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春と夏

19.探偵と助手

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 御影に連れられて涼弥がやって来たのは、札幌駅を挟んでホテルとは反対側——北側にある居酒屋だった。居酒屋という名の割には比較的静かな、落ち着いた雰囲気の店だ。海鮮料理がどうのと、彼はまるで他人から得た情報を空で言うような口ぶりで語った。
 懐かしい先輩と久々に話せるのは確かに楽しみだったが、今の涼弥の心の中は、ハルに対する苛立ちと罪悪感で薄黒く塗りつぶされていた。
「有馬君という男が来るよ。もうすぐ着くらしい」
「有馬さん、ですか」
「うん。俺の大学時代からの友人なんだ」
「へぇ……」
 御影は涼弥の顔も見ずに喋る。ここへ着くまで、涼弥がほとんど彼の顔を見ようとしなかったからかもしれない。それでも、御影は少しも気分を害した様子はなかったが、涼弥の心は陰が増していく一方だった。
「彼なら君の悩みも解決してくれるかもしれない」
「へ?」
 御影が唐突にそう言うので、涼弥はつい気の抜けた声を上げた。悩みだなんて、一言も言っていない。どころか、今日涼弥が浮かない顔をしているのは、叔母が突然亡くなって動揺しただけだと、ついさっきうそぶいたばかりだ。
「おいおい、何を驚いているんだ。俺は人間観察のプロだぞ?」
「でも」
「残念ながら俺は、君が悩んでいることは分かっても、助言をしてやることができない。そういうのはの方が向いている」
 話しているうちに、2人は席へと案内された。薄暗いフロアの中、掘り炬燵になっているテーブルだった。
「さあ、好きなものを頼むといい。酒は好きか? この店は刺身と日本酒が美味いらしいぞ」
「えっ、いや……」
「ん? 不服だったか?」
「そういうわけじゃ」
 御影の勢いに圧され、涼弥はひとまずビールと、安価な刺身を頼んだ。空腹ではあったが、ハルもいないのに固形物を摂取する気分にはなれなかった。流石に先輩の前で酒ばかり呑み続けるような真似はしないけれど、早く有馬という男が現れてこの空気を壊してくれないかと、心の隅で考えた。
「御影先輩、ビールだけですか? 食細いんでしたっけ」
「そんなことはない。ただ、頼みたいものが……ああ、あった」
 御影は普通の食事ではなく、チョコレートの大量に入ったパフェを注文した。居酒屋で、しかも初手でパフェを頼む人間なんて見たことがない。しかし、涼弥は自分もハルが来るまでは碌な食生活を送っていなかったことを思い出し、余計なことは言わなかった。
「そういえば、先輩は甘いものお好きなんでしたね」
「うん」
 御影はとても嬉しそうに笑うと、長い前髪を耳にかけた。しばらく会っていなかったが、いい意味で昔と変わりないようだ。髪型や雰囲気こそ変わったけれど、子供の頃と同じ、とても純粋な目をしている。
——なんだか、動物園行った時のハルさんみたいだ。
——いや、違う。
 涼弥は首を振り、無理やりハルを意識から追い出した。
「ところで……叔母さんの事件って、どんなのだったんですか」
 言うと、御影は驚いたように目を丸くした。涼弥がいきなりその話題に触れるとは思っていなかったに違いない。それでも、ハルのことを考えまいとすると、こんな事しか話せなかった。
「事件、ね。聞いていないのか? 何も……」
「はい。今日到着したばっかで、親戚ともそんな話せてなくて……」
「そうか。……まあ、君はご遺族だし、俺から説明するのは、別に構わないが」
 彼の説明はこうだった。涼弥の叔母は、車両転落事故の現場で発見された。最初は事故死と思われたが、現場に駆けつけた警察はすぐに事件のにおいを嗅ぎつけた。なんでも、が運転していた車が、崖から転落したにも関わらず、彼女の遺体は車のトランクから見つかったというのだ。
 叔母本人が運転席に座っていたことは、当時の前方車両が設置していたドライブレコーダーや、彼女が亡くなる前に立ち寄ったサービスエリアの防犯カメラで確認されている。また、彼女が一人きりで外出していたという証言も複数上がっている。
 車からは彼女と、何度か乗車経験のある彼女の同僚、そして家族のものしか指紋が検出されなかった。事件当時、家族——つまり涼弥の母親は函館にいて、同僚も仕事中だったので、それぞれアリバイが成立している。自殺として片付けられそうになっていたところを、叔母の両親の訴えにより、御影の知り合いの警察官が刑事事件として捜査を巻き取ることになった——。
「概要はざっとこんな感じだな。さて、名探偵鈴未先生はどう推理する?」
 御影はとても挑戦的な目をしていた。もしかしたら、彼にはもうこの事件の謎が解けているのかもしれない。第一、彼の性格を考えたら、何かの推理に打ち込んでいる時に、他人の心配をする余裕なんてないはずだ。今こうして涼弥を気にかけているということは、謎はすでに解けているということに違いない。
「そうですね……これはあくまで俺の願望も混じった推察ですが」
 涼弥は姿勢を正し、真っ直ぐに御影を見つめた。ついさっきまで澱んでいた思考が、今はとてもクリアになっている。
「犯人は叔母自身ではないかと」
「……ほう?」
 御影は少し眉根を寄せた。
「そもそも、本当に他殺だったらそんなに周囲に目撃されるような真似しないと思うんですよ。わざわざ公共の施設に足跡を残したり、一人旅の目撃者を作ったり……。誰かに自分の跡を追わせるために、意図的に……つまり叔母自身が、誰かが自分を殺したと見せかけるために、その状況を作り出したように思えます」
「なるほどな」
 御影は掘り炬燵から足を引っこ抜き、胡座をかくと、「続けろ」と言った。とても楽しそうな顔をしている。
 涼弥は気恥ずかしさで笑ってから、わざとらしく口元に手をやった。
「コホン……では、俺の考えたトリックを。運転していたはずの叔母さんがどうしてトランクの中に移動したのかというと……」

「おまたせー」
 のんびりとした声が、2人の間に飛び込んできた。まさに謎解きをしようとしていた涼弥は、驚いて顔を上げる。すると、背の高い爽やかな顔つきをした男が、座敷の入り口に立っていた。
「ああ、有馬君」
 御影の呼び掛けに答え、有馬はすぐに靴を脱いで、こちらにやってきた。どこか遊びに出掛けていた帰り、といった風貌だ。栗色の髪は綺麗にセットされているが、わざとらしい整髪料のテカリはない。ファッション誌から飛び出して来たかのような服装も、アクセサリーも、全体的に華やかだ。涼弥がこれまで生きて来た中であまり接してこなかったタイプの人間だと、すぐに分かった。
 有馬は御影の隣に腰を下ろすと、涼弥に向かって微笑んだ。近くで見ると、途轍もなく明るいオーラを放っている。
「初めまして! お邪魔します」
「あ……初めまして。伊良涼弥です」
「うん。御影から聞いてるよ、伊良くん。僕、有馬です。よろしくね」
「はい」
 よろしくお願いします、と頭を下げた時、ちょうど注文した酒がやって来た。御影が有馬の分も頼んでいたので、ビールが3杯だ。
「あれっ。御影、今日は飲むんだ」
「まあな。君もビールで良かったか?」
「うん。ありがと」
 2人の自然なやりとりが目に眩しい。きっと涼弥は、ハルとこんな風にはできないだろう。 
 有馬は、画に描いたように整った目を、優しく細めて御影を見た。とても美しい笑顔だ。御影も昔から日本人らしからぬ美貌の持ち主だったけれど、彼と並ぶと本当に芸術品のように見える。2人を包む空気が、一層それらを強調している所為かもしれない。
——そっか。友達っていうか……。
 具体的な単語よりも先に、羨望や妬み、そうした類の「汚い感情」がふっと胸に沸き起こった。こんな醜いものは好きではない。涼弥は首を振って、すぐにその暗雲を払う。そんな自分は気持ち悪い。自分にがないからといって、彼らに当たるのは違う。
「大丈夫?」
 有馬の声に顔を上げる。彼は、涼弥にビールの入ったジョッキを差し出していた。それを受け取り、苦笑すると、爽やかな笑みが返ってくる。その笑顔が、一層涼弥を惨めな気分にさせた。
「乾杯でもするか」
 御影がそう言って、3人は軽くジョッキを合わせた。有馬は「お疲れ様」と言ってからグラスに口をつけ、勢いよく煽った。飲み方さえ清々しい。きっと、とても人から好かれるタイプの男なのだろう。
「ねえ、僕さ、さっき伊良くんの話遮っちゃったよね。ごめん。何話してたの?」
「あっ、いや、もういいんです。大した話じゃないので」
 もはや、羞恥で謎解きなどできたものじゃない。涼弥がふためいていると、御影が笑った。
「伊良くんの推理は面白かったよ。せっかくなら最後まで聞きたかったが……まあ、無理にとは言わない」
「やっぱり、間違ってました?」
「いや、俺の立てた仮説とは前提が違うってだけさ。まだ実証していないから、どちらが正しいとも言えない」
 彼のフォローに安堵したところで、有馬がえっと口を挟んだ。御影よりもよく通る、存在感のある声だ。
「なぁ御影、お前まだ実証してないって……遊んでていいの?」
「明日じゃないとできないのさ。長岡さんに手伝ってもらうからね。心配には及ばないよ」
「あぁ、そうなんだ」
 話しながら、有馬はどんどん酒を呑んだ。大学生みたいな男だ。涼弥はちびちびグラスに口をつけながら、御影と有馬を交互に見た。
「それで、伊良くん。さっきの彼……挨拶しそびれたけど、恋人かい? 彼と何かあったのか」
「えっ」
 あんな一瞬で、そこまで見抜かれていたとは。御影の観察能力を見くびっていた。涼弥は酒に咽せそうになって、咳払いをした。
「へぇ、伊良くん男と付き合ってんだ?」
 有馬のその言葉は、どうやら軽蔑の意味ではないようだった。彼ら2人を見れば明らかなことではあるが、彼のような所謂「陽」の人間にそんな風に言われるのは意外だった。
「おい、女の子を取っ替え引っ返している君が偉そうなことを言うなよ」
「ひどっ。最後に女の子と付き合ったの、3年前なのに」
「ふん」
 御影が顔を顰めてそう言ったので、涼弥は少し落胆した。もしかしたら、涼弥の思い違いで、有馬は異性愛者なのかもしれない。けれど、彼らが互いに向ける視線や、かける言葉の一つ一つは、まるで恋人同士のそれに思えてならない。
「まあいいじゃん。僕は性別とかじゃなくて、ちゃんと好きな人と付き合うのが大事だと思うよ」
「ちゃんと好きな人、ですか」
「うん。付き合ってから好きになれたらいいなぁ、みたいなの昔はやってたけどさ。やっぱ違うじゃん? なんていうの、幸福度が」
 ちょうどその時、涼弥の注文した刺身と、御影のパフェが運ばれてきた。有馬はとても爽やかな笑顔でそれらを受け取ると、きちんと礼を言って店員を見送った。できた男だ。涼弥にはそんな風に「いかにも善人」な行為ができない。
——俺も、この人みたいになれたらいいのにな。
 もし有馬だったら、ハルにあんな嫌な態度は取らなかっただろう。また暗い気持ちが涼弥の心に込み上げて、生き物のように蠢き始めた。
「御影、またパフェ頼んだの?」
「いいだろ別に。ほら、君も好きなのを注文しろ。俺には分からん」
「はいはい。伊良くん何が好き? ホッケとか食べる? 御影は飯食わないだろうから気にしなくていいよ」
「あ、俺はなんでも……」
 涼弥が本気で戸惑ってそういうと、意外にも有馬は驚いた顔をした。それから、御影の方をチラリと見る。
「僕、怖がられてる?」
「さあな。声が大き過ぎたんじゃないか?」
「あっ、それは……ごめん」
 有馬が本気で申し訳なさそうな顔をするので、涼弥は慌てて首を振った。今自分の頭の中にあることを、上手く言葉で説明できない。申し訳ないのはこっちの方だ。
「いきなり僕みたいのが来たらびっくりするよね。御影から、君が落ち込んでるみたいだって聞いてて……」
「いえ、有馬さんは何も」
 妙に緊張して、早口になってしまった。咳払いをして、ビールで喉を潤す。
「俺……こういう感じ、なので」
「ん?」
「こ、……」
 コミュ障なんです、と小さな声で言うと、有馬はまた目をぱちくり瞠いた。鳶色の瞳は、店内の照明を受けてきらきら輝いている。なんだか、まるで涼弥とは全然違う、もっと高尚で美しい生物のようだ。
 やがて、しばらくの沈黙の後、有馬の目がふっと柔らかく細められた。
「気遣いすぎると喋れなくなっちゃうよね、わかるよ」
 優しいんだな、と思った。彼はきっと、本当はとても高いところに存在する人物なのに、わざわざ涼弥のような者にも歩み寄って、下りてきてくれるのだ。それは、ハルとは違う優しさだと思う。
——そう、ハルさんは違う。最初から俺の隣にいてくれる。
 けれどハルは、優しいあまりに涼弥に気を遣いすぎて、それこそ何も言ってくれない。仕事だから、だろうか。それとも、涼弥のことをまだ信用していないのだろうか。少なくとも、有馬と御影のような関係には程遠いのだと、はっきり分かってしまった。
「はぁぁ……」
 大袈裟にため息をついて、涙を呑み込んだ。気を抜けば、すぐにでも泣き出してしまいそうだ。酒は苦いし、心は重い。今もしハルがそばに居てくれたら、なんて、利己的なことを考えた。

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