異界娘に恋をしたら運命が変わった男の話〜不幸の吹き溜り、薄幸の美姫と言われていた俺が、英雄と呼ばれ、幸運の女神と結ばれて幸せを掴むまで〜

春紫苑

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慈悲

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 一通りの準備を終えてから、明日の準備の為にと、湯浴みをした。
 もう夏となるこの時期だからまあ、苦にはならないのだが……。

「久しぶりにこうやってみると、何か、違和感があるな。
 こう、爽快な気分になれないというか……意外に窮屈というか……」
「そうですね。水汲みはサヤがやってくれてましたから、我々は湯に浸かるだけでしたしね。
 全体をいっぺんに洗ってしまえるというのも楽だったように感じます」

 更に言うなら、ハインにいちいち世話されているのがなんか、居心地悪い……。
 サヤが来るまでは当たり前であった訳だが、風呂が出来てからは全て一人で洗ったりしてたしな……。あれって案外、息抜きにも良かったんだなぁと、思う。
 ハインがいるのが嫌という訳ではないのだが、一人になる時間というのは、俺にはほぼ無い。それこそ不浄場や、寝ている時くらいなのだ。
 どうせ衝立一枚隔てた場所に誰かしらが居るのだが、視界に入らないだけで違うらしい。
 そうか、風呂にはそんな効果もあったかと、改めて感心した。
 うーん……ギルにも風呂を作ってみないかと提案しようかな……。いや、俺たちの為ってわけじゃなく、あれはかなり気持ち良いのだ。ギルがセイバーンに来ることは殆ど無いし、体験してもらう機会が無い。だけど、気に入ると思うんだよなぁ。
 体の方を洗い終えてから夜着を着て、サヤに髪をお願いする。
 湯浴みの間は自室に引いてもらっていたサヤが、いつもの小瓶を取り出して、盥の湯にそれを数的垂らし、掻き混ぜる。その準備の間に、ハインが櫛で髪を梳いた。
 最近よく洗うから、普段から艶もあるのだが……明日の為にと言われてしまったのだ。

「サヤ、腕が……」
「力を入れる作業ではないんですから、大丈夫ですよ」

 心配する俺に、サヤは苦笑する。
 だが結局ハインが交代し、サヤの代わりに髪を洗った。
 眉間のシワからして、ハインも心配なのだ。力を入れずとも、使えば痛みもあると思う。サヤはなんでも我慢して、それを顔に出さない節があるからな。

「……随分、減ってしまったように見えるんだが……良かったのか?俺に使ってしまって……」

 小瓶の中身は半分程になっている。初めは確か、小瓶の七分目ほどまで入っていたと思う。
 サヤの持つ柘植櫛というものは、この油を使って手入れする必要があるのだそうだ。
 俺に使い、サヤ自身に使い、櫛にも使用しているのだから、減るのも当たり前か。小さな瓶だしな……。
 表情が曇る俺を気にしたのか、サヤはなんでもないことのように笑って言う。

「その時はその時ですよ。物は、いつかは失くなります。それに、使うべき時に使わない方が、勿体無いです」
「何か、他のもので代用などは出来ないのですか?」
「うーん……何かの油で代用は効くと思うのですけど……椿油と同じ効果にはならないと思います。この油は、とても人に馴染みやすい性質みたいなんですよね。
 他にスキンケアに使う油と言えば、ホホバオイルとか、ココナッツオイルとか、よく聞きますけど……あるんでしょうか……」
「うーん……聞いたことが、無い……」
「油なのですよね……紅花油、胡麻油、菜種油、阿利布油……食用しか思いつけません」

 悩む俺たちに、サヤは眉の下がった笑顔だ。
「気を使って頂いて、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。あまり気にしないで下さい」と、逆にこちらに気を使うのだ。
 でもな……いつか失くなってしまうというなら尚更、使ってはいけないのではないか……だって、サヤの大切な……祖母から祝いに貰ったという櫛が、手入れ出来なくなってしまうのだ。
 サヤの世界から持ち込めたものは、サヤの着てきた服と小物、その小瓶の油と、櫛しかない。なのに、そのうちの二つを失うことになる……。

「こちらの世界に椿があれば、良いんですけどね。この油は、椿の種を絞ったものなので。
 ここは、私の世界と同じものが沢山あるので、どこかにあるかもしれません」
「植物なのだよな……どんなものだ?」
「木です。赤や、白の花が咲きます。可憐な花ですよ」

 と、そこでトントンと扉が叩かれた。手拭いをお持ちしましたと、女中の声がする。
 ああ、そうだった。手拭いをお願いしてたな。
 なんとなくそこで会話が途切れてしまい、持ってきてもらった手拭いで髪の水分を拭き取る作業に熱中する。なにせ長い。手拭いをかなり消費するのだ。

「ああもうっ、切りたい!夏は最悪に暑いし痒いのにっ」
「あと二年の辛抱です」
「頻繁に洗ってますから、今までよりきっと、随分マシだと思いますよ。でも……二年で切っちゃうんですか……ちょっと、残念です」
「ええっ、毎日毎日、結わえるだけでも大変な作業だろう?」

 意外なことを言うサヤにびっくりするが、サヤはそんな風には思ってないらしい。
 俺の髪にサラリと指を通して、しんみりと言うのだ。

「そんなの、全然苦じゃありません。むしろ、とても好きな作業です。
 こんなに綺麗なのに…………切っちゃうんですか」

 う………………。
 そんなに残念そうに言われると……切りにくい……。

「貴族は、どちらにしても切らねばなりません。神殿に奉納せねばなりませんからね」
「そう、でしたよね。でも、それまでは毎日、結わえたいです。最近は特にサラサラで、すごく手触り良くなって、毎朝楽しいんです」
「そ、そうか……」

 うう、なんと返答して良いやら……。
 それに、毎日と言われてもな……サヤはやはり……残ってくれる気は、無いのだよな。この物言いからして……。
 なんとなく気まずい思いをしていると、使った手拭いや盥を纏めたハインが、片付けてきますと部屋を後にする。嘘だろ⁉︎    なんで今、わざわざ今⁉︎
 部屋に二人にされてしまい、さらに気まずい気分になった。
 それまで普通に会話していたのに、それもピタリと途切れてしまった。
 すごく居心地の悪い沈黙の中、サヤは退室せず、明日の準備か、衣装棚から礼服を取り出し、整えている。俺はその後ろ姿を暫く見つめてから、視線を手元に落とし……困っていた。

 実は……サヤに怒鳴りつけられてから……ずっと、謝罪せねばと思いつつ、それが出来ていない……。
 昨日の自分の言動を思い返すと……そして今日俺のしたことを思い返すと、身悶えしたいほど恥ずかしい。
 俺はサヤに、命令したのだ。ここに残れと。サヤの考えや、意思を無視して。
 そして今でも、サヤはここに残ってほしいと思ってる……。せめて、夏の間だけでも。
 夏場の従者は、本当に過酷なのだ。特に俺の周りは、人手不足でやることも多い。そこに更に男装では、体調を崩すなという方が無理だ。
 化粧も落ちやすくなるだろうし、サヤが危険に晒される可能性が、格段に上がるのだ。
 サヤに啖呵を切られた後、有耶無耶にしたまま、ここまで過ごしてしまった……。当たり前のように、当たり前の顔で話をしていたけれど……二人きりになると、意識してしまう。
 やっぱり……謝罪は、すべきだよな……。

 俯いて自分に言い聞かせ、気合を入れて顔を上げると、険しい顔のサヤがじっと、俺を見ていた。
 ザッと血の気が下がる。いつまでも謝罪しないから、また怒ったのかと思ったのだ。
 だが、予想に反して、サヤは深々と頭を下げた。

「あの、申し訳ありませんでした」
「えっ、な、……ち、違うだろ!    なんでサヤが、俺より先に謝るの!」

 サヤは顔を上げなかった。頭を掻き毟りたくなる。これじゃあ、あべこべだろ⁉︎

「謝るのは俺なんだから、頭を上げて……そんな風にしないでくれ!」
「ハインさんに、叱られました。本来ならば。従者ならば。主人の命令は絶対ですと……」

 そう言われて頭を抱えてしまった。そりゃ、通常ならそうだよ。俺以外に仕えるならね!
 だけど俺は、大抵その通常が通用しないって、分かってるだろうに!    いっつもそう言って小言を言ってくるくせに、こんな時に限ってそんなこと、言わなくて良いじゃないか‼︎

「そりゃ、俺以外ならそうだろうけど!    謝るのは俺だ……。
 サヤの意思を無視して、サヤの意に沿わないことを、命令した……。
 もっと、きちんと……時間をかけて、説明すべきだったと思う……。俺の考えを押し付けるべきじゃなかったんだ!」
「はい、それもお聞きしました。だから、今回は、私が正しいと」

 ……はい?
 なら……なんで、謝った……の?
 つい首を傾げてしまう。
 サヤは一旦頭を上げた。そして、何か、険しい顔で暫く逡巡した後、俺の目前まで歩いてきて、ふうっと、視線を逸らして溜息をつく。なんだか凄く、居心地悪そうに。

「それでも……ひとこと、謝りたかったんです……。
 レイシール様は、私のことをとても心配して下さって……その上での言葉だったんですから……。
 なのに私、あんな風に……感情的に怒るべきではありませんでした……。
 大人気ないことをしました……」

 あ、いや……お、大人気ないって……サヤ、まだ十六歳だろ……。
 じゃあ、気持ちの制御すらできなくて、半日部屋に篭った上にあんな醜態晒した十八歳の俺ってどうなの……。
 逆にグサリときてしまった。
 十六歳の少女に感情的になってしまってた自分が恥ずかしい……。そして精神の均衡を保つことすらできない自分が……。
 ……でも……情けないのなんて、今更かなと、考え直す。
 今更だな……ほんと。

「サヤ……ちょっと、仕事を休憩しても良いかな」

 レイシールではなく、レイとして話がしたかった。
 サヤの目を見て、ちゃんと伝えたい。

「すまなかった……。
 サヤの気持ちを蔑ろにしていた。例えどんな理由があっても、それはやっぱり、すべきことじゃなかった」

 頭を下げ、謝罪する。
 その上で、俺の事情を、きちんと話しておくことにする。
 俺の勝手で、サヤを振り回してしまったのだ。
 何も知らなかったサヤは、きっととても、悲しい思いをしたはずだ。何度も何度も、傷つけてしまったはずだ……。謝っておしまいじゃあ、不誠実だと思った。

「俺……たまに、あんな風に……気持ちがぐらぐらして、自分を保てなくなることが、あるんだ。
 えっと……どう、説明すれば良いのか……分からないんだけどね……何もかもが、怖くなるというか……頭の中が、いっぱいになるというか……。
 そうなると、自分で感情の手綱をどうにも、握れなくなって……あんな風になってしまう……」
「……うん」
「あまりに、情けない姿だから……誰にも、見られたくなくて……知られたくなくて……ハインやギルには、見ないふりして貰ってて……あの二人は、俺がああなってる時を何回も見られてて……迷惑掛けてて……。
    できるだけ、ああならないようにって、気を張ってはいるんだけど……」

 言っててだんだん情けなくなってきた。なんか、言い訳してるみたいだ……。
 後二年で成人するって年なのに、なんで俺はこうなんだろうと……自分の気持ちひとつ、満足に維持することすらできないなんて、どれだけ未熟なのかと……そう思ったのだ。
 ハインやギルが、そんな風になったとこなんて、見たことない……ハインはたまに暴走するけれど、それだって、俺のような暴走とは違う……。俺は、どうしてこうなのだろう……何故、人と同じように出来ないのだろう……自分のことひとつ満足に管理できない……どうして俺はこうも…………。

「弱いんだ……何もかもが未熟で……本当に、情けない………」

 ほんと、消えてしまいたくなるくらい、情けない……。
 いくら背が伸びても、年を取っても、成長できない……強くなれない……人の手を煩わせ、気を使わせ、更に迷惑を掛ける、不甲斐ない自分を、サヤに晒し続けてる……。
 うなだれるしかない俺に、ただ黙って聞いていたサヤが、手を伸ばした。
 柔らかく、細い指が、俺の手を取る。

「辛いこと、ぎょうさんあったんやろ?」

 ああ、やっぱりもう、知られてしまったんだな……。
 俺が異母様や兄上に抗えない理由を……。
 あんな醜態を晒してしまったのだから、サヤを傷つけてしまったのだから、言わなきゃならないことだったけれど……知られてしまったことがやはり、辛い。
 どうしてこんなに情けないのかと、サヤにそう思われやしないか、考えると、怖い……。
 サヤを守るべき立場の俺が、こんなに情けない人間だなんて……きっとサヤを不安にさせてしまう。強くなければいけないのだ、俺は。民を守れるよう、強くなければ……。
 それなのに、過去の恐怖一つ振り払えない。脆くて、情けなくて、醜くて、弱い。
 サヤは俺より背が低い。だからいくら足元を見ていても、近くに立つサヤには、俺の顔が見えている。情けない表情が、全部見られている。
 そして、サヤに握られている俺の手も、視界の中にあった。

「レイ、人はな、身体だけ怪我したり、病気したりするのんと、違うんやで?」

 そんな情けない顔の俺を見上げて、サヤが言うのだ。

「心かて怪我したり、病気したり、するんやで。筋肉疲労かて起こすんや。
 レイの心は沢山怪我してたんやし、癒すんに時間掛かってまうのは、仕方あらへん。
 せやのにレイは、全然休息取らんとひたすら酷使しとるから、あかんのんや」
「サヤ……意味が、全然、分からないよ……」

 意味は全然分からない。けれど、サヤの顔は優しく微笑んでいた。
 労わるような……慈しむような、たまに見せる、アミ神のような微笑み。
 包んだ手を、やさしい手つきで撫でながら、言い聞かせるように続けるのだ。

「休まへんから、あかんのや。休憩せな、あかん。なんもかんも一人でやろうとするし、休憩が出来ひんのんやで。
 ハインさんも、ギルさんも、私もレイが……一人で闘うとるのを見てるんは、嫌や。
 何もできひんのんは辛い……。もっと頼ってほしいて、そう思うてる……。
 レイは、一人で闘わんでええんやで?
 我慢したらあかんって、私には言うたやない。手伝わせてくれな、辛い」

 良いんだろうか……今でさえ、手を煩わせているのに。
 これ以上周りに頼って、許されるのだろうか……。
 サヤがいる間だけ、ここにいる時だけ……そう思って、良いのだろうか……。
 俺には、それを望めるほどの、価値があるのだろうか…………。

「良いのかな……。
 俺は……もっと自分で立たなきゃ……こんな弱いままで、更に頼って……そんなことで……」
「あんなぁレイ。レイはそもそもが、間違うとると思う」

 言い澱む俺の鼻先に、ぴっと、細い指が突きつけられた。指の向こうのサヤが、何か、不満気な顔で、俺を見上げている。

「レイは、闘うとる。一人でずっと立ち向こうとるやろ?それは弱いって言わへん」

 そう言った。

 サヤが扉の方を見て、俺の手を離したのがもう一瞬遅かったら、きっと動いてしまっていた。
 俺の前をすり抜けたサヤが、扉を開ける。お帰りなさいと、ハインを迎える。
 突っ立ったままの俺に、ハインが訝しげな視線をよこすが、俺も口元に笑みを貼り付かせて、おかえりと声を掛けた。
 やばかった……大間違いを犯してしまうところだった……なんとなく、雰囲気に飲まれそうになってた自分にびっくりだ。
 動かしかけてた手の所在に困って、額を押さえた。余計なことを考えるなと頭に叩き込む。
 サヤのあれは慈悲なのだ。勘違いしてはいけない。
 サヤは誰にだってああするんだ。落ち込んだり、辛そうにしてたら、ああするんだよ。
 ルーシーにだって、バルチェ商会の息子にだって、刃物を持った街人にすら分け隔てなく、サヤは優しいだろ。だから勘違いするな。
 サヤの特別は、カナくんにあるのだから。
 そう考えると、気持ちの高揚も一気に鎮火する。
 もう特別は決まっているのだから、俺が入る余地など無いのだ。
 そんな風に、自分に言い聞かせながら、それでも俺の心は救い上げられていた。

 それは弱いって言わへん。

 そうなのだろうか……。
 少しは頑張っていたのだと、誇っても良いのだろうか……。
 サヤがそう言ってくれたから、少し自分を認めても良いような気持ちになっていた。
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