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4巻
4-1
しおりを挟む風が吹くと周囲の木々が揺れた。
木の葉が擦れ合い、小気味のいい音を奏でる。
いつのまにか少しだけ伸びた自分の銀色の前髪を指で分けつつ、レオン・ハートフィリアは空を見上げた。
暗く、深い闇が広がっている。「まだ夜ではなかったはずだ」と少し不思議に思ってから今度は自分の目の前に広がる森を見た。
空とは反対に周囲は昼間のように明るい。木々や草花がほんのりと優しい光を放っているのだ。
それを見てまた少し不思議な気持ちになって、それから「これが精霊界か」と妙に納得する。
レオンは自分が生まれ育った世界、いわゆる人間界を旅立って精霊の住まう世界へと来ているのだった。
何故彼がここへ来ているのか。その理由を説明するには、まず彼が置かれている状況から説明する必要があるだろう。
◇
商業都市リーン。そこは王都に最も近い町であり、国の物流の中枢とも言える大きな町だった。ただ、今はそれだけではなく第一王子アーサー・デュエンとその弟である第二王子ヒースクリフ・デュエンの王位継承を懸けた争いの渦中にある町となっている。
その争いに巻き込まれたレオンは、実の兄アーサーに投獄され拷問を受けていたヒースクリフを救い出し、アーサーに手を貸す謎の魔法使いディーレインを退けて、リーンへと逃げ延びた。
魔法学院時代の先輩で、信頼のおける友人でもあるクエンティン・ウォルスの協力もあり追手からの追撃に対し、身を隠していたのだ。
当初はそのまま北の辺境の村まで逃げ、最悪の場合はレオンが国外逃亡した時に世話になった辺境国アルガンドまで亡命することも考えていたが、そうする必要はなくなった。
国内の各地から魔法使いたちがリーンに集まり始めたのだ。
彼らはヒースクリフがリーンに逃げ延びたという情報を聞きつけて集まってきた、魔法学院在学時にレオンやヒースクリフと共に学んだ級友たちだった。
その魔法使いたちに加えて、ヒースクリフを守るために集まった魔法騎士団のメンバーたちもリーン近くの森に待機している。
戦力で言えばアーサー派の人間たちと拮抗する状況になったのだ。
「僕はこれ以上逃げるわけにはいかない。これ以上兄上の愚行を放置はできない。ここで戦うよ」
リーンに集まった魔法使いたち、そしてリーンに住む町民たちの前でヒースクリフはそう決意を露わにしたのである。
リーンの住民たちのほとんどが、これから王位継承を懸けた争いの舞台として町が危機に陥ることを知っても町を離れようとはしなかった。
生まれ育ち、家もあるため簡単に捨てられないという理由もあったが、それだけではなく皆ヒースクリフの人となりに心を動かされたのだ。
リーンに逃げ込んで数日。拷問の傷が癒えないヒースクリフの代わりにクエンティンが根回しをして町の領主に話を通し、防備を固めた。
しかしその段階では多くの住民から不満の声が上がっていた。自分たちの故郷が戦場になるのかもしれないのだからその不満は当然のものだろう。
しかし、数日後ヒースクリフが歩けるくらいには回復すると、その不満の声は徐々に収まっていった。
ヒースクリフは町の建物一軒一軒を訪ね、頭を下げて回ったのだ。
それは王族としては前代未聞の行動で、ヒースクリフを支える貴族たちだけでなく町の住民たちも驚いた。
「すまない。僕がふがいないばかりに、国民に不安を与えてしまった。だが、兄を止めるにはこの町の協力が不可欠なんだ。どうか、どうか力を貸してくれないか」
そう言って頭を下げるヒースクリフはボロボロだった。歩く時にはフラフラで、今にも倒れてしまいそうだった。
時折兵士が肩を貸そうとするのだがヒースクリフはそれを断る。見かねたレオンが手を貸そうとするも、それも同様に断られた。
「ごめんよ、レオン。でも、これは僕が一人でやらなければならないんだ。王族として、次代のこの国を担う者として、誠意をもって国民と接したいんだ」
そう言って、何度も立ち上がりながら歩き出すヒースクリフの背中に心を打たれない者などいなかった。町の住民たちも含めてである。
王族に頭を下げられたら平民である町の人々は何も言えないだろう。だが、リーンの住民たちは決して不満を押し殺したわけではない。
ヒースクリフが何度目かに倒れた時、ついに一人では立てなくなった。それほどまでに彼はアーサーから酷い仕打ちを受けていたのだ。
そこに一人の幼い少年がやってきてたどたどしい言葉でこう言った。
「王子様……大丈夫?」
ヒースクリフは顔を上げ少年の顔を見る。
少年は手を差し伸べてヒースクリフを起こそうとした。
少年の母親だけでなく、町の住民たちにも緊張が走った。王族に対し、平民がそんなことをすればどうなるかはわかっている。「不敬罪」で投獄されるのだ。王族の気分によっては子供であろうと酷い仕打ちを受けることもある。
「ヒ……ヒースクリフ様! 申し訳ありません!」
母親らしき女性が頭を下げようとした。
しかし、その前にヒースクリフが少年の手を取った。
そして力なく笑い、
「ありがとう。助かったよ」
と言って立ち上がったのだ。
それは王都の王族の様子をよく知るリーンの住民たちにとって信じられないことだった。
そしてそれまで国王なんて誰がなっても同じだろうと思っていた住民たちが、ヒースクリフを信じるきっかけにもなったのだ。
◇
アーサー派の人間たちもヒースクリフがリーンに逃げ込み、そこで戦力を整えたことを察知していた。
王都にいたアーサーは自分に匹敵する力を蓄えていたヒースクリフを警戒し、容易に手が出せず、王都とリーンの町の僅かな距離でお互いにらみ合う状況となった。
アーサーが一番警戒していたのはヒースクリフが王都に強襲を仕掛けてくることだった。
負けるつもりはないが侮るつもりもない。ヒースクリフにはレオン・ハートフィリアという無視できない武器があるとアーサーは知っていた。
そしてアーサーがヒースクリフに手が出せなかったのと同じように、ヒースクリフが王都強襲に踏み切れなかったのにも理由がある。
それはレオンがリーンに着いてからずっと抱えていた不安と同じ理由だった。
「やっぱり……俺たちじゃ勝てないか?」
クエンティンが用意してくれたリーンの屋敷の一室で悔しそうに尋ねる親友のマークに、レオンは申し訳なさそうにしながらも頷いた。
「悪魔はやっぱりすごいよ。一人ずつの魔力量が既に桁違いだし、戦い方もより実践的で相当に手強い。僕だって苦戦するだろう。それに、向こうにはディーレインだっている」
レオンの懸念とはアーサー派に力を貸す謎の魔法使い、ディーレインと彼が手にした八人の悪魔たちの魂のことだった。
アーサー派についた人間の魔法使いたちとヒースクリフのためにリーンに集まった魔法使いたちの力は拮抗している。少なくともレオンはそう考えている。
それだけならば勝敗がどちらに傾くかはわからず、レオンたちにも勝機はあっただろう。しかし、その拮抗した状況を大きく覆してしまう可能性があるのがディーレインと八人の悪魔たちの存在だった。
強大な力を持つ者たち。
対抗するにはこちらも大きな力を持った魔法使いが必要である。
現状彼らと対等に戦えるのはレオンくらいで、それも一対一での話だった。
レオンはどうにか彼らを止める術はないかと思い悩んでいた。
マークは「自分が戦う」と言い出した。レオンの同級生であるルイズも、もう一人の友人であるオードもだ。
彼らは決して弱くない。
魔法学院での成績は優秀だったし、卒業してからも鍛錬を積んできた。
しかし、そんな彼らですら到底勝てないだろうと、直接戦ったレオンには感覚的にわかってしまったのである。
レオンは一度、ディーレインと戦って勝利している。
だがそれはディーレインの不意を上手くつけたことと、彼の動きをアルガンドで知り合った四人の精霊たちが止めてくれたおかげだ。
もう一度戦って、確実に勝てるという自信はレオンにはなかった。
「なぁ、そのアルガンド流の呪文の詠唱ってやつを俺たちに教えてくれないか?」
全員が沈黙し、重い雰囲気になりかけたところでマークがそう切り出した。
彼が話しかけた相手はカールというアルガンドの魔法使いで、レオンがアルガンドからリーンに来る時に手を貸してくれた男だ。
「そりゃあいいが、呪文で魔力を込めるっていうのはそう簡単な話じゃない。ただ言葉を並べればいいってわけじゃないからな。特に呪文なしで魔法を発動する文化を持つお前たちには違和感だってあるだろう。数日でマスターできるもんじゃないと思うぞ」
カールは部屋の壁にもたれかかり、腕を組んだまま答えた。
意地悪ではなく事実を述べたのだ。
その横にいた、同じくアルガンドから来た魔女のナッシャがカールの言葉を補足する。
「それに、呪文を覚えた程度であの者に対抗できるとは思えません。私は直接戦ったわけではありませんが、一目見ただけで勝ちを諦めるほどの力の差を感じました」
その言葉に再び沈黙の時間が流れる。
皆、どうしようかと悩んでいるのだ。
その時、急にレオンの胸が光り出し、四つの球が現れた。
球はふわふわと宙に浮かんでいたかと思うと、不意に人型に形を変える。
「何だ?」
マークが叫ぶ。その場にいた全員がその光に目を向けていた。
「イグニス?」
レオンが呟く。その姿はアルガンドで見た時よりも随分と小さかったが、火の精霊イグニスに間違いなかった。
「よう、レオン。また会えたな。といっても俺は本体じゃなく、お前に託した魔力の残滓みたいなものだけどな」
イグニスはそう言うとニカッと笑う。正確には炎で覆われているためにその表情は見えないのだが、レオンには笑ったように見えた。
「ディーレインを抑え込む時に君たちはもういなくなってしまったのかと思っていたよ」
レオンの身体から出てきたのはイグニスだけではなく、アルガンドでレオンに試練を与え、その対価としてレオンに力を貸してくれた他の精霊たちも一緒だった。
ディーレインとの戦いでレオンが窮地に陥った時、力を貸してくれた彼らは、レオンの身体の中から消えたように見えた。
しかし、実際はほんの僅かに魔力をレオンの身体に残し、アルガンドにいる本体との連絡の手段としていたのだ。
「さっさと準備しな。あの人はあまり待ってはくれないぞ」
いきなりそんなことを言うイグニスにレオンは首を傾げた。
「あの人? 準備って一体何の?」
レオンが問うとイグニスは答える。
「精霊界へ行く準備さ」
まだ状況が呑み込めないレオンたち。
動揺した声を発したのはカールとナッシャだった。
「人間を精霊界に?」
「そんな……まさか」
カールもナッシャもそう言ってイグニスに詰め寄る。
アルガンドには言い伝えがある。
アルガンドの地下深くには精霊界への入り口があるというものだ。アルガンドの魔法使いの間では、その入り口を守り、どんな人間であれ通さないというのが決まりだった。
それなのにイグニスがレオンを精霊界へ連れていくと言い出したので焦ったのだった。
しかし、イグニスの次の言葉を聞いて二人は何も言えなくなってしまう。
「これは精霊王様のご意志だ」
口をつぐみ黙りこくった二人を見て、まだ状況を完全に把握しきれていないレオンも「ただ事ではない何かが起ころうとしている」と察したのである。
◇
精霊界への入り口はアルガンドの地下にある。
その言い伝えは正しく、レオンたちはそこを通って精霊界にやって来た。
しかし、何もアルガンドまでの長い道のりを移動したわけではない。
イグニスたちがレオンの中に残した僅かな魔力を使い、アルガンドの地下深くにある精霊界への入り口まで魔法の道を作ったのだ。
それは精霊にしかできない移動魔法で、移動できるのも自分のいる場所から精霊界の入り口までという一方通行らしいが、一瞬でたどり着くことができた。
その魔法でレオンの中の精霊たちの魔力は完全に消えてしまったが、その代わりに入り口の前にはイグニスたちの本体が待っており、レオンたちを送り出してくれたのだった。
精霊界への扉を通ると不思議な感覚がレオンを襲った。
それはゆっくりと身体が何かに引っ張られるような感覚である。視界は暗く、何も見えない。ただ、下の方にぽつりと小さな光が灯っていることだけがわかった。
身体はその光の方へ引っ張られているようだった。
気がつけばレオンは森の中に立っていた。
精霊界の異質さと美しさにひとしきり目を奪われた後に、ようやくレオンは周囲を見渡し始めた。
レオンは一人で精霊界へ来たわけではない。
マークとルイズ、オード、それにヒースクリフも一緒だったはずだ。
しかし周りを見ても彼らの姿はない。全員が離れ離れになってしまったのか、それとも何かの間違いで彼らは精霊界へ来られなかったのか。
皆を捜すためにレオンは森の中を歩き始めた。
不思議な感覚だった。
ただ空気が澄んでいるというだけではなく、呼吸をするたびに魔力が満たされていき、戦いで傷ついた身体も癒されるようなそんな感覚。
「痛ってぇ。何なんだよ……」
少し森の中を歩くとマークと簡単に会うことができた。彼は地面に尻をつき痛そうに腰を擦っている。
レオンが近づくと彼もこちらに気づき、駆け寄ってきた。
「おお、レオン。良かったぜ、俺しか来てないのかと思った」
どうやらマークもここに来た時には既に一人だったらしい。いまだに腰を擦り続けるマークにレオンが尋ねる。
「腰、どうしたの?」
そう聞かれたマークは腰に置いた自分の手に視線を向けて、それから擦るのをやめた。
「ああ、何か落ちてくる時にぶつけたみたいでよ。でももう何ともないぞ」
マークのその言葉にレオンは首を傾げ、もう一度夜のように暗い空を見上げた。
自分たちはあそこから落ちてきたのだろうか、と考えて見るがやはりここに着いた時の記憶は曖昧でよく覚えていなかった。
落ちてきた感覚があるようにも思うが、そうではない気もする。
「どうしたんだよ、ぼーっとして」
マークに声をかけられてレオンはハッとする。
何だか不思議だった。精霊界に着いてから、意識がぼんやりとしてしまい考えが一つにまとまりづらいような気がするのだ。
「他の皆は?」
マークの問いにレオンは首を振った。
「そうか、じゃあ捜しに行かないとな」
そう言ってマークは歩き出し、レオンはその後をついていくのだった。
◇
「何で追いかけてくるのよ! 私たち何かした?」
走りながらルイズはそう叫んだ。
隣にいたオードは興味深そうに後ろを振り返りながらついてきていて、時折つまずき転びそうになっている。
「すごい! すごいよルイズ! あんな植物初めて見た。まさか自立して移動する植物がいるなんて!」
二人が走っている理由。それは彼女たちの後方数メートルにいる花のせいだった。
人の二倍はあろうかという巨大な花が二人を追いかけているのだ。
本来地中にあるはずの根を足のように使い、太くとげのある蔓を腕のように二人に向けて伸ばしている。
ルイズたちが森の中をどのように逃げようと、その花は追いかけてくるのだ。
「ほら危ないって、前見なさい!」
その植物に気を取られ、足元のおぼつかないオードをルイズが叱る。
それでもオードは花が気になるらしく、ついに地面に足を取られて転んでしまう。
「オード!」
ルイズは急停止して振り返り、それから自分の杖を抜いた。
ここは見知らぬ土地であり、自分たちは精霊王という人物に呼ばれて来た身。
下手に暴れるのはよくないだろうと魔法を使うのを躊躇していたが、そんな場合ではない。
彼女は杖を花に向けて魔法を発動する。
杖先から出た淡い光の球が真っ直ぐに飛び花に命中する。
花はそれまでの軽快な動きが徐々に鈍重になり、やがて動きを止めた。
「金縛り」の魔法である。ルイズはその隙にオードのもとへ駆け寄り、彼に肩を貸す。
「さあ、今のうちに逃げましょう。あの魔法はそんなに効果が長くないから」
そう言ってオードを立ち上がらせた後、二人は再び走り出そうとしたがその拍子にオードの鞄の肩紐がちぎれてしまい鞄が地面に落ちる。
「あっ」
短くオードが声を発した。
鞄の中にはオードにとってとても大切な魔法植物の種などが入っている。
ルイズに手を引かれてその場を離れたオードだったが、鞄がどうしても気になり目を離せなかった。
ルイズの言った通り「金縛り」の魔法はすぐに解けてしまい花はもう動き出していた。
足のような根がオードの鞄の前まで迫っている。
「ルイズ……あれ見てよ」
オードにそう言われてルイズは立ち止まった。
振り返ると花は二人を追いかけるのをやめて何かに夢中になっている。
ちょうどオードが倒れていた辺りだ。
「何? どうしたの?」
もうすっかり二人に興味をなくしたかのような花の様子に、ルイズは戸惑う。
その横でオードが何かを思いついたように手を叩く。
「そうか、栄養剤だよ! あの鞄の中には魔法植物の種をすぐに成長させるための栄養剤が入っていたんだ。あの花はきっとその匂いにつられて僕たちを追いかけていたんだよ」
オードの言った通り、花は鞄の中から栄養剤の入った瓶を見つけると蔓を使って器用に蓋を開けて中身を自分にかけている。
その様子は喜んでいるように見える。
呆れ半分とほっとした気持ち半分でルイズは息を吐き、それから無邪気に感心しているオードの方を見て小さくため息を吐いた。
「もっと早く気づいてよね」
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