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春と夏
18.汚点
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夕方になると、あっという間に暗くなった。もう初夏の頃ではあるが、やはり北の方は東京よりも日が短いらしい。屋内にいては気づかないが、きっと気温も少し下がっているのだろう。涼弥は喪服の準備を終えると、ハルの姿を探した。
「ハルさん、そろそろ……」
振り向いた先では、ハルが鏡に向いてネクタイを締めているところだった。涼弥は、思わず口をポカンと開いたまま、続きの言葉を忘れてしまった。ハルがタイを結んでいる姿を見るのは、初めてだったのだ。
すらりとした体型の彼には、フォーマルな服装がよく似合う。喪服は決して着飾るような代物ではないが、きっと彼はスーツもよく似合うのだろうと思った。
「あ……ごめん、もう終わる」
ハルは涼弥の視線に気がつくと、眉を下げて笑った。少し照れ臭そうだ。涼弥は慌てて目を逸らし、うん、と頷いた。
「ハルさんって、スーツとか着ることあるの?」
「ん? 最近は無いけど、昔は着てたよ」
「……社会人の時?」
「ふふっ、今も一応社会人だよ。新卒の時かな。それこそ、就活で」
「ああ……」
ハルの正確な年齢は知らないが、おそらく結構前の話なのだろう。彼はほんの一瞬、遠くを眺めるような目つきをした。それから、また涼弥に向かって微笑む。桜色の瞳がきらりと光った。
「今度スーツでデートしよっか?」
「えっ」
そうくるか、と思いながらも、涼弥は嬉しくなった。ハルはいつでも涼弥の望みを汲み取ろうとしてくれる。勿論、今の涼弥はそれを願っていた。
「そうだね。そういうお店行ってみたいな」
「ドレスコードがあるような」
「そう」
涼弥はこれまで、そうした所謂「高級料理店」に行ったことがない。けれど、ハルと一緒なら、そんな未経験の領域に飛び込んでみるのも悪くないような気がした。
「いいね。調べておくよ」
ハルはようやく鏡に向き直って、身支度を終えた。デートの話はさておき、これから向かうのは親戚の葬儀だ。こんなに優しくて美しい人を、自分の両親などに会わせてもいいものか、涼弥は酷く悩んだ。
きっとハルを前にしたら、涼弥の親たちはあれこれ質問攻めにするだろう。何かと人間の身分に拘泥る、賤しい人たちなのだ。一人息子の涼弥には関心を示さないくせに、他人を自分の物差しで測ることが大好きな——いや、涼弥のことも、他人と同じように要素でしか判断していないだけかもしれないが——品性の醜悪な人たちだ。
彼らは兎に角、他人を「人間」ではなく「情報」か何かだとしか思っていない。だから、涼弥は両親のことがずっと苦手だった。
「……行こっか」
涼弥がそう言うと、ハルは優しく微笑んで、涼弥の手を取った。
叔母の通夜は、札幌駅からほど近い葬儀場で行われた。涼弥が想定していたより、ずっと立派な式場だ。涼弥はなるべく目立たないようにと、ハルを連れてこそこそ入口に近づいた。受付に挨拶をして、会場に足を踏み入れるまで、常に誰かの視線が気になって仕方がなかった。
「緊張してる?」
ハルは涼弥を心配して、数分に一回似たような言葉をかけてきた。涼弥は毎度首を振って見せたが、その実かなり緊張している。式に対してではない。両親に何を言われるかを考えたら、憂鬱になってしまうのだ。
「あ」
涼弥は、ふと顔を上げた先に、見知った姿を見つけて全身を強張らせた。父親だ。
「ん?」
涼弥の様子に気づいたハルも顔を上げる。彼の目が、父の方に向くのが恐ろしかった。自分から誘ったくせに、こんな事を考えてしまうのが嫌になる。それでも、両親との関係の悪さは、涼弥にとって恥ずべき点の一つなのだ。
「大丈夫だよ、涼弥」
ハルは何を思ったか、涼弥の手を握ってそう言った。一体何が大丈夫だというのか。しかし、ハルの目を見た途端、本当に涼弥はなんだか大丈夫な気分になった。自分でもよく分からない。しかし、涼弥は突然自ら親に声をかける勇気が湧いてきた。
「父さん」
深く考える前に、涼弥は父親に声をかけていた。すると、先ほどは見えなかった母親も彼の後ろから顔を出した。会うのは、少なくとも東京に引っ越してから初めてだ。
「久しぶり……」
言葉に悩んだ挙句、涼弥は一言そう言った。両親も、反応に戸惑っている。ほんの僅かだが、確かに気まずい沈黙が生じた。
「ああ、涼弥。久しぶりだな」
父親はとても平坦な声でそう言った。数年ぶりの家族の会話とは思えない。母親に至っては、何も言わない。ただ黙って、涼弥ではなく、隣に立つハルの方を見ている。
「叔母さん……残念だったね」
一応気を遣って、そう言ったつもりだった。しかし、母親は予想に反して表情を歪めると、睨み付けるような勢いで涼弥を見た。
「ええ。でも、突然誰かに殺されるなんて、不吉だわ。あの子昔から変だったもの。一体どこで恨みを買ったのかしら」
母親が休みなくそう言ったので、涼弥は気が引けてしまった。こういうところが苦手なのだ。その場にいた全員が押し黙り、重い空気で喉を渇かせた。最悪だ。しばらくの沈黙の後、再び口を開いたのは母だった。
「ところで、そちらの方は?」
「あ、えっと……」
——ハルさんのことか。
彼女が品定めするような目をしているのが申し訳なくて、涼弥は堪らずハルの方を見た。しかし、ハルは少しも不快さなど見せず、穏やかな顔をしている。流石は、接客に長けた人だ。
「初めまして。この度はご愁傷様です」
「どうも。涼弥のお友達?」
「はい。……あ、いいえ。友達ではなく」
ハルがちらりと涼弥を見下ろす。言っていいのかどうか、訊かれているに違いない。涼弥は頷いて、ハルにアイコンタクトをした。
「俺の恋人で、ハ……」
「瀬名川夏樹と申します」
涼弥が言いかけた言葉を、ハルが遮った。涼弥は驚いてハルを見上げた。瀬名川……夏樹? 聞いたことのない名だ。しかし、今涼弥がそのことで口を挟むわけにはいかなかった。
「瀬名川さん、ですか。よろしくお願いします。うちの涼弥がお世話になっています」
「いえいえ、僕の方こそ、涼弥くんにはいつもお世話になっております」
ハル——いや、夏樹は、とても他所行きの綺麗な声で挨拶をした。涼弥は、自分の頭が突然心臓に変わってしまったのではないかという気がした。酷い動悸だ。
「失礼ですが、いつから付き合っているんですか?」
「最近付き合い始めたばかりです」
「そうですか。お仕事は何を?」
「都内のホテルで料理人を……」
別に彼は何も——悪くはない。ただ、涼弥が——信用されていなかったのだ。あれは彼の本名なのだろうか? 今まで何も教えてくれなかったのに——それとも、これも偽名なのだろうか? それにしたって、涼弥は彼のことをあまりにも知らない。知らないという事を、突きつけられた……。両親の方が、ずっと信用ならない人間なのに。
「涼弥? 大丈夫? 顔色が悪いよ」
「……うん。平気。じゃあ父さん、母さんも……またね」
すぐに背を向けた涼弥に、両親が何かを言ったが、涼弥の耳には届かなかった。何も聞こえない。耳がぼうっとして、水の中に落とされたような感覚だった。
「涼弥、気分が悪いんだったら外に……」
「平気だよ」
努めて平然とした声を出したつもりが、思ったよりも大きく、震えたものになってしまった。彼がとても動揺しているのがわかる。それでも、涼弥は自分の感情を落ち着ける事で精一杯で、彼に適切な言葉をかけることなどできなかった。
逃げるように歩き出した涼弥の後を、彼は不安げについてくる。
「ごめん。俺の名前、言ってなかったからだよね」
「…………」
「あれ、本名だよ。流石にここで源氏名を出すのは良くないと思って」
彼の言う通りだ。何も間違っていない。むしろ、両親相手に源氏名を名乗られていたら、金で結ばれた関係だと悟られていたかもしれない。そうすれば、彼がレンタル彼氏をしていることまで暴かれてしまう。そんな迷惑はかけられない。
「嫌だった? ごめんね……」
涼弥は夏樹に向かって精一杯微笑んで、首を振った。別に、謝って欲しくなどないのだ。何も申し訳なく思う必要などない。
それでも、涼弥はそれきり口を開く気力を失ってしまった。
通夜式は、気がついたら終わっていた。涼弥はただぼうっとして、故人に想いを馳せることもないまま、外へと向かった。最悪の気分だ。と、その道すがら、突然誰かが涼弥の重い肩を叩いた。ハルかと思ったが、違う。
「伊良くんだよな。久しぶり」
誰だ? 涼弥は咄嗟に考えた。涼弥とほとんど変わらない高さにある目は、青みがかったグレーに輝いていた。ウェービーな長髪はひとつに結われて、毛先が白に近い金色に染められている。
「故人のこと、残念だったね。君の親戚だとは知らなかった……」
「え……」
まじまじと顔を見る。中性的な、成熟した男というよりは少女を思わせるような可愛らしい顔立ちだ。しかし、眉間には神経質そうな皺が寄っている。見覚えがある。この人は……。
「御影先輩……?」
男——御影幸人は、ふと眉を下げて笑った。
「うん。憶えていてくれたか」
彼は、涼弥の高校時代の先輩だった。函館の高校で、卒業以来一度も会っていなかったが、涼弥の著作をずっと読んでくれている。そして、涼弥がミステリに興味を持つきっかけとなった人物でもある。彼は、高校生の頃から刑事事件の解決に非公式に貢献していたのだ。
「お久しぶりです。でも、どうして御影先輩がここに? お仕事ですか」
確か彼は、札幌にある大学に進学して、その後正式に探偵になったと聞いている。
御影はふっと強気そうな笑みを浮かべると、両手をポケットに入れた。
「故人の事件のことで、ちょっとね……知り合いの刑事に頼まれて、捜査に関わることになったんだ。だからご挨拶をしておこうかと」
「そうだったんですね」
事件の話題に触れられて初めて、涼弥は少し気分が明るくなった。それを察したのか、御影は涼弥の肩を抱き寄せると、ニヤリと口角を上げた。彼もまた、相変わらずのようだ。
「なぁ、こんなところで話すのもなんだし、食事でもどうだい? それとも、今夜は先約があるかな」
「いえ、ないです。先輩、俺でいいんですか? 行きましょう! ぜひ」
涼弥は後ろにいたハルを一瞥したが、すぐに御影に向き直った。今は少しだけ、ハルと距離を置きたかった。彼が僅かに表情を曇らせたことに、気がついてはいたが、撤回するつもりはない。
「俺の友人も一緒でもいいかい? 悪い人じゃない……」
「御影先輩の友達? 男ですか?」
「ああ、もちろん。構わないか?」
「はい」
今晩ハルと2人で過ごすくらいならば、知らない人間を挟んででも、御影と話をした方がいい。それくらい、涼弥は心が荒んでいた。
「そちらの彼も、よかったら」
御影はハルの方を向いて、そう言った。彼がどうするつもりなのか、涼弥は気にもしなかった。来たかったら来ればいいし、来たくないなら来なくてもいい。涼弥には、彼の行動を縛り付ける権利などないのだ。
しかし、ハルは思いの外即決で、涼弥の期待を裏切った。
「お邪魔になっては悪いので。……涼弥、なんかあったら呼んで。気をつけてね」
ハルはそう言うと、一人でさっさとホテルに戻ってしまった。
「ハルさん、そろそろ……」
振り向いた先では、ハルが鏡に向いてネクタイを締めているところだった。涼弥は、思わず口をポカンと開いたまま、続きの言葉を忘れてしまった。ハルがタイを結んでいる姿を見るのは、初めてだったのだ。
すらりとした体型の彼には、フォーマルな服装がよく似合う。喪服は決して着飾るような代物ではないが、きっと彼はスーツもよく似合うのだろうと思った。
「あ……ごめん、もう終わる」
ハルは涼弥の視線に気がつくと、眉を下げて笑った。少し照れ臭そうだ。涼弥は慌てて目を逸らし、うん、と頷いた。
「ハルさんって、スーツとか着ることあるの?」
「ん? 最近は無いけど、昔は着てたよ」
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「ふふっ、今も一応社会人だよ。新卒の時かな。それこそ、就活で」
「ああ……」
ハルの正確な年齢は知らないが、おそらく結構前の話なのだろう。彼はほんの一瞬、遠くを眺めるような目つきをした。それから、また涼弥に向かって微笑む。桜色の瞳がきらりと光った。
「今度スーツでデートしよっか?」
「えっ」
そうくるか、と思いながらも、涼弥は嬉しくなった。ハルはいつでも涼弥の望みを汲み取ろうとしてくれる。勿論、今の涼弥はそれを願っていた。
「そうだね。そういうお店行ってみたいな」
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「そう」
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「いいね。調べておくよ」
ハルはようやく鏡に向き直って、身支度を終えた。デートの話はさておき、これから向かうのは親戚の葬儀だ。こんなに優しくて美しい人を、自分の両親などに会わせてもいいものか、涼弥は酷く悩んだ。
きっとハルを前にしたら、涼弥の親たちはあれこれ質問攻めにするだろう。何かと人間の身分に拘泥る、賤しい人たちなのだ。一人息子の涼弥には関心を示さないくせに、他人を自分の物差しで測ることが大好きな——いや、涼弥のことも、他人と同じように要素でしか判断していないだけかもしれないが——品性の醜悪な人たちだ。
彼らは兎に角、他人を「人間」ではなく「情報」か何かだとしか思っていない。だから、涼弥は両親のことがずっと苦手だった。
「……行こっか」
涼弥がそう言うと、ハルは優しく微笑んで、涼弥の手を取った。
叔母の通夜は、札幌駅からほど近い葬儀場で行われた。涼弥が想定していたより、ずっと立派な式場だ。涼弥はなるべく目立たないようにと、ハルを連れてこそこそ入口に近づいた。受付に挨拶をして、会場に足を踏み入れるまで、常に誰かの視線が気になって仕方がなかった。
「緊張してる?」
ハルは涼弥を心配して、数分に一回似たような言葉をかけてきた。涼弥は毎度首を振って見せたが、その実かなり緊張している。式に対してではない。両親に何を言われるかを考えたら、憂鬱になってしまうのだ。
「あ」
涼弥は、ふと顔を上げた先に、見知った姿を見つけて全身を強張らせた。父親だ。
「ん?」
涼弥の様子に気づいたハルも顔を上げる。彼の目が、父の方に向くのが恐ろしかった。自分から誘ったくせに、こんな事を考えてしまうのが嫌になる。それでも、両親との関係の悪さは、涼弥にとって恥ずべき点の一つなのだ。
「大丈夫だよ、涼弥」
ハルは何を思ったか、涼弥の手を握ってそう言った。一体何が大丈夫だというのか。しかし、ハルの目を見た途端、本当に涼弥はなんだか大丈夫な気分になった。自分でもよく分からない。しかし、涼弥は突然自ら親に声をかける勇気が湧いてきた。
「父さん」
深く考える前に、涼弥は父親に声をかけていた。すると、先ほどは見えなかった母親も彼の後ろから顔を出した。会うのは、少なくとも東京に引っ越してから初めてだ。
「久しぶり……」
言葉に悩んだ挙句、涼弥は一言そう言った。両親も、反応に戸惑っている。ほんの僅かだが、確かに気まずい沈黙が生じた。
「ああ、涼弥。久しぶりだな」
父親はとても平坦な声でそう言った。数年ぶりの家族の会話とは思えない。母親に至っては、何も言わない。ただ黙って、涼弥ではなく、隣に立つハルの方を見ている。
「叔母さん……残念だったね」
一応気を遣って、そう言ったつもりだった。しかし、母親は予想に反して表情を歪めると、睨み付けるような勢いで涼弥を見た。
「ええ。でも、突然誰かに殺されるなんて、不吉だわ。あの子昔から変だったもの。一体どこで恨みを買ったのかしら」
母親が休みなくそう言ったので、涼弥は気が引けてしまった。こういうところが苦手なのだ。その場にいた全員が押し黙り、重い空気で喉を渇かせた。最悪だ。しばらくの沈黙の後、再び口を開いたのは母だった。
「ところで、そちらの方は?」
「あ、えっと……」
——ハルさんのことか。
彼女が品定めするような目をしているのが申し訳なくて、涼弥は堪らずハルの方を見た。しかし、ハルは少しも不快さなど見せず、穏やかな顔をしている。流石は、接客に長けた人だ。
「初めまして。この度はご愁傷様です」
「どうも。涼弥のお友達?」
「はい。……あ、いいえ。友達ではなく」
ハルがちらりと涼弥を見下ろす。言っていいのかどうか、訊かれているに違いない。涼弥は頷いて、ハルにアイコンタクトをした。
「俺の恋人で、ハ……」
「瀬名川夏樹と申します」
涼弥が言いかけた言葉を、ハルが遮った。涼弥は驚いてハルを見上げた。瀬名川……夏樹? 聞いたことのない名だ。しかし、今涼弥がそのことで口を挟むわけにはいかなかった。
「瀬名川さん、ですか。よろしくお願いします。うちの涼弥がお世話になっています」
「いえいえ、僕の方こそ、涼弥くんにはいつもお世話になっております」
ハル——いや、夏樹は、とても他所行きの綺麗な声で挨拶をした。涼弥は、自分の頭が突然心臓に変わってしまったのではないかという気がした。酷い動悸だ。
「失礼ですが、いつから付き合っているんですか?」
「最近付き合い始めたばかりです」
「そうですか。お仕事は何を?」
「都内のホテルで料理人を……」
別に彼は何も——悪くはない。ただ、涼弥が——信用されていなかったのだ。あれは彼の本名なのだろうか? 今まで何も教えてくれなかったのに——それとも、これも偽名なのだろうか? それにしたって、涼弥は彼のことをあまりにも知らない。知らないという事を、突きつけられた……。両親の方が、ずっと信用ならない人間なのに。
「涼弥? 大丈夫? 顔色が悪いよ」
「……うん。平気。じゃあ父さん、母さんも……またね」
すぐに背を向けた涼弥に、両親が何かを言ったが、涼弥の耳には届かなかった。何も聞こえない。耳がぼうっとして、水の中に落とされたような感覚だった。
「涼弥、気分が悪いんだったら外に……」
「平気だよ」
努めて平然とした声を出したつもりが、思ったよりも大きく、震えたものになってしまった。彼がとても動揺しているのがわかる。それでも、涼弥は自分の感情を落ち着ける事で精一杯で、彼に適切な言葉をかけることなどできなかった。
逃げるように歩き出した涼弥の後を、彼は不安げについてくる。
「ごめん。俺の名前、言ってなかったからだよね」
「…………」
「あれ、本名だよ。流石にここで源氏名を出すのは良くないと思って」
彼の言う通りだ。何も間違っていない。むしろ、両親相手に源氏名を名乗られていたら、金で結ばれた関係だと悟られていたかもしれない。そうすれば、彼がレンタル彼氏をしていることまで暴かれてしまう。そんな迷惑はかけられない。
「嫌だった? ごめんね……」
涼弥は夏樹に向かって精一杯微笑んで、首を振った。別に、謝って欲しくなどないのだ。何も申し訳なく思う必要などない。
それでも、涼弥はそれきり口を開く気力を失ってしまった。
通夜式は、気がついたら終わっていた。涼弥はただぼうっとして、故人に想いを馳せることもないまま、外へと向かった。最悪の気分だ。と、その道すがら、突然誰かが涼弥の重い肩を叩いた。ハルかと思ったが、違う。
「伊良くんだよな。久しぶり」
誰だ? 涼弥は咄嗟に考えた。涼弥とほとんど変わらない高さにある目は、青みがかったグレーに輝いていた。ウェービーな長髪はひとつに結われて、毛先が白に近い金色に染められている。
「故人のこと、残念だったね。君の親戚だとは知らなかった……」
「え……」
まじまじと顔を見る。中性的な、成熟した男というよりは少女を思わせるような可愛らしい顔立ちだ。しかし、眉間には神経質そうな皺が寄っている。見覚えがある。この人は……。
「御影先輩……?」
男——御影幸人は、ふと眉を下げて笑った。
「うん。憶えていてくれたか」
彼は、涼弥の高校時代の先輩だった。函館の高校で、卒業以来一度も会っていなかったが、涼弥の著作をずっと読んでくれている。そして、涼弥がミステリに興味を持つきっかけとなった人物でもある。彼は、高校生の頃から刑事事件の解決に非公式に貢献していたのだ。
「お久しぶりです。でも、どうして御影先輩がここに? お仕事ですか」
確か彼は、札幌にある大学に進学して、その後正式に探偵になったと聞いている。
御影はふっと強気そうな笑みを浮かべると、両手をポケットに入れた。
「故人の事件のことで、ちょっとね……知り合いの刑事に頼まれて、捜査に関わることになったんだ。だからご挨拶をしておこうかと」
「そうだったんですね」
事件の話題に触れられて初めて、涼弥は少し気分が明るくなった。それを察したのか、御影は涼弥の肩を抱き寄せると、ニヤリと口角を上げた。彼もまた、相変わらずのようだ。
「なぁ、こんなところで話すのもなんだし、食事でもどうだい? それとも、今夜は先約があるかな」
「いえ、ないです。先輩、俺でいいんですか? 行きましょう! ぜひ」
涼弥は後ろにいたハルを一瞥したが、すぐに御影に向き直った。今は少しだけ、ハルと距離を置きたかった。彼が僅かに表情を曇らせたことに、気がついてはいたが、撤回するつもりはない。
「俺の友人も一緒でもいいかい? 悪い人じゃない……」
「御影先輩の友達? 男ですか?」
「ああ、もちろん。構わないか?」
「はい」
今晩ハルと2人で過ごすくらいならば、知らない人間を挟んででも、御影と話をした方がいい。それくらい、涼弥は心が荒んでいた。
「そちらの彼も、よかったら」
御影はハルの方を向いて、そう言った。彼がどうするつもりなのか、涼弥は気にもしなかった。来たかったら来ればいいし、来たくないなら来なくてもいい。涼弥には、彼の行動を縛り付ける権利などないのだ。
しかし、ハルは思いの外即決で、涼弥の期待を裏切った。
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