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21 修道院 3

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 どうしてわたくしにはお母様がいないのかしら。

 幼い頃のクラウディアがそれに気付き、羨ましく思ったのは、学友候補だという少女に引き合わされた時だった。
 その子は母親だという女性のドレスの影に隠れていて、女性は穏やかに女の子を見守っていた。

 母。クラウディアを産んだ人。その人がクラウディアが物心付く前に亡くなってしまった事は知っていたけれど、もし生きていたら、きっとクラウディアを甘やかし、優しくしてくれたに違いない。

 そう思うと、『お母様』という存在が欲しくて欲しくてたまらなくなった。

「ディートハルト殿下がフレデリカ妃を殺した」
「母殺しの第二王子」
「母の腹を食い破り出てきた生まれながらの咎人」

 そんな囁きが耳に入ったのはそれからで、幼いクラウディアは侍女を問い詰め、同母の弟の規格外の魔力が母、フレデリカを産褥死に追いやった事を知ってしまった。

 その時、小さなクラウディアの心に浮かんだのは怒りだった。

 そもそもクラウディアはディートハルトが好きではなかった。
 おねえさまおねえさまとクラウディアの後ろを付いて回り、遊びについていけなかったり、ゲームに負けては癇癪を起こし泣き喚く弟は、とにかく面倒で鬱陶しい存在だった。

 五回中三回くらいは仕方なく付き合ってやるのだが、その時は手加減をしてやらなければいけない、というのはクラウディアにとってはストレスだった。

 子供の頃は、どうしたって女の子の方が早熟で、身体も大きくなる。二歳の年齢差があれば尚更だ。

 積もり積もっていたディートハルトへの黒い感情は、フレデリカの死因を知った瞬間爆発した。

 いつものように、クラウディアにまとわりつこうとしてきたディートハルトに対して、

「お前のせいでお母様は死んだのよ! お母様を返して!」

 その言葉を投げつけた瞬間のディートハルトの表情は、今でも忘れられない。


   ◆ ◆ ◆


(嫌な事を思い出してしまったわ……)
 クラウディアはこめかみを揉んだ。

 ディートハルトへの悪意は、彼を陥れたい宮廷雀達のさえずりだった。
 当時の王宮は、次の王を誰にするかで割れていた。既に王太子として実績を積みつつあるユリウスを押しのけて、当代最高の魔力を持つディートハルトを王にすべしと強硬に主張する者たちがいた。
 クラウディアの生母フレデリカの外戚であるイルクナー家を中心とする派閥だ。

 派閥間の軋轢は容赦なくまだ幼かった王家の子供達にも牙をむき、その結果クラウディアは酷い事をディートハルトにしてしまった。

 そして、クラウディアが自分のあやまちに気付いた時には、姉弟の間には深い溝が横たわっていた。



「あの、大丈夫ですか、クラウディア院長……」

 沈黙したクラウディアを心配してか、アリーセがためらいがちに声をかけてきた。

 本当の名前はアリサというテラ・レイスの娘。

 どこかおどおどとした、小動物的な印象の娘だと思う。
 全体的に小作りな顔立ちは人形めいていて、二十歳という年齢よりも、五歳は若く見える幼い顔だ。

 話してみると年相応の知性と思慮が感じられ、そのアンバランスな所に目を惹かれた。
 どこか歪んだ所のあるディートハルトが執着するのも、何となくわかる気がする。

 テラ・レイスという出自も相まって、哀れだと思う一方で、自分がディートハルトを歪ませた理由の一つである事を自覚しているクラウディアは、罪悪感を覚える。

 それを振り払う為に軽く頭を振ると、クラウディアは席を立った。

「たくさんお話したらすこし疲れちゃったわ。喉も乾いた事だしお茶でも淹れるわね」
「手伝います」
「いいわ。気分転換のためにも自分でやりたいの」

 席を立ちかけたアリーセをクラウディアは制すると、壁際の茶器を収納している戸棚へと向かった。


   ◆ ◆ ◆


(このお茶……)

 クラウディアが茶葉にお湯を注いだ瞬間立ち昇った香りに。有紗は既視感を覚えた。
 ティーカップが目の前に置かれる。

「どうかした? このお茶の香りはもしかして苦手かしら?」
 いつまでもカップを手にしない有紗にクラウディアが尋ねてくる。

「いえ、あの……ディートハルト殿下がお好きだというお茶の香りに似ていたので……」
 有紗の言葉にクラウディアは僅かに目を見張った。

「そう、あの子が。このお茶はね、フレデリカお母様がお好きだったんですって」
 そう教えてくれたクラウディアの微笑みは寂しげで、とても印象的だった。


   ◆ ◆ ◆


 自分の部屋に戻ると、ビアンカとトルテリーゼが部屋中をひっくり返して、壁やら床やらに何やら不思議な文様をびっしりと書いていた。

「お帰りなさいませ、アリーセ様。申し訳ありませんが、今日はお昼までは寝室の方で過ごしていただけませんか?」
「何をされているんですか?」
「念の為の結界の強化です。三年殿下から逃げ切れたらいいんですけど、仮に見つかってしまった場合、お怒りになった殿下に修道院を破壊される恐れがありますので」

(うわぁ……)

 人間兵器のようなディートハルト相手に、果たして有紗は三年間逃げれるのだろうか。
 不安を覚え、有紗は内心で頭を抑えた。


   ◆ ◆ ◆


 若く綺麗で王女様であるクラウディアが、どうして修道院に入り聖職者となったのだろう。
 その疑問は案外すぐに解決した。有紗の部屋の結界の強化を終えた時に、トルテリーゼが教えてくれたのだ。

「有名な話ですので、一応あなたにお伝えしておきます。あの方を傷付けて欲しくないので」

 そう前置きした上で伝えられたのは、クラウディアが病気で夫を亡くし未亡人となったことと、自分自身も同じ病の為、身体が弱り子供が産めない身体になったという事だった。

「再婚のお話もあったのですが、ご夫君の事を深く愛されていたのでお断りになったのです。国王陛下もクラウディア様のご病気の事があったのでお許しになられました。クラウディア様が仮に御子を孕んだ場合、母体が持たないと言われております」

 魔障病、というのだそうだ。時折この世界で流行る伝染病で、魔力の高い者ほど症状が重くなる傾向にあり、仮に生還したとしても、この世界の人間が誰しも持っている、魔力を産み出す内臓器官に障害が残り、著しく魔力が低下する。

 現在のクラウディアは、全盛期の三分の二程度に魔力量が落ちているらしい。それでも二位貴族程度の魔力はあると言うことだが、王族としては不具、などと陰口を叩くものもいる為、聖職者の道に入ることをエルンスト王も許した。

(聞いておいて良かった)

 有紗は心の底からそう思った。知らないままだったら、意図せずクラウディアを傷付けてしまったかもしれない。


   ◆ ◆ ◆


 ディートハルトから贈られたバングルを使ってはいけない。また、探知阻害の魔道具も外してはいけない。そして、有紗の危機を感知すると、バングルに込められた護りの魔術が自動発動する為、静かに、怪我なく過ごす事。

 それが三年間ディートハルトの追求をかわすため、有紗に課せられた命題だった。

 バングルが発動しても、追われる前に逃げればいいのでは、という反論は即座に却下された。
 ディートハルトは遠距離転移の魔術が使える。
 普通ではありえない距離を、豊富な魔力を使って一瞬で転移する事が可能だから、バングルを使うということは捕まるのと同じ意味になるのだそうだ。

 ディートハルト側の動向は、エルンスト王が調査し、何か動きがあれば即座にクラウディアに連絡が来る事になっている。

 修道院にやってきたばかりの頃は、身構えながら生活していた有紗だったが、日々は静かに、平穏に過ぎていった。

 もっともその生活は楽ではなかった。

 その理由の第一は、クラウディアによる厳しい教育だ。まず第一に施されたのは三年を待たずディートハルトに捕獲された場合に備えての、女奴隷としての心得で、理想的な寵姫とはどうあるべきか、を徹底的に教え込まれた。

 主に従順で逆らわず、与えられるものの全てに感謝し享受する。

「例え夜、寝台の上で変態的な事を求められても逆らってはダメよ。例えばその、お尻を弄られたり、鞭で叩かれたり……痛い事や怖い事をされてもただ従順に受け止めるの。殿方の中には大変おかしな趣味を持つ方もいらっしゃるというから……あのディートハルトがそんな事をするとは思いたくないけど……」

 気品溢れる金髪美女が頬を染めながら告げる姿は、なかなかに衝撃的な光景だった。



 修道院での一日は、朝晩の祈り、クラウディアからの教育、そして修道院への奉仕活動で過ぎていく。有紗に割り与えられた奉仕活動は、魔力を使わなくても出来る農作業だ。
 土を起こしたり水をやったりするのは魔術で行うが、立派な作物を実らせる為の剪定をしたり日焼けを防ぐ為のカバーをかけたり、どうしても人の手が必要な部分というのはあり、そこを任された。

 農作業は気持ちを落ち着けてくれる。
 勉強と祈り、そして何よりも規則正しい生活の中で、有紗の体は本来のリズムと体力を取り戻していった。
 そして、遅れていた生理も再開した。
 本当は周期的に、ディートハルトの元にいた時にきていてもおかしくなかったのに、遅れていたのはストレスからだったようだ。
 こちらと地球人の間には子が出来た例はないと聞いていても、どこか不安だったので、心の底から有紗はほっとした。



 国王からの通信が入ったのは、そんな日々を送り始めて、約一ヶ月が過ぎた時だった。
 院長室に呼び出された有紗は、緊張の面持ちで通信機の前に座った。
 こちらの通信機は、音声のみをやり取りできるもので、電話機に良く似た形をしていた。受話器は電話のように一体型にはなっておらず、イヤホンとマイクに分かれていて、昭和初期の壁掛け式の電話や蓄音機に通じるような、レトロでアンティークな雰囲気の漂う機器だった。

「まずは初めまして、と言うべきだろうか」
 イヤホンからは、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。

「初めまして。国王陛下。アリーセ・ディア・ライアーです」

 通信が傍受される可能性があることから、本当の名前は決して口にしてはいけないことになっている。
 有紗は緊張しながらエルンスト王に与えられた偽名を名乗った。

「連絡が遅くなり申し訳なかった。公務が純粋に忙しかったのもあるが、まずはアレの様子を見てから、と思ってな」

 王直々の謝罪に有紗は恐縮してしまう。

「いいえ、国王陛下にも、クラウディア院長にも感謝しております。このような機会を与えてくださってありがとうございます」
「感謝してくれるのだな。そなたの置かれた状況は過酷なものであると言うのに。この世界はテラ・レイスにはとても厳しい」
「理不尽だと思います。でも、王族の方々の庇護には本当に感謝しています。……奴隷の中でもましなほうな扱いを受けてきたとは思っています」
「そうか……」

 呟くと、国王はしばし黙った。そして、

「アリーセ嬢には残念なお知らせだが、あれは今必死でお前を探している。軍務を与えているせいで、思うように捜索が進まず随分と苛立っているようだな。バルツァーが嘆いていた」
「そうですか……」
「そなたには何とか三年逃げ切って欲しい。そこならばそう簡単には見つからんだろうが……不穏な状況になった場合は、そこからの移動も起こりえることは承知して欲しい」
「はい。私も、貴族令嬢の身分が欲しいですから大丈夫です」
「うむ……今後、通信の時間はなかなか取れないと思う。あれに見つかるリスクがあるのでな。しかし今日は話せてよかった」
「こちらこそありがとうございます」

 それからクラウディアに変わるよう言われ、国王との通話は終了した。
 時間にしてほんの数分、それでも国王と直接話せた事は、有紗にとっても有意義だった。
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