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34.死神の父

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2024年1月1日 夕方

 ヴァイオリンとピアノが重なって、互いに競い合うようにワルツを奏でる。それが6時間以上、家の中に響いていた。しかし、そんな長時間に及んでいた練習を突然中止させたのは、父の倉科元くらしなはじめだった。
「どうしたの?」
 難しい顔で鍵盤を撫でる父を、潤は訝しんで訊ねた。すでに数百のダメ出しはくらっているつもりだったが、まだ足りなかったのだろうか。
「仕事だ……すまない、潤」
「えっ、今から?」
「ああ。悲しいことに、日本のどこかで大きな不幸があったらしい。しばらく忙しくなりそうだ」
——仕事って、死神そっち
 突然片付けを始める父親を眺めながら、潤はため息をついた。こうなっては、父を呼び止める手立てはない。ヴァイオリンの弓を下ろし、椅子に座った。
「忙しくなるって……しばらく帰ってこないの?」
「そうなるかもしれない。せっかくの正月に……帰ってきてくれたのに、悪いな」
 元は潤の頭を撫で、それから頬に触れた。父の手はいつも温かい。父は何かを言いたげに、じっと潤の瞳を見据える。それでも、潤は彼を見つめ返すことができなかった。
「父さん……俺」
「うん」
「……もうすぐ、その」
「分かってる」
 元は悲しげに笑った。普段表情に乏しい父がこんな顔を見せるのは、決まって呪いに関する話をする時だけだった。彼が過去に何度も潤に謝ってきたことは、潤の中で小さな水たまりのようなものを作っている。こんな呪いを受け継がせてしまってすまない、と。
「潤。演奏、かなり良くなったな。年末に帰ってきた時は酷かったのに」
「……そりゃどうも」
「あの時は何かあったんだろう。全く音楽に集中していなくて、練習でどうこうできるレベルではなかった。で、吹っ切れたのか?」
「うん」
 父の手が離れていく。潤はようやく笑みをこぼした。舌の上で言うべき言葉を転がしながら、慎重に選び取っていく。
「俺さ……好きな人、できたよ。その人が、一緒に呪いを解く方法を探そうって言ってくれたんだ」
 そう言った途端、背を向けようとした元が、ぴたりと動きを止めた。無表情ではあるが、目の色が暗くなっていた。
「そうか」
「……うん」
 にわかに空気が固くなる。潤は、自分が呪いを少しはポジティブに受け止められるようになったと言うつもりだったのだが、真意は伝わらなかったようだ。
 元はぎこちない動きで楽譜を束ね、テーブルの上に置いた。潤はまだヴァイオリンの弓を握ったまま、譜面台に視線を落とした。
「それで、何か手立てはありそうなのか?」
「さあ、どうだろう。でも、どうにもならなかったとしても、考える価値はあるよ。時間も無いけどね」
「父さんは、……お前がどうしようと、否定はしないぞ」
「うん」
「できれば、呪いを解こうとするより長生きして欲しいが」
「……そう」
 たった一人の息子に向かって言うのがそんな言葉か。しかし、音楽以外では口下手な父らしいといえば、らしい。
「父さんは……どうやって決めたの? 殺したんでしょ」
「……ああ。今俺が生きてるってことは、そういうことだな」
「どうやって?」
「父さんはお前みたいに優しくないから、相手のために悩んだりできなかったよ」
 元は防音室の扉に手をかけた。それから、しばらく逡巡したような素振りを見せる。潤は、相変わらず譜面台から目を上げられなかった。
「18の時にな。その当時の恋人と駆け落ちしようとしたんだ。彼女は元々体が弱かったが、俺と付き合うようになってから大病を患った」
「病死……したの?」
「そうだ。俺は彼女を救うこともできたが、そうしなかった。見殺しにした。それで呪いに許されるなんて、皮肉だったが」
「……そうなんだ」
 決していい話だとは言えない。それでも、父が自ら手にかけて殺したわけではないと知って、安堵している自分がいた。潤はゆっくり唇を噛む。決断を先送りにしている自分と、はっきり決断できなかった父。似たもの親子なのだと突きつけられたようだ。
 しかし元は、彼女を救わなかった自分を悔いているのだろう。そうでなければ、息子にこんな話はしない。
「潤、お前は」
 父の声色が変わった。潤はそっと顔を上げて、ようやく父の方をまっすぐに見た。
「お前は優しい子だ。誇りに思っている。悔いの無い方を選びなさい」
 元はそれだけ言うと、にこりともせずに部屋を後にした。重い扉が音を立てて閉まる。潤は、これ以上ヴァイオリンを弾く気分にはなれなかった。




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