーンの氾濫が関係しているのじゃないかって与太話なんですよ」
「…………本当に与太話だな。意味が分からない……」
「やぁもう、二年延々とあてにならない数字の検証を続けて、僕も頭が逝っちゃいかけてたんですかね」
あぁ、確かにあった。そんなことが。
「アギーで大火災があった年は、氾濫が起きる確率が他より少し高かったんですよ。
ほんとあれ、なんであの数字が出たのか未だに謎なんですが……今思えばあれが、神の思し召しだったんですかねぇ」
「それは確かに……。だけど何故アギーの火災とセイバーンの水害を比べようと思ったんだって部分から謎すぎだろ……」
「それはですねぇ、氾濫原因の追求も三年目に入ってまして、大概のことを検証し尽くして、可能性のしらみ潰しの限界だったんですよ。
だからあの頃は、半ばヤケクソ入ってまして、適当に目に付いたものを比べていっててね。そしたらまさかの展開です」
「あの時はほんと、慌てたなぁ……」
サヤと出会って、生活を整えるためにメバックへ買い出しに出ただけのつもりだったのに。
行ってみたら危険かもよって、軽い口調でそんな話をされて、慌ててセイバーンに戻って麦の穫り入れ。
そこからはもう駆け足のように、必死の日々だった。
「土嚢壁も、計算上は成果が出るとなってましたけど、検証してる間がなくて、ぶっつけ本番でしたからねぇ……。
まぁおかげで今があると思えば、あの時の苦労も楽しく思い返せます」
「そうだな」
気を利かせてくれたマルに感謝を込めて相槌を打つ。
それとなく、研究の成果だと挟んでくれたことも。
「だから、アレクセイ様のご意見には僕も同意です。アミに感謝を捧げたい気分ですね!」
「でしたら是非神殿へお越しください」
にこりと笑ったアレクセイ殿が、では私はそろそろ……。と、背を向けた。
内心ではホッと胸をなでおろした。だけど……。
「あの、アレクセイ殿! また、カタリーナのことなど、手紙でご報告いたします!
その…………どうか、あまりご無理をなさらず……」
そう言うと、振り返ったアレクセイ殿。
「ありがとうございます。
レイシール様も、ご健勝をお祈りいたしております」
線を引かれたと感じた。
これ以上踏み込むなと、そんな風に言われた気がした。
気付くべきじゃなかった……。気づいても、口にすべきではなかったんだ。あれはあの方にとって、絶対誰にも、知られてはいけないことだった。
俺は彼の方の矜持を、土足で踏みにじってしまった。分かっている。だけど…………っ!
それでも俺は、知ってしまった。見なかったことには、できない…………したくなかった。
だって俺は…………!
俺は、知っているんです。
表情を、全て作り物にしてしまうのは……そうしなければ、苦しいからだってこと…………。
◆
「レイ……」
背後から首に回された腕。
その温もりに、沈み込み浮上出来ずにいた思考が、引き上げられた。
視線を上げると、鏡ごしのサヤが、心配そうに俺を見下ろしている。
そういえば、先ほどサヤが来て、寝る前にすこしだけ……と、髪を梳いてもらっていたのだった。
三つ編みでゆるく癖のついていた髪は、元通りするりとまっすぐになっている。
もしかして、もう随分前に、終わっていた? そう思ったのだけど……。
「アレクセイ様のこと、考えてはったん?」
「う…………うん……。どうしても、頭から離れなくて……」
そう言うと、鏡越しのサヤが困ったように眉を下げた。
少し迷うように、唇が微かに動いて、だけど言葉が出てこず、キュッと結ばれた。
そのかわりに、頭を引き寄せられ、抱きしめられる。
俺を慰めようとしてくれているんだな…………。
冷えていた心が、温もりで満たされていく。
あぁ、幸せだ。
何も持ってはいけなかったはずの俺が、もう、両手では抱えられないくらいに沢山のものを、持っている。
「……本当は、関わるべきじゃないのかもしれない……」
「…………」
「グラヴィスハイド様にだって忠告された。彼の方の読みは本当に当たるから……」
「…………」
「神殿関係者。しかも司教……拠点村の秘密を、まだ知られるわけにもいかないし……」
「…………」
「関わろうとしたって、あちらはもう、俺を疎んでいると、思うし……」
「…………」
サヤの手が、俺の頬に触れた。
鏡越しに視線が絡まり、仕方ないなというふうに笑ったサヤが、俺の頬を撫でる。
「でも、放っておきたくない……」
「うん」
知った以上は、知らなかったことにしたくない。
何ができるわけでもないだろう。だけど、俺がそうしてもらったように、可能性を、残しておくことくらい、しておきたかった。
「ごめん……」
「謝るようなことやあらへん。……私が好きやって思うのは、そういうレイやし……」
誰にかて優しい。そういうレイやし……。
そう言ったサヤが、肩から覗き込むようにして微笑む。それがあまりにも眩しい笑顔で、愛しさがこみ上げてきた。
「サヤ……」
頬に手を添えると、求められるものを悟って、戸惑うように視線が彷徨うから、頬の手をそのまま頭に回してサヤを引き寄せた。
「んっ…………」
何か言おうとしたサヤの唇を甘噛みして、そのまま中へ。舌を絡め合っていくうちに、サヤの瞳が、まるで熱に蕩けてくるみたいに潤みだす。
あぁ、この顔がたまらない。
もっと深く繋がりたい。もっと沢山。もっと全身で、肌同士で直接、温もりを確かめたい……。
だけど、それができないことは分かってる。だから、せめて。舐めて、絡めて、サヤの吐息一つ残さず、全て貪り食らった。
サヤがもう無理と、胸を押してくるまで。
「や、やりすぎ!」
「……ごめん……」
そう言うものの、蕩けてしまっているサヤは可愛いしかない。
だいぶんふわふわとしているみたいだから、サヤの部屋まで送ろうか? と言ったら、怒らせてしまったけど。
じゃあせめてと扉まで送って、最後に額へ啄ばむ口づけを贈ると、バタン! と、勢いよく扉が閉められる。
その慌てっぷりにクスクス笑って寝室に戻り、あの様子なら、大司教のことはもう吹っ切れていると考えて問題無さそうだと、胸を撫で下ろした。
あぁ、俺は幸せだ。
辛い時、苦しい時、仲間がいてくれて、愛する人がいてくれて、俺を一人きりにしないでくれる。
前はそれが、怖かった。
一人じゃなければならないのだと、思っていた。
巻き込みたくない、失いたくない。だから、持たない……。そう考えていた。
だけどそんな俺を、みんなは見捨てないでいてくれた……手を取る勇気が持てるまで、ずっと、背中を押してくれた。手を差し伸べ続けていてくれた。
だから、今がある。この幸せがある。
でも……。
アレクセイ殿は、きっと俺とは違う……。
あの人は要らないと思っている……あの瞳から溢れたものは、何もかもを憎み、嫌っている。
彼の方は、拒んでいた。踏み込んでくるものを、全て初めから……。
何より、あの凄まじい、澱みきった負の感情。
あれに似たものを、俺は、知ってる……。
「…………兄上……」
もうとっくにふさがった足の傷から、鈍い痛みが這い上がってくる……。
俺に執着して、だけど嫉妬して、憎悪して……酒に溺れて、最後は呆気なく、窓から飛び立ってしまった兄上。
炎の中、俺を見下ろしていた兄上の瞳……。
あれに似てたんだ、アレクセイ殿の瞳から、溢れたものは……。
「……もう、あんなのは、ごめんだ……」
あんな風に、何もできずに終わるのは嫌だ。
アレクセイ殿が、心配だった。
彼の方には、あるのだろうか。ギルや、ハインのような存在が。差し伸べられる手が。
あんな凄まじい感情を、ああして制御できている心理が、分からない……。どうしてそこまでできるのか。
ああまでして地位を掴み、得たいものとは、なんだろう。
あの感情は、いったい誰に向けられている?
なんでもしてきたと言ったあの人。
自らの肉体すら、雑に扱うあの行動が、どうしても胸に引っかかる。
真っ黒に塗り固め、制御なんてとてもできる状態じゃないはずの感情を、更に虐めて……。表面だけは、完璧に取り繕って……。
「関わる、べきじゃない…………」
グラヴィスハイド様が、わざわざ警戒するように忠告してきた方。
分かってる。だけど…………関わらないと言う選択は、選べない……。
兄上みたいには、したくない…………。
だから俺は、踏み込まなければいけないと思う。
疎まれても、憎まれても、関わり続けるしかないと思う。
それが拠点村を危険に晒すのだとしても……。
それは、兄上に対する懺悔の気持ちもあったのだろう。
たった一人で、苦しみ抜いて、逝ってしまった兄上と、アレクセイ殿が、どうしても重なった。
だから…………。
ずっと胸の奥から、関わるな。危険だと訴える俺自身の心を、俺は無視した。
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王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
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