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石焼風呂 3
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湯屋側の受台の蓋を開き、水を流す。
初めから予定していた様で、湯屋の側に設置されたはかまどには火がくべられており、既に石が焼かれていた。
「ある程度水が溜まったら、排水用の蓋も開いて、少量だけ水が通る様にするんだ。
中で湯は使われて減っていくわけだし、湯の温かさにあまり影響しない程度の量で、常に補給していく感じだね。
あと、状況によって、焼いた石を入れて、湯を沸かすことになると思う」
アーロンがそんな風に説明をしてくれ、石を掴む鋏なども見せてくれた。
それにしても、かまどの側が妙に暑い。少し距離を開けて立っていたのだが、だんだん辛くなってきたので、壁に寄りかかって待った。
しまったな……動けば熱など、忘れてしまうものだと思っていたのに。
やはり日々、少しずつの無理が重なってくると、融通がきかない。
「そろそろ湯船に水が満たされて来た感じだから、石、入れてみようか」
アーロンからそんな声が上がったので、またかまどの側に移動した。
かまどの中から、熱せられて芯の赤くなった石が鋏で掴み出される。
人の頭大の、大きな石。それが湯船の、仕切りのこちら側に突っ込まれると、ジシュッという音と共に、結構な湯気が一気に立ち込めた。石の周りも一気に泡立つ。
暫くそれを見守ったら、次の石が掴み出され、また入れられる。
格子に仕切られたこちら側の水は、もう確実に茹だっている様だ。
けれど、まだであるらしい。暫くして、また次の石が入れられた。
湯気が立ち込める倉庫の中は、壁が半分無いとはいえ、結構な湿度になっている気がする。暑い……。
「もうそろそろ良いかなぁ……。えっと、反対側の湯船の温度……」
「よしっ、俺が行って確認して来よう」
ディート殿が、大股で湯屋の表側に回っていった。
なんだかんだでのりが良い人だ。いつも率先して動くのだから。
たいして待つでもなく、屋根のない湯屋の仕切りの内側から、
「少々熱いが、ちゃんと風呂になったぞ!」
と、やたら嬉しそうな声が聞こえてくる。
「こうまでちゃんと形になっているのなら、入ってみたいものだな。
せっかく風呂になっているのに、使わず流してしまうのか?」
壁越しに聞こえてくる声がウズウズしている様で、俺はつい苦笑してしまった。
「時間はありますから、使ってみますか?
近衛の方に使って頂く為に作ったんですから。
やり方をお教えしますから、他の近衛の方々への指導はお願いしますよ」
「心得た! ではサヤ、こちらに来い。使い方を伝授してくれ」
うええぇ⁉︎
さ、サヤはちょっと、駄目だ!
「ディート様、サヤは駄目ですよ。レイ様の護衛がいなくなってしまいますから。
なので僕で勘弁して下さい」
マルがそんな風に気を使ってくれたので、ありがとうと視線でお礼を伝えておく。
僕も興味あるので、一緒に入って良いですか? と、聞いてくるものだから、ディート殿が良いならばどうぞと言って送り出した。
手拭い等は大丈夫なのか? と、思っていたら、サヤが取りに行ってくると言い出したので、じゃあ俺と共に、一旦戻ろうと言ったのだが……。
「ああ、レイ様はここに居て下さいよ。マレクに言伝に行かせますから」
アーロンがそう言って目配せすると、マレクは快く動いてくれた。
雨の中申し訳ないなと思ったのだが、
「あいつ、ルーシーさんにお目にかかりたいだけだから、気にしないで」
と言われ、おお。と、少し狼狽えてしまう。
そ、そうか。そうだな……。ルーシー、あれで結構な美少女だものな。しかも十七になったのだ。世間では、結婚していたっておかしくない年齢……なのだよな。
「ルーシーは人気者だな。サヤもウカウカしておられんぞ」
壁越しに、そんな声が聞こえてくる。
ああ、そういえば、ディート殿は、ルーシーとサヤが相思相愛だと勘違いしたままか。
「ルーシーさんはお美しいですから」
「サヤ……お前は大らかなのか? 鈍感なのか? 嫉妬したりせぬのか? たまにはそんな素振りも見せてやらぬと、女の悋気が凄いことになるぞ」
あははと、マルの笑い声。
サヤくんは包容力がありますねぇなどと、そんな軽口をたたく。
ディート殿は引く手数多なのだろうな……男爵家の出なのに近衛なのだから。同格の中ではかなりの出世頭だ。社交界では人気の的だろう。
あと三ヶ月で成人すると仰っていたし、今年の社交界は縁談が山積みで待っているのかな。
もしくは、許嫁等、もう決まった方がいらっしゃるのかもしれない。
「そういえば、レイ殿は決められた相手がいらっしゃるのか?
その麗しさだからな。さぞ浮名を流しておるのだろう?」
ディート殿のことを考えていたのに、俺に飛び火して来てしまった……。
熱に当てられて、少しグラグラしだした頭でげんなりと溜息を吐く。
「そんなわけないでしょう。
俺は片田舎の妾腹二子ですよ? 旨味が無いですから、そもそも近付こうと思われませんよ」
「まさか! むしろ婿養子にという話が山と舞い込んでいそうだぞ。
レイ殿は人当たりが良いし、見目麗しい上に、領地経営経験者だ。そんな有望な貴殿が、放っておかれるとは思えん。かなりの人気株だと思うがなぁ」
壁越しで良かった。表情を取り繕わなくて良いから。
ディート殿の言葉には苦笑すら溢れてこない。
俺にはそんな未来は無いですよ。そもそも、存在自体が認められないのだから。一生を、きっとここで過ごします。そして俺の血は、残されない。
「……ありませんよ、そんなこと」
「それこそ、父上殿から何も言って来られぬのか?」
「…………」
あー……この人にも、言わなきゃ駄目かな……。
「父上とは……長らくお会いしていないもので……」
「……領地経営を引き継いでいるのにか? 申し送りもなにも、無かったなどということは、無いだろう?」
無かった。
学舎にあった連絡では、母が亡くなって領地管理が滞っているから、学業を辞めて即戻れと、それだけだったから。
そしていざ帰ってみたら、父上すら居らず、療養中だと知らせを受けただけで、申し送りは終わったのだ。
「……急なことだったので……」
だから、そう言うしかない。
「……それは、妙だな」
だが、ディート殿が、そんな風に声をあげる。
「レイ殿が領地管理を任されたのは、二年前の、春からのことであったな……。
同時期、俺はセイバーン殿にお会いしたことがある。
ご健勝であられたぞ。俺と同じくらいの歳の息子を、学舎へやっていると……あれは、レイ殿のことだろう?」
息を飲んだ。
「ヴァイデンフェラーは他国と隣接しているのでな。
罪人がこちらに逃げ込んできたり、逆に逃げられたり……そういったいざこざが多い。
あのおりは確か……窃盗団が国境付近に逃げ込んだという急な知らせが入った状況で、山狩りを行う為に、応援を要請したのだったか。
たまたま、セイバーン殿は男爵家の会合でこちらにお越しで、護衛をお貸し頂いたのだ。
御身の安全が確保できぬので、半数で良いと伝えたのだが、これだけ男爵家の者が集まって、それなりに私兵を持たれているのだから、私一人くらい、兵が居らずとも問題無かろうと仰ってな。
自分の身の安全くらいはなんとでもなると……そう言って、従者もお連れのご婦人に回してしまわれて、ご自身は悠々と、読書を楽しまれていたから、とても印象的だった」
俺の記憶にある父上と、ずいぶん違うと思った。
俺の記憶の父上は、常に職務に追われていて、少し疲れた様子だったし、趣味の時間を愉しんでいるような、そんなゆとりは無いも同然で……。
そんな豪胆な一面があるだなんて、知らない……本当に、父上なのだろうか?
「ああ!
そういえば、あのお連れのご婦人……レイ殿のお母上か?
お小さい、美しい方だった。瞳の色が、レイ殿と同じだな」
心臓が跳ねた。
母は父上の補佐をしていたわけだから、仕事の会合ならば当然、同行していたろう。
俺はとっさに返事が出来ず、母の死から、ずっと避けていた、生きていた時の母の話を、どうやってやり過ごそうかと考える。
聞きたくない。
「思い出した。
そのお母上だ。俺に年を聞かれたのだった。
同じくらいの息子が、学舎にいると。長らく会っておらぬゆえ、どれほど成長したろうかと、俺を見て、思い出してしまったと仰っていたのだ。
そこにセイバーン殿がいらっしゃって、気に病むなと。
息子とは筆不精なものだから、便りが少ないのは元気にしている証拠なのだと。
あと二年在学を希望するというのも、戻りたくないということではなく、時間の許す限り学びたい気持ちの表れだ。熱心に勉学に励んでいると、聞いているからと仰っていた。
どうしても気になるならば、仕事のことは私に任せて、面会に行って来てはどうだ……と、そんな風に話をされていた」
早鐘を打つ心臓が、痛い。
聞きたくない……今更……今更なんだよ……。便りをよこさなかったのはどっちだ⁉︎ いつも事務的な内容ばかり、俺が距離を置いたんじゃない、母様が、そうしたんじゃないか!
「……そうか、あと二年と希望していたのに、結局、戻られたのだな……。
お母上とは、その後、どう……」
「レイ様のお母上、亡くなられましてね。
落馬だそうで、それでレイ様は、学舎の卒業すら待たず、こちらに戻られ、役割を引き継いだのですよ」
マルが、ディート殿の言葉を遮ってくれた。そのお陰で、今にも叫びそうになっていた言葉を、かろうじて飲み込む。
呼吸が早くなっている俺の背に、手が触れた。
サヤだ。
今まで俺から、少し距離を取っていたのに、寄り添う様に横に来て、背中をさすってくれる。
あぁ……サヤの手だ……。
大丈夫。こうやって皆が俺を支えてくれるから、俺はもう、大丈夫なんだ。
母のことなんて、思い出さなくて良い……母が俺をどう思っていたかなんて、どうだって良い。
そもそも関わりたくない。これ以上、振り回されたくないんだ。
「それでは、お母上を亡くし、セイバーン殿まで病床に付されていたと?」
「そうですよ。戻られたら、配下の方々は地方の管理に出払っておりまして、このセイバーン周辺が手付かず状態でしたからね。レイ様とハインとで、手探りながら管理を進めていかれたのですよ」
「……セイバーン殿から、一声も掛かっていないと?」
「ええ、一声どころか、病状ひとつも、レイ様に直接は届きませんよ。
何かの拍子に、ちょっと流れてくるお話があるだけで……配下の方からすら……」
「マル! もう、良いから……」
やっとのことで話を遮った。
配下の方々は、父上の采配なのだと思う。俺一人戻ったところで、領地全体の管理が出来るわけがないのだ。だから、敢えてこうされたのだ。きっとそう。きっと……。
「それではまるで……レイ殿から、手の者を遠去けたかの様ではないか?」
「違います! お、俺が、不甲斐ないから……俺の出来ることが、セイバーン周辺の管理で限界だったから……」
「…………そう、か。いや、すまぬ。他領の事情に、俺が足を突っ込むのは筋違いだな」
何かを察して下さったのだろう。
ディート殿が、話を引いてくれた。
ほっと胸をなでおろしたのだが、その気の緩みの隙を突くかの様に、鋭い一言が投げ掛けられる。
「レイ殿からは、何も、伺わなかったのか?」
「……………」
答えられない……。
「……レイ殿からの接触は、許されていないと言っていたな……だが、それでも手段はあるだろう?
目端のきく配下だっている。なのに、何故手を打たない」
「…………」
打てない……。
ただの約束とは違うのだ。守らなければならない。神に誓っているのだから。アミに守られるこの地で、アミと結んだ誓約だ。そして俺は貴族なんだ。
「……まさかとは思うが……誓約、か?」
答えられないんだよ!
「……そうか。なんにしても、他領の者である俺が、口出しすることではないな」
沈黙。
気不味い雰囲気の中、俺の浅い呼吸が、やたら煩く聞こえて煩わしかった。
丁度マレクが大量の手拭いを抱えて戻り、準備が整ったということで、風呂を利用することとなる。壁越しに、マルが風呂の手順を説明している声を聞きつつ、俺はこの時間が終わるまでに、自分の表情を取り繕うことに専念した。
その間、サヤは静かに俺に寄り添い、背中をさすってくれた。
一言も発さない。だから俺も、何も言わなかった。
初めから予定していた様で、湯屋の側に設置されたはかまどには火がくべられており、既に石が焼かれていた。
「ある程度水が溜まったら、排水用の蓋も開いて、少量だけ水が通る様にするんだ。
中で湯は使われて減っていくわけだし、湯の温かさにあまり影響しない程度の量で、常に補給していく感じだね。
あと、状況によって、焼いた石を入れて、湯を沸かすことになると思う」
アーロンがそんな風に説明をしてくれ、石を掴む鋏なども見せてくれた。
それにしても、かまどの側が妙に暑い。少し距離を開けて立っていたのだが、だんだん辛くなってきたので、壁に寄りかかって待った。
しまったな……動けば熱など、忘れてしまうものだと思っていたのに。
やはり日々、少しずつの無理が重なってくると、融通がきかない。
「そろそろ湯船に水が満たされて来た感じだから、石、入れてみようか」
アーロンからそんな声が上がったので、またかまどの側に移動した。
かまどの中から、熱せられて芯の赤くなった石が鋏で掴み出される。
人の頭大の、大きな石。それが湯船の、仕切りのこちら側に突っ込まれると、ジシュッという音と共に、結構な湯気が一気に立ち込めた。石の周りも一気に泡立つ。
暫くそれを見守ったら、次の石が掴み出され、また入れられる。
格子に仕切られたこちら側の水は、もう確実に茹だっている様だ。
けれど、まだであるらしい。暫くして、また次の石が入れられた。
湯気が立ち込める倉庫の中は、壁が半分無いとはいえ、結構な湿度になっている気がする。暑い……。
「もうそろそろ良いかなぁ……。えっと、反対側の湯船の温度……」
「よしっ、俺が行って確認して来よう」
ディート殿が、大股で湯屋の表側に回っていった。
なんだかんだでのりが良い人だ。いつも率先して動くのだから。
たいして待つでもなく、屋根のない湯屋の仕切りの内側から、
「少々熱いが、ちゃんと風呂になったぞ!」
と、やたら嬉しそうな声が聞こえてくる。
「こうまでちゃんと形になっているのなら、入ってみたいものだな。
せっかく風呂になっているのに、使わず流してしまうのか?」
壁越しに聞こえてくる声がウズウズしている様で、俺はつい苦笑してしまった。
「時間はありますから、使ってみますか?
近衛の方に使って頂く為に作ったんですから。
やり方をお教えしますから、他の近衛の方々への指導はお願いしますよ」
「心得た! ではサヤ、こちらに来い。使い方を伝授してくれ」
うええぇ⁉︎
さ、サヤはちょっと、駄目だ!
「ディート様、サヤは駄目ですよ。レイ様の護衛がいなくなってしまいますから。
なので僕で勘弁して下さい」
マルがそんな風に気を使ってくれたので、ありがとうと視線でお礼を伝えておく。
僕も興味あるので、一緒に入って良いですか? と、聞いてくるものだから、ディート殿が良いならばどうぞと言って送り出した。
手拭い等は大丈夫なのか? と、思っていたら、サヤが取りに行ってくると言い出したので、じゃあ俺と共に、一旦戻ろうと言ったのだが……。
「ああ、レイ様はここに居て下さいよ。マレクに言伝に行かせますから」
アーロンがそう言って目配せすると、マレクは快く動いてくれた。
雨の中申し訳ないなと思ったのだが、
「あいつ、ルーシーさんにお目にかかりたいだけだから、気にしないで」
と言われ、おお。と、少し狼狽えてしまう。
そ、そうか。そうだな……。ルーシー、あれで結構な美少女だものな。しかも十七になったのだ。世間では、結婚していたっておかしくない年齢……なのだよな。
「ルーシーは人気者だな。サヤもウカウカしておられんぞ」
壁越しに、そんな声が聞こえてくる。
ああ、そういえば、ディート殿は、ルーシーとサヤが相思相愛だと勘違いしたままか。
「ルーシーさんはお美しいですから」
「サヤ……お前は大らかなのか? 鈍感なのか? 嫉妬したりせぬのか? たまにはそんな素振りも見せてやらぬと、女の悋気が凄いことになるぞ」
あははと、マルの笑い声。
サヤくんは包容力がありますねぇなどと、そんな軽口をたたく。
ディート殿は引く手数多なのだろうな……男爵家の出なのに近衛なのだから。同格の中ではかなりの出世頭だ。社交界では人気の的だろう。
あと三ヶ月で成人すると仰っていたし、今年の社交界は縁談が山積みで待っているのかな。
もしくは、許嫁等、もう決まった方がいらっしゃるのかもしれない。
「そういえば、レイ殿は決められた相手がいらっしゃるのか?
その麗しさだからな。さぞ浮名を流しておるのだろう?」
ディート殿のことを考えていたのに、俺に飛び火して来てしまった……。
熱に当てられて、少しグラグラしだした頭でげんなりと溜息を吐く。
「そんなわけないでしょう。
俺は片田舎の妾腹二子ですよ? 旨味が無いですから、そもそも近付こうと思われませんよ」
「まさか! むしろ婿養子にという話が山と舞い込んでいそうだぞ。
レイ殿は人当たりが良いし、見目麗しい上に、領地経営経験者だ。そんな有望な貴殿が、放っておかれるとは思えん。かなりの人気株だと思うがなぁ」
壁越しで良かった。表情を取り繕わなくて良いから。
ディート殿の言葉には苦笑すら溢れてこない。
俺にはそんな未来は無いですよ。そもそも、存在自体が認められないのだから。一生を、きっとここで過ごします。そして俺の血は、残されない。
「……ありませんよ、そんなこと」
「それこそ、父上殿から何も言って来られぬのか?」
「…………」
あー……この人にも、言わなきゃ駄目かな……。
「父上とは……長らくお会いしていないもので……」
「……領地経営を引き継いでいるのにか? 申し送りもなにも、無かったなどということは、無いだろう?」
無かった。
学舎にあった連絡では、母が亡くなって領地管理が滞っているから、学業を辞めて即戻れと、それだけだったから。
そしていざ帰ってみたら、父上すら居らず、療養中だと知らせを受けただけで、申し送りは終わったのだ。
「……急なことだったので……」
だから、そう言うしかない。
「……それは、妙だな」
だが、ディート殿が、そんな風に声をあげる。
「レイ殿が領地管理を任されたのは、二年前の、春からのことであったな……。
同時期、俺はセイバーン殿にお会いしたことがある。
ご健勝であられたぞ。俺と同じくらいの歳の息子を、学舎へやっていると……あれは、レイ殿のことだろう?」
息を飲んだ。
「ヴァイデンフェラーは他国と隣接しているのでな。
罪人がこちらに逃げ込んできたり、逆に逃げられたり……そういったいざこざが多い。
あのおりは確か……窃盗団が国境付近に逃げ込んだという急な知らせが入った状況で、山狩りを行う為に、応援を要請したのだったか。
たまたま、セイバーン殿は男爵家の会合でこちらにお越しで、護衛をお貸し頂いたのだ。
御身の安全が確保できぬので、半数で良いと伝えたのだが、これだけ男爵家の者が集まって、それなりに私兵を持たれているのだから、私一人くらい、兵が居らずとも問題無かろうと仰ってな。
自分の身の安全くらいはなんとでもなると……そう言って、従者もお連れのご婦人に回してしまわれて、ご自身は悠々と、読書を楽しまれていたから、とても印象的だった」
俺の記憶にある父上と、ずいぶん違うと思った。
俺の記憶の父上は、常に職務に追われていて、少し疲れた様子だったし、趣味の時間を愉しんでいるような、そんなゆとりは無いも同然で……。
そんな豪胆な一面があるだなんて、知らない……本当に、父上なのだろうか?
「ああ!
そういえば、あのお連れのご婦人……レイ殿のお母上か?
お小さい、美しい方だった。瞳の色が、レイ殿と同じだな」
心臓が跳ねた。
母は父上の補佐をしていたわけだから、仕事の会合ならば当然、同行していたろう。
俺はとっさに返事が出来ず、母の死から、ずっと避けていた、生きていた時の母の話を、どうやってやり過ごそうかと考える。
聞きたくない。
「思い出した。
そのお母上だ。俺に年を聞かれたのだった。
同じくらいの息子が、学舎にいると。長らく会っておらぬゆえ、どれほど成長したろうかと、俺を見て、思い出してしまったと仰っていたのだ。
そこにセイバーン殿がいらっしゃって、気に病むなと。
息子とは筆不精なものだから、便りが少ないのは元気にしている証拠なのだと。
あと二年在学を希望するというのも、戻りたくないということではなく、時間の許す限り学びたい気持ちの表れだ。熱心に勉学に励んでいると、聞いているからと仰っていた。
どうしても気になるならば、仕事のことは私に任せて、面会に行って来てはどうだ……と、そんな風に話をされていた」
早鐘を打つ心臓が、痛い。
聞きたくない……今更……今更なんだよ……。便りをよこさなかったのはどっちだ⁉︎ いつも事務的な内容ばかり、俺が距離を置いたんじゃない、母様が、そうしたんじゃないか!
「……そうか、あと二年と希望していたのに、結局、戻られたのだな……。
お母上とは、その後、どう……」
「レイ様のお母上、亡くなられましてね。
落馬だそうで、それでレイ様は、学舎の卒業すら待たず、こちらに戻られ、役割を引き継いだのですよ」
マルが、ディート殿の言葉を遮ってくれた。そのお陰で、今にも叫びそうになっていた言葉を、かろうじて飲み込む。
呼吸が早くなっている俺の背に、手が触れた。
サヤだ。
今まで俺から、少し距離を取っていたのに、寄り添う様に横に来て、背中をさすってくれる。
あぁ……サヤの手だ……。
大丈夫。こうやって皆が俺を支えてくれるから、俺はもう、大丈夫なんだ。
母のことなんて、思い出さなくて良い……母が俺をどう思っていたかなんて、どうだって良い。
そもそも関わりたくない。これ以上、振り回されたくないんだ。
「それでは、お母上を亡くし、セイバーン殿まで病床に付されていたと?」
「そうですよ。戻られたら、配下の方々は地方の管理に出払っておりまして、このセイバーン周辺が手付かず状態でしたからね。レイ様とハインとで、手探りながら管理を進めていかれたのですよ」
「……セイバーン殿から、一声も掛かっていないと?」
「ええ、一声どころか、病状ひとつも、レイ様に直接は届きませんよ。
何かの拍子に、ちょっと流れてくるお話があるだけで……配下の方からすら……」
「マル! もう、良いから……」
やっとのことで話を遮った。
配下の方々は、父上の采配なのだと思う。俺一人戻ったところで、領地全体の管理が出来るわけがないのだ。だから、敢えてこうされたのだ。きっとそう。きっと……。
「それではまるで……レイ殿から、手の者を遠去けたかの様ではないか?」
「違います! お、俺が、不甲斐ないから……俺の出来ることが、セイバーン周辺の管理で限界だったから……」
「…………そう、か。いや、すまぬ。他領の事情に、俺が足を突っ込むのは筋違いだな」
何かを察して下さったのだろう。
ディート殿が、話を引いてくれた。
ほっと胸をなでおろしたのだが、その気の緩みの隙を突くかの様に、鋭い一言が投げ掛けられる。
「レイ殿からは、何も、伺わなかったのか?」
「……………」
答えられない……。
「……レイ殿からの接触は、許されていないと言っていたな……だが、それでも手段はあるだろう?
目端のきく配下だっている。なのに、何故手を打たない」
「…………」
打てない……。
ただの約束とは違うのだ。守らなければならない。神に誓っているのだから。アミに守られるこの地で、アミと結んだ誓約だ。そして俺は貴族なんだ。
「……まさかとは思うが……誓約、か?」
答えられないんだよ!
「……そうか。なんにしても、他領の者である俺が、口出しすることではないな」
沈黙。
気不味い雰囲気の中、俺の浅い呼吸が、やたら煩く聞こえて煩わしかった。
丁度マレクが大量の手拭いを抱えて戻り、準備が整ったということで、風呂を利用することとなる。壁越しに、マルが風呂の手順を説明している声を聞きつつ、俺はこの時間が終わるまでに、自分の表情を取り繕うことに専念した。
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