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父の軌跡 7

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耳の中に羽虫が巣食っている。
 ザラザラとした気に触る雑音が、俺の頭に詰め込まれていく。
 動かそうにも体は重く、指先一つ、まぶた一つ、自分の自由にならなかった。
 まるで逃がさないとでもいうよう。体を泥炭の底なし沼に沈められているみたいだ。
 そんな俺の耳元で、羽虫の音に混じるようにして、誰かの囁きが聞こえる。
 母を嘲る汚い言葉や、俺を突き刺す異母様や、兄上の言葉。そして意味の汲み取れない、よくわからない会話のような、雑音。
 聞きたくないのに、羽虫の羽音でかき消されることもなく、脳に直接注ぎ込まれる言葉が、頭を圧迫するようで苦しい。

 よもや……。

 おぼえていらっしゃったとは……。

 聞いたことのあるような、声。
 驚きを含むその響きに、できることなら、俺は笑っていただろう。

 忘れられると、思うのか?
 忘れられるような仕打ちか。これが!

 叫び、暴れたい衝動に駆られたけれど、身体はいうことを聞いてくれない……。腕も足も、呪縛されたみたいに、動かない。

 死を望まれた。
 実際俺は息を止め、一度は死んだのだ。
 けれどそれは失敗に終わり、目覚めてみれば無かったことになっていた。
 まるで白昼夢であったみたいに。
 俺は混乱し、だけど認めてはいけないのだと理解し、それを受け入れた。それしか選べなかったからだ。
 程なくしてセイバーンに呼ばれ、そこから俺の人生は、別人のものに差し替えられたように変わった。
 まるで母と二人での生活すら、無かったかのように、何もかもが挿げ替えられた。

 なのに、俺の中からその悪夢は、無くなってはくれなかった……。

 割り切ろうとしてきた。
 恨まないでいようと、自分にそう言い聞かせてきた。
 幼かった母には、色々が、辛く、重かったのだろうと。

 だけどこうして突きつけられてしまうと、どうしようもない苦しみに襲われる。

 母様、殺しそびれた俺を、どう思っていましたか……。
 学舎へ俺をやった時、何を感じましたか……。
 俺が、憎かったですか……。

 手を引いて歩く母にそう声を掛けたけれど、いつも通りに反応は無かった。
 繰り返される記憶は、より鮮明になって、ぼやけていた周りの風景すらはっきりとして。
 更に現実味を帯びただけで、俺に答えは返してくれない……。
 俺が死を受け入れるまで、きっと延々と、繰り返されるのだ……。

 何をしたって、貴女は俺を認めてくれないし、赦してくれもしないのですよね……。

 俺の何がいけなかったんだろう……。
 存在そのものを消したく思うくらい、疎んだ理由は……やはり、俺の存在そのものなのだろうか……。

 もうこの世にはいない人なのだから、どれだけ足掻いたって、俺は否定され続ける。
 これを終わりにするには、もう俺を辞めるしかないのだ……。
 分かっては、いたけれど……。

 いつか、それを乗り越えられる日を、夢見ていた。

 でも今日、そんな日は来ないのだと、実感した。

 どうしたって俺は、この人に囚われたままなのだ。

 忘れられない。それどころか、夢がこうして、現実に追いついてきた。忘れようとする俺を、嘲笑うみたいに。

 先ほど来たばかりの、泉の前にやってきた。
 夢の中では長い道のりだったのに、育った俺にはたいした距離ではなくて、死までの秒読みは、極端に早まった。
 もう抵抗する気もなく、母と並んで足を進めた。
 沈んだらいい……。それで貴女が満足するなら、夢の中でくらい叶えてあげる。
 何度だって殺したらいいよ。何度そうしたって満足してくれないのだろうけれど……。

 貴女が俺に求めてくれたものは、それだけなのだから。

 そう思って、口元までせり上がってくる水に、口を開いた。


 ◆


 開いたのに……。
 水が流れ込んでこない。
 いつの間にか母がいなかった。
 いや、違う……ここは…………ここはどこだ?

 身体を動かそうとしたら、ギシギシと関節が軋んだ。
 飲み込まれてしまった記憶はあったから、俺はまた、あの情けない姿を晒してしまったのだろうと思う。
 よりにもよって、あんな人目につく場所で……。

 それにしては……夢も、ざわつきも、今の頭の状態も……。
 随分マシに思えるのは、なんでだろうな……。

 しかも妙な体勢……半ば崩れてはいたけれど、どこかに寄りかかっているみたいで、頭が何か、むんにょりしたもので支えられていた。

 うっすらと瞳を開くと、ゴツゴツした石壁が見え、まるで牢獄みたいだなと思ったのだけど、じゃあ頭を支えるこの弾力あるものはなんだろうと、視線を近くに落とし……ギクリとした。
 自分がいるのが、どこかの寝台の上だというのは分かった。敷布に、乱れた上掛けがあったから。
 更に、膝まで捲れ上がった夜着から、白くて細い脚が伸びていた……。
 しなやかで、めりはりのある曲線。細い足首に、小さな爪。それがやたらと艶めかしく見えて、なんでそんなものが俺の眼前にあるのかと混乱する。

 確実に俺の足じゃない……。
 いや待て……脚だけのはずもない。

 そろりと腕を動かしてみると、夜着に包まれた自身の腕が視界に入り、上掛けの下に隠れている自分の足にも、布の感触。裸身でなかったことに、神に感謝すら捧げたい気持ちになった。
 着替えさせられたのだな……。いつもなら自力で部屋に籠るのだけど、あの場で乱れてしまったし……。

 だけどそれがなんで……生脚の上。

 もう、夢どころじゃない。
 気持ちとしては飛び起きたかったのだけど、身体に絡みついたもので身動きが取れない。
 生脚があるなら、絡みついているのは多分腕なのだろうと見当はつくのだが、俺は再び目を閉じていた。
 い、いや……見てはいけないものがある可能性が……。いやだけどその場合は、やっぱり俺が何かしらやらかしてるってことに……。

 というか、あの状況からなんでこの状況⁉︎    ていうか、今どういった状況⁉︎

 混乱の中、俺に絡みついているのが腕であるなら、このむんにょりしたものは……という部分に思考が行き着いて……頭が噴火しそうになった。
 い、急いで離れないと、誤解される!

 意を決して瞳を開き、視界に入る限界範囲までを情報収集すると、ゴツゴツした石壁の部屋で、俺は誰かにもたれかかり、両肩から腕を回されている状況だと理解できた。
 扉はある……だから、鍵の有無は分からないけれど、一応牢屋に閉じ込められているといった感じではない……。
 肩に回された腕にも袖があり、相手がちゃんと衣服を身に纏っていたから、まずは慌てるなと自分に言い聞かす。最悪のことは致していないはず。そんな余韻も無いし。
 腕にそろりと手を添えて、まず左腕を外そうと持ち上げ、そこでまた動きを止める羽目になった。
 手の甲に、赤い筋が…………。
 血の滲む、爪で掻き毟られたようなミミズ腫れが、袖口から覗いていたのだ。

 まさか…………。

 反対の腕を掴んで持ち上げると、するりと肘まで落ちた袖から、こちらも似たような状況の腕が出てきて、もう相手を刺激しないようにとか、そんな風に考える余裕も無かった。
 身を起こして振り返ると、やはりというか、それはサヤで、壁にもたれて斜めに傾いた状態で、眠っていた。泣いていたのか……まぶたが少し、赤味を帯びていて、頬にも跡が続いている。解かれた髪が、乱れて顔の左半分を隠していた。
 夜着の胸元が少し開いていて、隙間からふっくらとした膨らみが、ほんの少し覗いていたから、慌てて襟元を正す。
 分からない……分からないけどこの手は多分……。
 恐る恐る自分の手を確認すると……爪や指先に、血や皮脂らしきものが、こびりついて……。

 やっぱり……俺が……。

 震えた。
 自分の手でサヤを傷付けていたのかと思うと、恐ろしくて。
 恐怖のあまり息を吸い込んだら、ズキンと喉が痛み、声の代わりに掠れた息だけが漏れ……。
 すると瞬間、跳ねるようにサヤが飛び起きて、俺と目が合った途端、そのまま俺を突き倒すようにして飛びついてきた!

「っっゃ⁉︎」

 サヤ。と、口にしようと思ったのに、音が出ない。
 掠れた呼吸音だけ溢れ、焼けたような痛みが喉に走った。
 そのあと反射で咳がこみ上げてきて、むせる。

「起きた⁉︎    待って、水飲み。喉がガラガラやろ?」

 慌てて身を離したサヤがそう言って、夜着が乱れるのも構わず、寝台から飛び降りる。
 裸足のまま、離された場所にあった机に用意されていた水差しから、水を器に汲んで持ってきた。

「慌てんと。まず口に含んで、湿らせて。
 飲み込まんと、上の方向いて。勝手に流れるに任せる風に飲む。分かる?」

 寝台に片膝をついて俺の背中に腕を回し、湯呑みを差し出してきたのだけれど、夜着の裾から太腿までが露わになってしまっている。けれどサヤはそんなことは気にしていない様子で、俺の顔を覗き込んで湯呑みを口元に当ててきた。
 その姿に動揺して、されるがままに飲もうとしたけれど、受けつけずにまたむせる。

「ほら、言うたやろ。まず喉を湿らせへんとあかんの!」

 わっ、分かったから……隠して……太腿隠して!

 言葉にできたら言うのだけれど、今、息を吐くしかできない。
 視線がそこに張り付こうとするのを根性でもぎ離し、言われる通り水を口に含んで、顔を上げた。こうすれば確かに、見ないで済むし。サヤは俺から離れる気は無いらしく、そうしている間もじっと俺を見ているようで、視線を感じる。
 なんとか湯呑みを空にすると、また机まで行って、もう一杯汲んできた。

「もう、普通に飲める?」

 心配そうに顔を覗き込み、そんな風に言う。
 自分がどんな格好しているのか、失念してるんじゃないだろうか……。
 女物の夜着一枚……。薄いそれでは、肌まで透けて見えてしまいそうなのに、彼女は全く意に介していない。
 湯呑みを空にすると、もう一杯飲むかと聞かれ、いらないと首を振る。
 そんなことより、サヤの腕が気になった。
 たくさんのミミズ腫れ。袖に隠れてしまったけれど、手の甲まで伸びたその一つは、隠れきらずに見えていた。
 湯呑みを置きに行ったサヤが戻ってきて、俺の頬に、その手を添える。

「……良かった……」

 まっすぐ俺を見て、瞳を潤ませ……その左頬が、少し腫れていることに、今更気付いた。

 それも、俺……?

 それ以外、無いだろう。
 女性の顔を、殴ったのか、俺……。

 俺の視線と表情で、何を考えているかは察したのだろう。
 サヤは、それなのにふんわりと微笑んで俺の胸元に身を擦り寄せてきた。

「かんにんな……一人にしたくなかったんやわ……」

 なんで、謝る……。

 背中に腕が回され、サヤが俺を抱きしめてくれて、夢や現実でボロボロだったはずの心が、満たされていくのを感じた。
 なりふりなんて構わず、俺の傍に、いてくれたのか?    こんな風に、傷付いてまで?    

「手当て、しなきゃ……」

 なんとか吐き出せた掠れ声でそう促したのだけど。

「うん。せやけど、もうちょっとだけ待って」

 サヤがそう言って、腕にまた少し、力を込めたから……躊躇ったものの、俺の腕を彼女の背に回した。
 するとサヤが、俺にもたれかかってきて……。

「二日も起きひんから……すごい、心配した……」

 震える声でそう呟いて、胸元にじんわりとした熱が広がって、滲みた……。
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