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どうして私なんですか、アシュレイ様
しおりを挟む一双の菫青色が、私を映してゆらゆら揺れる。
「エメ……その瞳の色は……確かにこの色だった……あの時、私が見た色……まさか君が、 ――」
「アシュレイ様、落ち着いてください」
空いている方の手でアシュレイ様の腕をぽんぽん、と軽く叩く。
「確かに私の目の色はこうですが、世界で一人しかいないという色でもありませんし、それに何より私のこの黒髪は地毛ですよ? 言っておきますが染めたりもしていません」
苦笑しながら指先で毛先を摘んでみせると、ようやくアシュレイ様が我に返ってくれた。
「……そう、だったね……、あの女の子は金髪だった。見間違いじゃないのが悔しいくらいだ……」
本当に悔しそうな顔をするので、私の苦笑は深くなる。
「紛らわしい色ですみません」
謝ると、緩く頭を振って、アシュレイ様は蕩けるような笑みを浮かべた。
「紛らわしくなんてないよ。 ……それにしても、ようやく見られたけどとてもきれいな色だ。光があたるとどこまでも澄み渡った空色で、光が当たらなければ空色が薄くなった上に少し灰がかって、まるで冬の空を凍らせたみたいな澄んだ色になるんだね。 ……どちらもとても美しい」
「…………っ、ど、」
「ど……?」
「どち…………あ、イエ……、その、 ……あ、アリガト、ゴザイマス……」
「ふはっ、なんでそんなにしどろもどろなの……かわいい」
目蓋の下をアシュレイ様の親指が、すり、と撫でたと思うと、悪戯するように耳朶をふにふに揉んで離れて行った。
触れられたところが熱い。そして未だ絡められたままの指と指、手のひらと手のひらが吸い付くようにぴたりとくっついて溶け合ってひとつになるんじゃないか、なんて…………ああ駄目だ、頭に花が咲いて馬鹿になりそう。 ……って、もうなってるかもしれない。
アシュレイ様の顔をぼんやりと見上げる。
不思議だな、と思う。
今までこんな熱い指も、甘く蕩けるような眼差しも、包み込むような声も、やさしい陽だまりみたいな微笑みも全部、 ……全部、知らなかったのに。
知らないままでもきっと私は、日々を楽しく暮らしていたはずなのに。好きな勉強をして、美味しい食事とお菓子に舌鼓を打って、多くはないだろうけど友人とお喋りに興じて、やがては故郷で仕事にやりがいを感じて、家に帰れば大好きな家族と過ごして。
そうやって、それなりに楽しくしあわせに。
なのに、もう。
そこにアシュレイ様がいないことが想像出来ない。
たった一週間。出会ってたったの。
アシュレイ様の全てを知るには少なすぎるその時間で、もうこんなにも離れ難くなっている。
本当に、信じられない思いだ。
まさか自分がこんなふうになるなんて思ってもみなかった。初めは逃げることで頭がいっぱいだったのになあ……。
何せ相手は王子様だし。婚約者と聞いても現実感なんて少しもなかったし。どこかで簡単に全部なかった事に出来るんじゃないか、って。
私がやめましょうと言えば、良かった私もそう思っていた、って言ってくれるんじゃないか、なんて。
そう思っていた時期もありました……。2日くらいは。
……短いね? いや、めちゃくちゃ短いね?
なにこのスピード感。早くない? 早すぎない? そして私、チョロすぎない?
あ、でも。
アシュレイ様は本当のところどう思ってるんだろう。今はこんなに甘々だけど……。
恐る恐るアシュレイ様を見上げて訊いてみる。
「あの、アシュレイ様」
「……ん?」
……くっ、甘い……っ。くっ甘だ。 ……ん? って言った。ん? って。 小首傾げながら声も表情も全部甘い……っ。
私の心臓よ、この糖分過剰摂取に負けるながんばれ……!
「アシュレイ様は、セレッサ嬢の件が片付いたらどうされたいですか? ……例えば、せっかく自由の身になれたわけですし、私たちの婚約も解消したいとか……どのみち正式な発表もまだしていませんから、今なら十分間に合う……か、と……っ、」
――いや、怖っ……!
にっこり笑顔が……笑顔の圧が……っ、怖っ……!
「エメは婚約を解消したいの……?」
目が笑ってないよ!? 初めて見た……目が笑ってないアシュレイ様……こわ……。ええ……聞いちゃ駄目だったのかなあ……?
心なしか部屋の温度まで下がった気がする。
とりあえず、力いっぱい首を横に振ってみた。
「イエイエ、そんな滅相もない」
「そう……………………良かった」
にっこり。 ……わあ……今度はちゃんと目が笑ってるう。 ……危なかった……色々危なかった……たぶん。
「エメが婚約を解消したいって本当に思ってるなら、もちろんその気持ちを尊重したいけど……したいけど、でも本音は手離したくない。絶対に嫌だ。我が儘だってわかってるけど、それでも。 ……エメ、私は今も、そしてこれから先も婚約するならエメが良い。 ――エメが良いんだ」
真っ直ぐと、真摯な瞳に射抜かれ、息を呑む。
僅かに開いた唇は戦慄いて、どうして、という言葉が音にもならずに喉の奥へ滑り落ちて行った。
どうして私なんですか、アシュレイ様。
自分でも顔がくしゃりと歪むのがわかった。
「私は……でも……、セレッサ嬢にも言われた通り、こんな……王子の婚約者にあるまじき格好で……」
「そう? その制服、エメによく似合ってるよ。それにエメは知らないかもしれないけどその制服姿、実は密かに人気なんだよね」
えっ? ……まさか。
とは思ったけど、狩人の如きご令嬢方のギラギラした視線と顔が脳裏に浮かぶ。
……アレか。
好意をいただけるのは純粋に嬉しいけれど、そこに妄想がくっついてくるのがなあ……でもまあ、本人にバレないようにしてくれれば良いか。
とはいえ。
「ですが、似合う似合わないの問題では……」
そうだよ。言わないと。話さないと。
そう思うのに、焦るばかりで舌がもつれたみたいになって言葉が出てこない。
口を開いたかと思えばまた閉じて。
話せ。話せ、あの事を。話さないと、取り返しがつかなくなる。アシュレイ様が後戻り出来なくなる前に。
なんで出て来ないんだ。話せば良いだけなのに。嫌われても、罵られても、話せば……、
――嫌いにならないで。
私は、アシュレイ様にだけは嫌われたくない。
話さなかった事で後から取り返しがつかなくなるなんて、そんなの考えなくてもわかるのに。ただ淡々と事実を告げれば良いだけなのに。
もし嫌われたら?
そう考えただけで、ざわりと背中が総毛立った。
怖い。アシュレイ様に嫌われるのが怖い。
だって。
私がアシュレイ様をどう思おうがそれは良いとして、まさかアシュレイ様が私を選んでくれるとは想定していなかったから。嫌われるか、良くてどうでも良い存在にしか見られないとばかり思っていたから。もしくは、毛色の珍しいのがいると、面白がって体の良い玩具扱いをされるものだとばかり思っていたから、いざその時が来ても、これ幸いとばかりにさっさと捨ててくれるだろうと、そう思っていたのに。だからまだ言わないでおこう、って。
なのに。
まさかあんなに誠実さを尽くして扱われるだなんて。優しく触れられるなんて。
そうして、まさかこんなにも自身が彼に心惹かれるだなんて、思わなかったんだ。
言わないでおこう、じゃなくて、言えなくなった。
だって傷つきたくない。傷つけたくない。
話さなかったら結局はアシュレイ様を傷つけてしまうかもしれないのに。そうなったら私だってセレッサ嬢と同じになってしまうのに。
やはりそれは駄目だ。それだけは。
アシュレイ様をこれ以上傷つけるのは駄目だ。絶対に。
言わなければ。と決意を固めて口を開く。
なんだか息苦しい。息が上手く出来ない。でも、言わなきゃ。
「アシュレイ様……あの……、私がなぜこういう格好をしているのか……説明を……」
させてください、と言う前に、ひゅ、と喉が鳴った。
――しまった。
しまった。しくじった。浅く空気を吸い込むばかりで上手く吐き出せない。これまで何度も経験しているのに、これくらいでは到底死ぬ事などないのに、一瞬で混乱に陥る。
怖い。死んだらどうしよう。死にたくない。
大丈夫、このくらいでは死なない。頭では理解しているのに息を吸い込む動作が小刻みになればなるほど混乱が強くなっていく。
目が霞む。目尻に生理的な涙が滲む。手の先が、頭の奥が痺れ、力が入らなくなって身体が傾いた。
「エメ……ッ」
背中と肩に温かな感触。
アシュレイ様が咄嗟に抱きとめてくれたようだ。
すみません、と言いたいのに息が苦しくて。苦しくて喉を掻きむしろうと爪を立てた時。
私の両手首をやんわり掴む温かな温度があった。
「エメ。 ――大丈夫。大丈夫だから。私がそばにいるからね。大丈夫だから、私の言う通りに」
どこまでもやわらかな音色で、がんばって目を開けて私を見て、と言われたのでなんとか目蓋をこじ開ける。目尻から涙が零れた。
「……今から私が背中を叩くからね。そしたら息を止めて。良いかい、息を止めるんだよ。 ――はい」
ぽん、と背中に手の感触。ぐ、っと息を止めると、
「上手だね、エメ。そのまま息を止めて。 ……苦しいね、でも大丈夫だからあともう少しそのまま……」
波が揺蕩うようなゆったりとした調子の心地の良い声が、耳から体の奥へとじわじわ浸透していく。
「次はゆっくり……ゆっくり息を吸って……。うん、そう、すごく上手だね。 ……ゆっくり。ゆっくりだよ……」
言われた通り、息を止めて、ゆっくり息を吸って。
どれくらい繰り返しただろう。
気づけば呼吸が楽になっていた。
アシュレイ様が、良かった、と囁いて、安堵の笑みを浮かべる。
すみませんとありがとうございますを言いたいのに、ぐったり脱力した私はアシュレイ様の腕の中でゆっくり意識を手放したのだった。
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