2 / 12
二、差し入れ
しおりを挟む
- 二 -
放課後、教室掃除の当番を終えると一目散に地学教室に向かって天体観測の用意を始めた。まだ明るくて見えないので、いつものようにデータの整理をして、鉱物を磨いたりホコリを払い、ある程度日が暮れ始めたら観測を始める。今日も星の記録を整理していると、突然に顧問の藤原先生が何か持って来てくれた。
「ヤス、いるか」
ちょうど天体望遠鏡のドームにいたので先生が来たことに気がつかなかったが、先生が自慢の低い声で自分の名前を呼ぶので、来たことに気がついた。
「どうも先生」
自分は椅子を立って先生に軽くお辞儀した。先生はニコニコ微笑みながら僕の方へ忍び寄り、星のデータをじっと見た。藤原先生はいつも生徒の提出物にしろ、本にしろ、紙類はじっと見つめる癖があった。かつての文豪川端康成が人の目をじっと見つめる癖があったことは有名だが、先生もまさにそれだ。おまけに川端康成と同じように白髪の豊かな頭髪を持つため、理系教師なのに生徒に付けられたあだ名は「文豪」だ。僕は先生にあだ名をつけるなんて恐れ多くて到底できたもんじゃないが、
「観測に精が出るな、見つかったか?光の河とやらは」
僕は首を横に振った。
「そうか、まあ焦らずゆっくりやればいい。これ、差し入れだ」
先生の差し入れに思わず顔がほころんだ。藤原先生は生徒思いで有名で、よく差し入れをしてくれる。今回は……
「えっ、『和光堂』のチョコレートマフィンですか」
「そうだ。他の生徒はいないのか。残念だ。まあそいつらの分も取っといてやりなよ。それじゃ、頑張れよ」
先生はそう言って地学教室を出て行ってしまった。僕は興奮を抑えれられずにいた。松本城の南の通りにひっそりと建つ老舗の西洋菓子店の和光堂のマフィンは柔らかく、まろやかな味わいで知られていて主婦人気が高い。マフィンは水気が少ないとバームクーヘンのようにパサパサで食べにくいし、かといってやたらと水分が多いとベチャッとして食べたくない。でも、その点、和光堂のマフィンは程よい柔らかさと、そのシトシト感がたまらないのだ。嫌なマフィンは一口食べるともう飽きてしまうが、あのマフィンは一度食べたら病みつきになる。箱を開けた。チョコレートマフィンが部員の分入っていた。残りを地学教室の冷蔵庫に入れて、僕の分だけ皿に乗せた。そしてバーゲンセールで買ってきた紅茶を淹れると、ポットにお湯を入れて沸かし、沸騰するのを待った。お湯が沸くと、熱湯をポットに注ぎ、一度お湯を捨てた。ここが上手い紅茶を淹れるコツだ。ポットの温度が低いままだと、うまく紅茶が入らない。ポットを一度温めてから茶葉を入れ、そこに熱湯を注ぐのが美味しく淹れるコツだ。さらに、注ぐお湯も温度が低いお湯だと、味が上手く出ないし、香りも良くない。紅茶は香りが命だ。お湯の温度を上手く操ることができれば、僕ら高校生の飲むような安い茶葉でも上等の紅茶を淹れることができる。美しい女性には美しいドレスが似合うように、上等の菓子には上品なお茶がつきものだ。
お茶が入ると天体観測を中断して、マフィンと紅茶で午後のひとときを楽しむことにした。
まずはマフィンを一口。紙でできた型を丁寧に剥がし、嚙る。口に入れた途端、卵の豊かな風味と、しつこくない上品な甘さがふわっと口中に広まった。二口目。程よい柔らかさが僕を快楽へと導く。これこれ。この柔らかさだ。これ以上乾いていても、これ以上シトシトしていてもいけない。この味わいだ。ここでお供の紅茶を一口。紅茶の風味豊かなこと。とても安物とは思えない。もう気分はイギリスの貴族のようだ。紅茶の風味が飲むたびに鼻をくすぐる。その香りが僕を極楽にでもいるかのように錯覚させる。優雅な放課後。汗水流して校庭や体育館で運動する部活もいいが、お茶を楽しみながらのんびりと天体観測する地学部も悪くはないな。
マフィンを食べ終えると、お茶を飲み干し、再び天体観測の作業に戻った。星を見ながらも、まだ僕は至福のひとときの余韻を楽しんでいた。
放課後、教室掃除の当番を終えると一目散に地学教室に向かって天体観測の用意を始めた。まだ明るくて見えないので、いつものようにデータの整理をして、鉱物を磨いたりホコリを払い、ある程度日が暮れ始めたら観測を始める。今日も星の記録を整理していると、突然に顧問の藤原先生が何か持って来てくれた。
「ヤス、いるか」
ちょうど天体望遠鏡のドームにいたので先生が来たことに気がつかなかったが、先生が自慢の低い声で自分の名前を呼ぶので、来たことに気がついた。
「どうも先生」
自分は椅子を立って先生に軽くお辞儀した。先生はニコニコ微笑みながら僕の方へ忍び寄り、星のデータをじっと見た。藤原先生はいつも生徒の提出物にしろ、本にしろ、紙類はじっと見つめる癖があった。かつての文豪川端康成が人の目をじっと見つめる癖があったことは有名だが、先生もまさにそれだ。おまけに川端康成と同じように白髪の豊かな頭髪を持つため、理系教師なのに生徒に付けられたあだ名は「文豪」だ。僕は先生にあだ名をつけるなんて恐れ多くて到底できたもんじゃないが、
「観測に精が出るな、見つかったか?光の河とやらは」
僕は首を横に振った。
「そうか、まあ焦らずゆっくりやればいい。これ、差し入れだ」
先生の差し入れに思わず顔がほころんだ。藤原先生は生徒思いで有名で、よく差し入れをしてくれる。今回は……
「えっ、『和光堂』のチョコレートマフィンですか」
「そうだ。他の生徒はいないのか。残念だ。まあそいつらの分も取っといてやりなよ。それじゃ、頑張れよ」
先生はそう言って地学教室を出て行ってしまった。僕は興奮を抑えれられずにいた。松本城の南の通りにひっそりと建つ老舗の西洋菓子店の和光堂のマフィンは柔らかく、まろやかな味わいで知られていて主婦人気が高い。マフィンは水気が少ないとバームクーヘンのようにパサパサで食べにくいし、かといってやたらと水分が多いとベチャッとして食べたくない。でも、その点、和光堂のマフィンは程よい柔らかさと、そのシトシト感がたまらないのだ。嫌なマフィンは一口食べるともう飽きてしまうが、あのマフィンは一度食べたら病みつきになる。箱を開けた。チョコレートマフィンが部員の分入っていた。残りを地学教室の冷蔵庫に入れて、僕の分だけ皿に乗せた。そしてバーゲンセールで買ってきた紅茶を淹れると、ポットにお湯を入れて沸かし、沸騰するのを待った。お湯が沸くと、熱湯をポットに注ぎ、一度お湯を捨てた。ここが上手い紅茶を淹れるコツだ。ポットの温度が低いままだと、うまく紅茶が入らない。ポットを一度温めてから茶葉を入れ、そこに熱湯を注ぐのが美味しく淹れるコツだ。さらに、注ぐお湯も温度が低いお湯だと、味が上手く出ないし、香りも良くない。紅茶は香りが命だ。お湯の温度を上手く操ることができれば、僕ら高校生の飲むような安い茶葉でも上等の紅茶を淹れることができる。美しい女性には美しいドレスが似合うように、上等の菓子には上品なお茶がつきものだ。
お茶が入ると天体観測を中断して、マフィンと紅茶で午後のひとときを楽しむことにした。
まずはマフィンを一口。紙でできた型を丁寧に剥がし、嚙る。口に入れた途端、卵の豊かな風味と、しつこくない上品な甘さがふわっと口中に広まった。二口目。程よい柔らかさが僕を快楽へと導く。これこれ。この柔らかさだ。これ以上乾いていても、これ以上シトシトしていてもいけない。この味わいだ。ここでお供の紅茶を一口。紅茶の風味豊かなこと。とても安物とは思えない。もう気分はイギリスの貴族のようだ。紅茶の風味が飲むたびに鼻をくすぐる。その香りが僕を極楽にでもいるかのように錯覚させる。優雅な放課後。汗水流して校庭や体育館で運動する部活もいいが、お茶を楽しみながらのんびりと天体観測する地学部も悪くはないな。
マフィンを食べ終えると、お茶を飲み干し、再び天体観測の作業に戻った。星を見ながらも、まだ僕は至福のひとときの余韻を楽しんでいた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる