7日間彼氏

里崎雅

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2巻

2-2

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   2 離れていても ~美雪~


 地元の駅で降りてからバスに乗り、見慣れた実家へと辿たどりつく。玄関の前には車が停まっていて、それは両親が家にいることを示している。

(あ、お母さんかお父さんに駅まで迎えに来てもらえばよかった……)

 肩に食い込んだ荷物をよいしょと背負い直しそう思ってから、はたと気付く。電車の中でも大輔のことに想いをせるあまり、帰省する時間の連絡をすっかり忘れていた。慌てて携帯を開くと何件かメールが来ていて、それはすべて母親からだった。少しだけバツの悪い思いで玄関のドアを開ける。

「ただいまー」
「あら、美雪? もう帰ってきたの? 駅まで迎えに行くって何回もメールしたのに」
「ごめーん。連絡するの忘れてた」

 居間から顔を出した母親に軽く謝りながら靴を脱ぎ、スタスタと家の中に入って荷物を置いた。カバンの中には、駅まで送ってもらった時に大輔から持たされた両親への手土産もある。

「お父さんは?」
「近所のホームセンターの初売りをのぞいてくるって出かけたわ。そうそう、美雪にお土産があるのよ」

 昨日まで両親は二人きりで温泉旅行に行っていた。たまに帰省した娘に、帰ってきて早々で渡すこともないのに、と軽く苦笑しながら差し出された包みを受け取る。中身はどうやら入浴剤のようだ。

「ありがとう。温泉はどうだった?」
「久しぶりにお正月にゆっくりできて、最高だったわよー! 美雪もお友達と楽しく年越しできた?」

 まあ、うん――と軽く言葉をにごしながら、大輔から持たされた紙袋を母親に差し出した。

「あー、あのー……お母さん、これ、お土産」
「え? 何? 美雪もどこか行ってたの?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど」
「どこのお菓子?」
「どこって……場所はわかんない……」
「場所はわかんないって、あなたが買ってきたんでしょ?」

 母親は受け取った紙袋を広げ、中を覗いた。

「これ、和菓子? もしかして、わざわざお土産を買ってきてくれたの? 美雪も社会人らしくなったじゃない!」

 黙って受け取ってくれたら、そのままうやむやにできるかも……なんて気持ちも少なからずあった。しかし、美雪の手土産だと勘違いして嬉しそうな顔の母親を見ていると、いたたまれない気持ちになる。

「違う、それは私からじゃなくて、持たされただけだから。ご、ご両親にって……」
「はあ?」

 きょとんとした顔で、母親は美雪を見上げた。

「ご両親に? どうして? 美雪の上司からとか?」

 うっと言葉に詰まる。昔から、無駄なところでカンが鋭い母親だった。上司であることには間違いない。でもこの状況で、それは正解とは言えない。

「合ってるけど違う……。それ、彼氏から」
「は? 彼氏? 誰の?」
「……この話の流れで『誰の?』はないでしょう」

 呆然としたままの母親の隣をすり抜け、キッチンへと向かう。冷蔵庫を開け、お茶を取り出したところで、母親の驚いた声が背中に降りかかる。

「彼氏!! 美雪、彼氏できたの? 誰? どこの人よー?」
「……疲れたから、ちょっと部屋行く!」

 母親の質問から逃げ、お茶を持ったまま二階の自分の部屋へと飛び込んだ。階下からは、まだ母親が何か呼びかける声が聞こえる。

(両親に彼氏のことを話すのって、こんなに照れくさいもんなんだな……)

 初めての経験に戸惑いながら、ドアに背を預けてため息を吐いた。
 買い物に出かけていた父親が帰宅すると、美雪への質問責めはさらにヒートアップした。一人っ子ということもあり、両親の干渉を時々過剰に感じることもあったが、今回は格別だ。照れくさくて美雪がはっきりと答えないことに、父親はみるみる不機嫌になった。

「美雪、明日は何時に帰るつもりなんだ?」

 久しぶりに三人そろって夕食を囲んでいる時、唐突に父親が言いだした。

「特に決めてないけど。午前中はこっちでゆっくりして、午後くらいかなあ」

 あまり早くに帰るのは両親に悪いが、大輔にも会いたい。夕方までに帰れば、夜に一緒に食事できるかもしれない。そう思って密かに顔をほころばせた美雪に気付いたのか、父親の眉間のしわが深くなった。

「明日はお父さんが車で送っていく。マンションまで行ってやるから、それなら遅くなっても大丈夫だろう」
「え、でも」

 思わず箸を持つ手が止まる。

「困ることでもあるのか?」

 父親の横で、母親がパチパチと目配せをした。父の機嫌を悪くさせるな、今回は送ってもらえとその目は言っている。

「ううん、困らないよ。送ってくれたら助かる……」
「じゃあ、夜ご飯はうちで食べるといい。その後、送ってやるから」
「うん……ありがとう……」

 大輔と会えるのが一日延びるくらい、なんでもない。これも親孝行、そう自分に言い聞かせてみても寂しい気持ちはぬぐえず、すっかり気落ちしてしまった。機嫌のよくなった父親からの質問をかわしつつ、ノロノロとお風呂を済ませて自分の部屋へと戻る。

「やっぱ『好きな人がいる』っていうのと『彼氏ができた』ってのでは、親にとっては全然違うのかなあ……」

 元々母親とは友達のように仲が良く、高校生の頃までは、好きな人のことを話したりしていた。多分、その話は父親にも筒抜けだったと思う。しかし茶化されることもなければ問い詰められることもなく、ごく普通に接していてくれたのに。
 無意識に携帯を手に取り、大輔は何をしているのだろうとぼんやり思う。

(電話、してみようかな。いつでもかけてこいって言ってくれたし……)

 壁にかかった時計に目をやると、時刻は二十三時を回っていた。友達にかけるのなら、少し躊躇ちゅうちょする時間帯。でも、相手が彼氏なら、セーフなのだろうか。
 無難にメールにしとこうか、と思った次の瞬間、マナーモードにしたままだった携帯が突如手の上でブルブルと震えだした。

「わっ!」

 開いた画面に映るのは、『松沢大輔』の文字だ。じっくり三コール分、呆けたように見つめた後、慌てて通話ボタンを押して携帯を耳にあてた。

「もっ、もしもし?」
『よう。寝てたか?』
「どうしたんですか?」
『用がなきゃ、かけたらダメなのか?』
「いえ! そういう訳じゃ……」

 思いもよらないねたような言い方に、頬が熱くなる。駅で別れ際に、電話をしてもいいですかと聞いたのは美雪の方だったけれど、かけるだけの勇気はなかった。そんな自分を大輔が気遣ってくれた――なんて思うのは、都合が良すぎるだろうか。

『何してた?』
「特に何も。自分の部屋でぼんやりしてました。大輔さんは何してましたか?」
『実は今、帰ってきたばっかり。平岡と飲みに行ってたんだ」
「えっ、また今日も飲みに行ったんですか?」

 昨日も飲み会だったのに。もしかして昨日は飲み足りなかったのだろうか。

『しょうがないだろ。……お前がいないんだから』

 大輔の声が少しだけつやっぽく聞こえ、胸がドキンと鳴った。微妙な声色の変化に気付かないほど、鈍くはないと思う。けれど、まだその恋人の雰囲気には馴染めなくて、咄嗟とっさに話題を変えてしまう。

「そ、そういえば……お母さんが、お菓子ありがとうございますって」
『そう。なんて言ったの?』

 すんなりと美雪が変えた話題に乗ってくれたことに、ほっと胸を撫で下ろす。

「ちゃんと、彼氏からって言いましたよ」
『へえ、ちゃんと言えたんだ』
「それくらい言えます!」

 子供扱いされ少しだけムキになって声のボリュームが上がると、携帯の向こうからはくすくすと笑う声が聞こえてきた。

『じゃあ俺からも、「おせち美味しかったです」って伝えておいて』
「え」

 美雪はこれ以上、両親と彼氏の話をするのは遠慮したかった。わざわざこちらから蒸し返して、色々聞かれるのは耐え難い。

「……言えたら言います」
『ちゃんと言えよ』

 はぐらかすような返事をした美雪の意図は筒抜けだったのか、大輔に念を押され、思わず黙り込んだ。

『なんだ?』
「……大輔さんから頂いたお菓子を渡した途端、質問責めにあっちゃって、なんとか誤魔化ごまかし続けて部屋に逃げてきたところなんです。意外な反応で、こっちも戸惑っちゃって……」
『かわいい娘に初めて彼氏ができたんだから、聞きたくて当然だろ』

 かわいい娘というのはともかく、実家を出て一人暮らしをしている娘に初めて彼氏ができたとなると、心配するのは当たり前なのかもしれない。恥ずかしいから、できればもう少しだけ両親には内緒にしておきたかったのに、大輔にはそれを許さない雰囲気があった。

『ちゃんと話しとけよ。今後のためにも』

 その言葉には、彼の真剣な想いが込められているようだった。

「……はい」

 緩む頬を押さえ、ためらいながらもしっかりと返事をした。ふっと笑ったような吐息が耳元に小さく聞こえ、何故だかぞくっと総毛立った。この声を、もっと聞いていたい。

「あの……」
『なに?』

 ささやくような声が、また耳の奥に響く。何か言わなければ会話は続かない。会話が続かなければ、彼の声を聞くことはできない。わかっていても言葉が出てこなくて、沈黙してしまう。

『……どうした?』

 黙り込んだ美雪を促すような、低いけれど優しい声が聞こえて、思い切って口を開いた。

「あの、大輔さんの電話の声って、かっこいいなって思って……」

 わずかに息を呑む音が聞こえ、ほんの少しの沈黙の後、照れくさそうな声が届いた。

『そりゃ、どうも』
(あれ、もしかして大輔さん……照れてる?)

 八個も年上で、恋愛初心者の自分とは違い大人な彼。職場のデキる上司でもある大輔は、常に美雪にとっては隙のない存在だ。――そんな彼が、照れてる? 嬉しさが込み上げてきて小さく笑っていると、その後に言われた言葉にやられた。

『電話でお前の声を聞くのも、悪くはないけど……やっぱり会いたいな』

 破裂しそうになる胸をぎゅっと掻き抱く。

「そっ、それ……反則です……」

 はははっと高らかな笑い声が響いた。やっぱり彼にはまだまだ敵わない。

『明日、何時頃に帰ってくるんだ?』

 真っ赤になった美雪が見える訳ではないだろうが、さり気なく話題を変えてくれたことにほっとした。けれど、先ほどまでの父親とのやりとりを思い出すと気が重い。

「それが、ちょっと遅くなりそうで……。父親に、うちまで送ってもらうことになりそうなんです」
『なんで? 荷物でもあるのか?』

 いぶかしげな大輔の言葉に、慌てて弁解をする。

「いえ、あの、たまに、送ってもらうこともあるんです。正月休みで、父も暇みたいで……」
『そうか。それじゃあ次に会うのは会社でだな』

 あっさりと納得した大輔の言葉に、少しだけ落胆らくたんした。今すぐにでも会いたいと思っているのは、恋人同士になれたことに浮かれているのは、自分だけなのだろうか。

「そう……ですね」

 気付かれないように、そっと息を吐いた。

『いつでも会えるだろ』
「そうなんですけど……なんか昨日のことが夢みたいで、イマイチ信じられなくて」

 言ってから、少しあせった。「昨日のこと」とは想いが通じて彼女になれたことを指して言ったつもりだったけど、身体を重ねたことだと思われたらどうしよう。

「あっ、あの、昨日のっていうのは、べつにっ」
『……じゃあ、明後日の仕事、少し早めに来いよ』

 慌てる美雪の声をさえぎって、甘い声が聞こえた。

「えっ?」
『仕事始めでやらなきゃいけないことも多いし、俺は元々早く行くつもりだったから。無理にとは言わないけど……』
「いっ、行きます!」

 噛みながらも大声で返事をした自分が恥ずかしい。それを茶化すように、大輔が笑った。

『元気いいな』
「だって……少しでも早く会いたくて」

 これくらいの甘えは、許されるだろうか。耳に押しあてた電話の向こうから、大輔の息遣いが聞こえる。

『ああ……俺も。じゃあ、明後日の朝、会社で』
「はい。おやすみなさい」
『ん、おやすみ』

 通話を切った携帯を、ぎゅうっと頬に押し当てた。

「ああー! もう! 『俺も』って言ってくれた!! なんだか嘘みたい……」

 好きという気持ちが溢れる。ベッドの上でジタバタしながら、夢のような状況にひたった。
 興奮して、どうやら今日もゆっくり眠れそうになかった。



   3 予定外と予想外 ~大輔~


 あっという間に正月休みは終わり、仕事始めの日。長い休み明けの出社は、いつもなら少し気が重い大輔だが、今日は違っていた。
 美雪と一緒に帰れるだろうか。重役以外の社員は会社の駐車場を使えない。一日中パーキングに置くとお金もかかるが、それでも車で通勤することを選んだ。
 自分で思っている以上に、もしかしたら彼女にハマっているのかもしれない。
 フロアには案の定、一番乗りだった。暖房をつけたばかりでまだ肌寒い中、パソコンをつけてたまったメールをチェックする。今日は朝イチで会議もあるし、仕事は山積みだ。途中で買ってきた缶コーヒーを飲みながら、頭の中で一日の予定をたてていた。

「おっ、おはようございます」

 足音に気付き視線を上げると、タンブラーとバッグを片手に顔を赤らめた美雪がいた。

「ああ、おはよう」

 たった二日ぶりだ。それなのに、思わず彼女を見つめ続けてしまいそうになる。このままフロアにいてはマズい。

「藤崎、資料室につきあってくれ」
「はっはい!」

 デスクから立ち上がって声をかけると、荷物をデスクに置いた美雪が慌てて返事をした。フロアを出て大股で歩く大輔のうしろに、パタパタという足音が続く。振りかえりたい気持ちをこらえ、辿たどりついた資料室のドアを開けた。

「あの……?」

 先に入るように促すと、不思議そうな顔で見つめてくる。

「いいから」

 美雪に続いて大輔も中に入り、ドアを閉める。
 カチャリという音でドアにロックをかけたことに気付いた美雪が振りかえった。

「……主任?」
「大輔、だろ?」

 会社だから遠慮してそう呼んだのだろう。それは充分にわかっていたが、つい訂正してしまう。美雪の口から、自分の名を聞きたかったから。

「でも」

 美雪の言い訳を全部聞くことなく、あごに手をやり上を向かせると唇を重ねた。触れた唇からは、甘いコーヒーの味がする。わざとゆっくりと顔を離すと、真っ赤な顔をしながら美雪が抗議してきた。

「こっ、こんなとこで……」
「こんな時間に誰も来ない」

 まだ何かを言いたそうな美雪の口を塞ぎ、熱い舌を押し込んだ。資料室は各課から離れたところにあり、通勤時にわざわざここの前を通る社員はいないに等しい。そのことを知らない美雪がしきりに廊下を気にする様子に、嗜虐心しぎゃくしんがそそられる。

「んっ……」

 わずかに開いた美雪の口の隙間から、こらえ切れなかった甘い吐息が漏れた。唇の端からしたたりそうになった唾液を絡め取り、そっと胸元に光るネックレスに手を伸ばすと、美雪がびくりと身体を震わせた。額と額をつけて少しだけ口元に距離を作ると、焦点しょうてんの合わないとろんとした目が、ゆっくりと大輔の視線を捕らえた。

「あ、あの……大輔さ」
「時間、ないから」

 彼女の背中に手をまわし、さらに深く唇を重ねた。


「おはようございまーす」
「あけましておめでとうございます!」

 社員が続々と出勤してくる中、デスクで仕事を始めていると、大輔より大分遅れて美雪がフロアに戻ってきた。

「おはようございます……」

 上気した顔を見られないように時間までにゆっくり戻ってこいと言ったのに、慌てたようにフロアに足を踏み入れた美雪の顔は、ほんのり赤かった。一瞬大輔にうらみがましい目を向けた後、黙ってデスクにつく。その様子がおかしくて、ニヤニヤと口角が上がりそうになるのをこらえて唇を引き締める。

「会議に行ってくる」

 ファイルを脇にかかえてフロアを出て行く時にもう一度美雪に視線を送ると、うつむいた彼女の頬はまだ赤いままだった。
 新年早々の会議は、予想よりもさらに時間がかかった。次年度に向けての大きなプロジェクトとして、社内全体に新しいシステムが導入されることを告げられたのだ。その統括マネージャーに大輔が任命された。課長を通して以前から聞いていた話ではあったが、自分が責任者になるとは思っていなかったので驚いた。大がかりなプロジェクトのため、残業続きの日々になることは必至だ。大輔にとってはこれが、情報課に異動になってから一番大きな仕事になるかもしれない。
 仕事はやりがいがあるし、上司から頼りにされているのも充分にわかる。それでも、美雪と過ごす時間がしばらくはゆっくり取れないことが、ほんの少し残念だった。
 昼休憩をはさみながらの会議が終わった頃には、陽が傾いていた。当分の間はこんな日が続くかもしれないと思い、大きく伸びをしながら会議室を出て情報課のフロアに戻った。まだまだ仕事が残っている。

「お先に失礼します」

 ためらいがちにかけられた声に、パソコンの画面からハッと顔を上げた。少し不安そうな顔をした美雪が、こちらの様子をうかがっている。プロジェクトのスケジューリングに没頭してしまい、いつの間にか終業時間が過ぎ、社員もまばらになっていることに気付かなかった。

「ああ……お疲れ」

 ペコリと頭を下げてフロアを後にする美雪のうしろ姿を、少し切なく見送った。あくまで今は、上司と部下だ。二人の付き合いを隠したいわけではないが、美雪の性格を考えると大っぴらにするのははばかられた。総務課にいる大輔の元彼女が美雪に嫌がらせをしたこともあったし、他にもそんな女性社員がいないとも限らない。
 ため息をつきながら缶コーヒーでも買いに行こうと椅子から立ち上がった時、胸ポケットに入れていた携帯が震えてメールの着信を告げた。急いで携帯を確認すると、送信者は先ほど別れたばかりの美雪だ。

『お疲れ様です。今日は遅くなりそうですか?』

 少し考えてから、正直なメールを送る。

『ごめん。しばらくは残業が続くと思う』

 一緒に帰れたらとせっかく車で来たのだが、無駄になったようだ。ようやく始まった恋愛なのに、二人きりで会えない寂しさが頭をよぎる。でも仕事だから仕方ない。仕事人間と周りに言われている自分が、まさか仕事を邪魔に思う日が来るとは――。首をガシガシと掻きながら、フロアを後にした。


山田やまだ、このデータに目を通しておいて。あと各課のパソコンの配分台数、総務に確認しといてくれ」
「わっかりました~」
「課長、業者との打ち合わせに行ってきます」
「ああ、よろしく」

 慌しい一週間の最終日、金曜。各所に指示を出した後、自分も外出するためコートを手にフロアを出る。ちらりと美雪に目をやるが、仕事に集中しているのかその視線はパソコンに向かったままだ。美雪とろくな会話もできないまま、一週間を終えようとしていた。新しいプロジェクトが始まり、忙しいのは責任者の大輔だけではない。美雪も同じだ。お互いがお互いに気を遣って、眠る前に送り合うメールはいつも簡潔で、どうにももどかしい日々だった。

(今日……金曜日くらいは、少し早く帰ろう)

 まだまだ忙しい日々には変わりないけれど、今日くらいはいいだろう。会社の階段を小走りで下りながら、そう考えていた。
 打ち合わせが終わって会社に戻ると、大輔の机には書類が山積みになっていた。ため息が出そうになるのをこらえ、デスクにつく。提出された部下の書類のチェックなどをしながら黙々と作業をこなしていると、気付けば他の課との打ち合わせに行っている課長をのぞく全員が退社していた。課に戻った時にはいたはずの美雪も、いつの間にか帰っている。

「よし、ひとまず終了っと……」

 誰もいないフロアで、つい独り言が漏れた。ファイルを保存してふっと息を吐く。美雪は、もう家に着いているだろうか。
 仕事に追われ大した変化のない一週間だったが、話したいことはたくさんある。時間は遅いが明日は休みだし、少し顔が見たい。家に寄らせてもらおうか、それとも……
 そんなことを考えながら帰り支度を始めると、課長がファイルを抱えてフロアに戻ってきていた。

「松沢くん、今日の仕事は終わったのか?」
「お疲れ様です、課長。ひとまず今日のノルマは。まだまだやることは山積みですけどね」
「そうか。君には苦労をかけるなあ」

 デスクの上にきちんとファイルを並べ、課長にしては珍しく小さなため息をついた。

「ハードワークなのは、課長だって同じじゃないですか」
「いや、新システムの導入に関しては、君に丸投げしてるようなものだし……。どうだ? 軽く飯でも食べていかないか」
「えっ」

 書類を整理していた手を止めた。

「何か用事でもあったかな?」
「いえ。課長から誘っていただくの、珍しいなぁと……」

 誰もが認める愛妻家で仕事が終わると直帰が常の課長が、自分を食事に誘ったことに驚いた。どうしようか。こういう付き合いが大事なのは痛いほどわかってはいるが、正直疲れはピークだ。恋人になったはずの美雪とは会社以外で全然会えず、フラストレーションもたまっている。この時間からでは、食事だけで終わるという訳にもいかないだろう。

「何か予定があるのならいいんだが……少し、君にも話しておきたいことがあって」

 しかし、課長がそんな含みのある言い方をするのは珍しかった。何か大事な話があるのかもしれない。ほんの少し迷った末に、戸惑いながらも誘いを受けた。
 課長の運転する車で、会社から離れたところにある日本料理店へと案内された。カウンターに並んで座りながら、漂う香りに腹が鳴り、自分がかなり空腹だったことに気付く。

「君がウチの課に来てくれてもうすぐ二年だな。期待以上にがんばってくれてる。周りの評価も高いよ」
「ありがとうございます」

 控えめにそう言って、運ばれてきた生ビールに口をつける。冷えたビールが喉を通りぬけるのがたまらない。目の前に置かれた、からりと揚がった天ぷらに、遠慮なく箸をつける。

「うまいです!」
「そうか」

 課長が、にっこりと笑った。あっという間に天ぷらの皿が空になり、今度は煮魚がカウンターに並んだ。若い頃は洋食が好きだったはずなのに、年を重ねるごとにこういう和食が好みになっていく気がする。勧められるままに、今度は煮魚に箸をつけようとした。


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